五、捨てられた彼女
二週間前、赤い月夜の事だった。
あの日、僕は捨てられているティオーラを見つけた。
夜風が通り抜ける路地裏だった。
そこに転がる一人の女。
頭を打ちつけたのか、髪の毛に血がこびりついている。
やったのは、アングレだろう。
姑息で、気が小さく、刹那的な男。
アングレはそういう奴だ。
「だからやめとけって言ったのに」
僕がそう声をかけると、紅い爪がピクリと動いた。
彼女は生きていた。
「……なぁんだ……ネモか……」
ティオーラはそう言って、顔をしかめながら身を起こした。
「おい、大丈夫か?」
差し出した手は、ティオーラに振り払われた。
「やったのアングレだろう? あいつ、警備隊に突き出してやろうよ」
「ほっといてよ」
ティオーラはうめきながら頭の傷に手をやった。
「ちょっと喧嘩して突き飛ばされただけよ。お互い様ってやつ。だからほっといて」
「ほっとけないよ。あいつの事だ、おおかた、お前の事殺しちゃったと思いこんで、こんなところに捨てたんだ。わかってるのか?」
「何度捨てられたって、必ず戻ってきてやる」
ティオーラは、薄く笑った。
「あたしは何回だって戻ってくる。あいつにあたしは捨てられない」
「なんでわからないんだ!」
僕は、憤りをそのまま彼女にぶつける。
「あいつはティオーラのことなんか、これっぽっちも大切にしてない! いい加減、あんな奴やめとけよ」
僕は彼女の前に跪いた。
「僕にしておけよ」
彼女の瞳を見つめながら、僕は言った。
酒瓶、生ゴミ、酔っ払い。
路地裏には色んな物が転がっている。
こんな場所でと思ったけれど、大切なのは気持ちだろう。
「物語によくあるだろ。婚約者に裏切られ、捨てられるヒロインの物語。絶望の中、誰が彼女を幸せにする?」
ティオーラの好きな物語は、大抵、ヒロインが捨てられる所から始まる。
恋心も、努力も、献身も全て踏み躙られて、相手の男からあっけなく捨てられるのだ。
僕は彼女の手を取った。
「彼女を救うのは、第二の男だ。例えば元婚約者の兄弟。それから幼馴染。そして仲の良い友人。そういう第二の男に溺愛されるのが、よくあるハッピーエンドのパターンだろ?」
「随分と詳しいじゃない」
ティオーラの言葉に、僕は少し気恥ずかしくなる。
彼女の気を引きたくて、随分とそれ系統の物語を吟遊詩人に聞いて回ったのだ。
捨てられたヒロインが、彼女の本質を見てくれる男に溺愛されるラブストーリー。
「僕ならティオーラを大切に出来る」
「でも……」
言い淀むティオーラに、僕は腹がたった。
こんな目にあってなお、アングレに執着するその理由がわからなかった。
「これは、言わないでおこうと思ったんだが」
これを告げれば、彼女を傷つける事になる。
しかし、ティオーラの目を覚ますためには、伝えなければならない。
「あいつ、僕に金を借りてたんだ。試しに言ってみたんだよ。借金をチャラにしてやるから、ティオーラを僕にくれって。そうしたら、あいつなんて言ったと思う?」
ティオーラは、僕から顔を背ける。
「もう千ギルだ。もう千ギル積めば売ってやろうって、そう言ったんだ」
僕は、ティオーラの肩を抱いた。
ティオーラの肩が震えている。
捨てられても、売られても、何度でも戻ってしまう悲しい彼女。
「あんな奴、忘れてしまえよ。僕となら、ティオーラは幸せになれる」
そう言って、彼女首筋に口づけをしようとした、その時だった。
彼女は僕を突き飛ばした。
思わず尻餅をつく。
驚いて彼女を見上げた。
赤い月を背中に背負い、彼女の影が揺れている。
大きく肩を震わせて。
泣いているのかと思った。
しかし、そうではなかった。
「あはははははははははははははっ」
彼女は笑っていた。
嘲笑、という言葉がふさわしい、気に障る笑い方だった。
「これは、言わないでおこうと思ったんだけど」
嘲りを隠しもしない彼女に僕は戸惑うしかなかった。
彼女の目も口も、月の形に、にんまりと歪んでいる。
「その話、とっくにアングレから聞いていたのよね」
「……なん……だって……?」
「その千ギルで、いつもよりちょっといいお酒を買って、二人で乾杯したんだから。愛すべきネモに乾杯ってね」
ティオーラは、綺麗な細い指をヒラヒラと動かした。
「愛する女を金で買おうとする、そんな奴をどうやって愛すりゃいいの? ねえ。あたしさぁ、そういう奴大っ嫌いなの」
彼女の紅い爪が視界の隅でちらちらと動く。
それがやたら気持ちを逆撫でする。
「あんたとあたしの間に、赤い道筋は通ってないの。わかる? あんたは違う。アングレじゃない」
「僕のこと……」
酒瓶、生ゴミ、酔っ払い。
路地裏には色んな物が転がっている。
「後悔しないか? 僕の手を取らなかった事、後で後悔しても知らないぞ」
ティオーラは、僕の言葉を鼻で笑った。
そして、小さな小指を見せびらかすように立てて見せた。
「あんたに未練なんてこれっぽっちも湧かないわ」
僕は、それを聞いて少し微笑んだ。
そして、転がっていた酒瓶を拾い上げた。
大きく振りかぶり。
そして、振り下ろした。
何度も何度も何度も。
それが、二週間前のあの日の事。
ティオーラが消えた、月夜の事だ。
『銀葉亭』で奇妙な吟遊詩人から、不気味な物語を聞いた。
魔力と負の感情による呪いの話……『恨み』や『未練』があれば、死者の蘇りすら可能になる。
ティオーラは言った。
僕に未練などこれっぽっちもないと。
小指一本分すら、僕に未練など湧かないと。
そんな事あるはずがない。
ティオーラは僕が殺した。
僕の事を恨みながら死んだに決まってる。
きっと彼女は僕の元へ現れる。
それを僕はずっと待っている。
以前彼女が言っていた。
失せ物は、持ち主と赤い道で繋がっていると。
持ち主の『未練』が、道筋を赤く光らせるのだと。
彼女への赤い道は、誰とどうやって繋がっているのだろう。
女の恨みか。
それとも男の未練か。
二週間たっても、彼女は現れない。
僕は家の戸棚から、小さな包みを取り出した。
大切に持ち帰り、大事にしまってあった、彼女の美しい小指。
けれど、包みを開けると、中にあった筈のそれはいつの間にか消えてしまっていた。
彼女を埋めてある場所まで出かけ、切り取っては持ち帰る。
けれど、しばらくすると、指はどこかへ消えてしまう。
何度拾ってきても、いつのまにか消えてしまう。
僕は結局、小指一本分すら恨んでもらえなかったのだ。
彼と彼女を繋ぐ赤い道を、ただただ羨ましがる事しか出来ないでいる。
捨てても戻ってくる指輪——了——