一、顔のない化物
ある旅人の話です。
夜道を歩いていると、うずくまって泣いている女性がいたので、声をかけました。
「こんなところでどうしましたか」
女は泣くのを止め、顔を上げました。
旅人は驚きました。
女には、目も口も鼻もついていなかったのです。
「ば、ば、ばけもの!!」
慌てて逃げ出し、息も絶え絶えになって一軒の屋台に逃げ込みました。
「た、助けてくれ、大変なんだ!」
「どうしました、そんなに慌てて」
店主は仕込みの準備をしているようで、こちらに背を向けたままです。
「き、聞いてくれ!すぐそこに、ば、ば、ばけものがいたんだ」
「化物?一体全体、どんな化物がいたんです?」
旅人は、なんとか声を絞り出して言いました。
「顔だ!顔がなかったんだ!か、顔がない女が…女がそこにいたんだ!」
すると、後ろを向いていた店主が言いました。
「それは、こんな顔かい」
くるりと振り向いた店主には、顔がありませんでした。
旅人はそのまま気絶してしまいました。
——ベェェェン……
語り終えた黒髪の男が、抱えている楽器の弦を弾く。
すると、後ろに控えていた少女が鈴を鳴らした。
少女は白い前合わせの服に、赤い帯を締めている。手首と足首に、赤と黒の細い帯で鈴が結ばれていて、動くたびに軽やかに鳴る。
そしてそのまま、男は演奏を始めた。
空気を叩きつけるような弦の強い音色に合わせて、少女がくるくると舞い踊る。
鳶色の少女の髪がふわふわと揺れた。
少女の動きに合わせて、手首に結ばれた鈴が、シャン、シャンシャンと清廉な音をたてる。
演奏と舞いが終わり、二人がお辞儀をすると、観客は一斉に拍手を浴びせた。
カイエンはその様子を椅子に座ってぼんやりと眺めていた。
ここ『楽奏亭』は小さな舞台付きの酒場だ。夜は音楽を聞きながら美味い飯が食べられる人気店だが、今日のように流れの吟遊詩人が演奏や踊りを披露することもある。
(こんな妙な奴らが舞台に立ったのは初めてだな)
奇妙な話——吟遊詩人の話だと『怪談』というらしい。
特に今のカイエンにとっては心がささくれるような話だった。
「先程はありがとうございました」
そう声をかけられ顔を上げると、さっきまで演奏していた吟遊詩人の男だ。黒い髪に黒い瞳、黒い服を身にまとっている。
そして横から
「いや、本当助かったよ。あいつらしつこくてさ」
と少女が顔を覗かせた。
演奏中、鈴を鳴らしていた踊り子だ。今は衣装の上からローブを羽織っている。
「礼を言われるほどのことじゃない」
助けたと言っても、たいしたことはしていない。
吟遊詩人たちが舞台に立つと、たちの悪そうな奴らが下品な野次を飛ばしていたので、声をかけただけだ。
カイエンの赤い髪を見ただけで、ごろつきたちはひるみ、後退りのまま楽奏亭から逃げて行った。
——仲間殺しのカイエンだ。
——後ろから刺されちゃかなわねぇな。
そんな捨て台詞を吐かれたことも思い出す。
「そう言わずにさ、ここはおごらせてよ、ね?」
少女はそう言って、返事も聞かずにカイエンの横に座った。
「あたしはミミ。こっちは先生。あんたは?」
「カイエンだ」
先生と呼ばれた吟遊詩人の男も、椅子に座る。
「あんたら二人連れで旅をしてるのか」
「元々は一人旅だったのですが」
黒づくめの男は困り顔で言った。
「行きがかり上、なんとなくこの子を引き取る事になりまして」
ミミと名乗った鳶色の髪の少女は、嬉しそうに笑った。
「でも先生。あたしが演奏に加わって、前よりもお客が増えたでしょ」
「その先生というのもやめてほしいんですが」
(おかしな格好をした吟遊詩人。ひょろりと頼りなげで、その上、子連れか。そりゃあ絡まれるな)
俺は、楽奏亭のマスターの方をちらりと見た。
敢えて俺の方を見ないようにしているのか、様子が窺い知れない。
「あんまり、俺といるところを人に見られない方がいい。また変なのに絡まれる。何せ俺はこの町で『仲間殺し』で通っているからな」
吟遊詩人たちは顔を見合わせた。
「そういや、絡んできた奴らにも言われてたよね」
「もちろん濡れ衣だ」
俺は残っていた酒を一気にあおると言った。
「顔のない奴らに嵌められたんだ」
参考文献: 小泉八雲著「貉」青空文庫