四、何度捨てても戻ってくる
——コツーーン……
家に帰った途端気が抜けたのか、思わず持っていた指輪を取り落とした。
箪笥の下に入ってしまい、思わず顔をしかめる。
覗き込むために膝を折って屈み、手を箪笥についた。
角に出来た傷が目につき、心がささくれ立つ。
ため息をついた瞬間、箪笥の下から指輪が転がり出てきた。
思わずぎょっとして、指輪が走りを止めるのをじっと見つめる。
まるで自分から転がり出てきたように見えた。
気のせいだ。
ここのところ、気が滅入ることばかりだ。
「何度捨てられたって、必ず戻ってきてやる!」
二週間前、月が赤く浮かんでいた夜だった。
感情的になったティオーラに叫ばれて、俺は本当にうんざりしていた。
言い争いは何度もあったが、掴み掛かられたのは初めてだった。
爪が食い込み、このまま逃げられないんじゃないかと、恐ろしさすら感じた。
箪笥の傷も、その時できた。
「あたしは何回だって戻ってくる! あんたにあたしは捨てられない!」
まるで呪いの言葉だった。
いや、もはや呪詛そのものだったのだろう。
先程のネモの言葉ではないが、どうして俺なんかを好きでいたのだろう。
捨てたこともあれば、売ったこともあった。
それでも、俺のところに戻ってきた。
——指輪を戻したのは、その別れた女性なのでは?
ふいに、先程の吟遊詩人の言葉が蘇る。
全く、馬鹿な話だ。
そんなこと、できるわけがない。
死者が蘇って指輪を戻しに来る?
ティオーラにそんなことできるわけがないんだ。
吟遊詩人は、アンデッドについて、魔力の強い人間が、自分の身体に自分で呪いをかける、と言っていた。
ティオーラはただの占い師だ。
せいぜい失くし物を見つけるぐらいが関の山だ。
そうだ。
そんなこと、できるわけがない。
俺は、目一杯窓を開けた。
夜の喧騒が部屋の中に流れ込む。
俺は、窓の外に向かって指輪を放り投げた。
紅くきらめきながら指輪は弧を描き、そして消えた。
指輪は呪われていなかった。
死んだ彼女が蘇る事などない。
もう戻ってくるものは何もない。
俺は勢いよく窓を閉めた。
夜の賑わいを締め出した途端、急に、先程までビクビクしていた自分が馬鹿らしく思えた。
笑いが込み上げてくる。
きっと、あの妙な吟遊詩人の雰囲気にのまれてしまったのだ。
あの男、丁寧な物腰だったが、腹の底では、怯えてる俺を笑っていたかもしれない。
(去り際に、随分と変な事を言っちまったな)
——指輪に足が生えて、歩いてきたかもしれないだろう。
俺は何であんな馬鹿なことを言ったのだろう。
全く。
今日は、このまま早く寝てしまおう。
そう思った時、ふと妙な考えが頭に浮かんだ。
(身体の一部分——そう、例えば、足だけを蘇らせるとしたら、魔力はどれほど必要なのだろう)
——呪いというのは魔力の強さ、恨みの強さによって、どんなものにもかけることができるのです。
ダンジョンに行くような冒険者は、それこそアンデッドとして蘇る程の魔力があったのだろう。
だから死者になっても動くことが出来た。
では、足一本分動かすとしたら魔力はどれくらいいるのだろう。
腕一本分では?
手だけだったら?
いや、それよりももっと小さな、それこそ……
——コツーーン……
それは背後から聞こえた。
何度も聞いた音だ。
彼女が、指輪を取り落とす音。
ゆっくり振り返る。
見慣れた指輪は床で弧を描き、そのまま箪笥の方へ転がっていく。
俺に突き飛ばされたティオーラがぶつかった箪笥だ。
角の傷はその時出来た。
二週間前の赤い月夜、激情して掴みかかってきたティオーラの紅い爪が、俺の頬をえぐった。
傷から血が流れた。
だから、思わず彼女を突き飛ばしたのだ。
今まで、そんな事はしたことがなかった。
暴力なんて振るったことはなかった。
あの日が最初で最後だ。
彼女は箪笥にぶつかった。
箪笥には傷ができた。
そして彼女は二度と動かなかった。
ぐったりと床に倒れたままだった。
床には、あの日俺の頬から流れ落ちた紅い染みが二つ、そのままになってる。
だから、路地裏に捨てたのだ。
酔った女に肩を貸してやってるようなフリをして、彼女を運んだ。
酒瓶の転がる暗い裏通りに、捨て置いてきた。
彼女とは、それっきりだ。
先程と同じように、俺はかがみ込んだ。
ゆっくりと、箪笥の下を覗く。
暗闇の中から、コロ、コロ、と。
指輪が転がり出てきた。
俺はみじろぎできずに、闇を見つめた。
そして。
ああ、確かにティオーラは魔力があったのだ。
そう、それは指一本を蘇らせる、わずかばかりの魔力。
暗闇に浮かび上がったのは、白く蠢く一本の細い小指だった。
その紅い爪の先は、黒く汚れていた。
俺の頬を引っ掻いた時に付いた血なのだろう。
「何度捨てたって、必ず戻ってきてやる」
背中をつついていたのは、お前だったのか。
指輪を拾ってきたのは、お前だったのか。
彼女の恨みが、闇の中で指をくねらせている。
俺は膝をついたまま、それをじっと見つめていた。