五、三人目の婚約者
「ミスティと呼んで下さい。カルセオ様」
ソファに座った女性はそうおっしゃいました。
「アナベル……君なのか?」
カルセオ様の問いかけに、ミスティ様は首を振りました。
「そうとも言えますし、そうじゃないとも言えます」
そして、どこか気だるげな瞳で、カルセオ様を見つめました。
「今日はあなたにお別れを伝えに来たのです」
「お別れだって?」
「私はアナベルです。でも、あなたと結婚はできません」
「それはなぜだい」
「では、逆にお聞きします」
ミスティ様は、ゆらりと首を傾けました。
「なぜ、そうまでして昔の婚約者にこだわるのですか。あなたと結婚したがるご令嬢は他にもたくさんいらっしゃるでしょう。アナベルを名乗ったというだけの得体の知れない女と結婚する必要などないのです」
「アナベルは私の初恋の人なんだ」
カルセオ様は、そう言って、目を伏せられました。
「私が守るべきだったのに、守れなかった。アナベルを失った日のことを今でも夢に見るよ」
「初恋は、実らぬものと申します。私は……私は、全てを諦めないと生きていけなかった。希望も望郷も切り離して手放さないといけなかったのです」
そして、ミスティ様は宙を見つめ、詩を唱えました。
私は一途に ただひとりの伴侶
あなたを愛する
ヤマモモの木の下で
あなたは移り気 花の色のよう
それでも愛する
雨に濡れた花の下で
「あの日、私が連れ去られた時が、全ての始まり、そして終わりだったのです。あなたと私の運命は、引き裂かれてしまいました。まるで割れてしまったカップのように」
ミスティ様は、どこか虚ろなご様子で、ぼんやりと私がお出ししたカップを眺めています。
カルセオ様は、戸惑いを押し殺すようにして身を乗り出されました。
「私の元には、アナベルを名乗る二人の女性が現れた。彼女たちは二人とも、自分こそがアナベルで、自分だけを選んで欲しいと言う。あなたは何故、彼女たちと違う事を言うんだい?」
「カルセオ様。どうか以前のアナベルを求めないで下さい。私はもう変わってしまったのです」
拐われ、売られ、身分も家族も婚約者も、そして自分さえも失ってしまったアナベル様。
「あなたが愛の詩集を送ったアナベルは、もうどこにもいないのです。割れたカップは元には戻りません。私は変わってしまったのです。あなたの愛した婚約者とは、もう別人なのです」
「カップが割れてしまったなら、割れた欠片ごと愛そう」
カルセオ様は、立ち上がり、ミスティ様に歩み寄りました。
「どうか、私の元を去らないでくれ。もう二度と、君を離したくないんだ」
そう言ってカルセオ様は、ミスティ様の手を引き、その胸に抱きました。
ミスティ様は、泣くことも笑うこともせず、ただカルセオ様の頬をそっと撫でられました。
「それはつまり、私が、三人目の婚約者になるということですか」
「誰にも文句は言わせない。それだけの財力が私にはある」
カルセオ様はミスティ様の手を握り、微笑みました。
「婚約者なんて何人いても良いじゃないか。私は王家の異端児らしいからな」
お二人の姿を見つめながら、私は決意を固めました。
今までは、カルセオ様を見守るのみ、それだけでした。
しかし——。
私の頭にあったのは、あの風変わりな吟遊詩人から聞いた『怪談』でございました。彼の話がこびりついて離れないのです。
知らぬ内に増えている誰か。
閉ざされた部屋の中、ぐるぐると周る若者たち。
カルセオ様も同じでございます。
三人になってしまったアナベル様。
今後も、一人、また一人と婚約者候補が増えていくかもしれません。
知らぬうちに増える婚約者たちの間を、アナベル様の影を追い求めて、ぐるぐると周り続けるカルセオ様。
その堂々巡りは、けっして終わらないのです。
全てはカルセオ様のためでございます。
私は、ずっとカルセオ様を見守って参りました。これまでも、そして、これからもでございます。
その日のうちに私は、婚約者の内のお一人を呼び出し、婚約者候補が増えたことを告げました。
もちろん、その方は、驚き、そして憤っていらっしゃいました。
「このままではカルセオ様は、周りの方から軽んじられ、立場すら危うくなります。そうならないためにも、婚約者は一人に絞って頂かなくてはなりません」
(カルセオ様を苦しめているのは、アナベル様、あなた方なのです)
「知らぬうちに人数が増えている。それはつまり、逆を申せば、知らぬうちに消すこともできるのではないでしょうか。人数を減らすのでございます」
私は、その方に申し上げました。
「他の婚約者候補を消すのです。それがカルセオ様のためになるのです。どうか考えてみてください。あなたの手で、恋敵を消してください」