お茶・裏
お茶・裏
茶碗を持ち、右手で右から左側に45度回す。これを二回繰り返し、正面から90度ずらしたところに口を付ける。
抹茶というと必ず『苦い』という印象を持っている人が多いが実のところ、良いお茶であれば私は『甘い』という印象を受ける。いわゆる『抹茶味』という食べ物は大抵、抹茶の苦みばかりを強調していて、はっきり言って美味しくない。
今日のお茶は良いお茶で、甘い。
趣味で茶道を始めた、と友人に言ったら、「すごいねー」なんて言われた。しかしなんの事はない。ただただ飲み物としての抹茶が好きなのだ。
今日の客は正客を含め6人。今の席で私は正客から数えて4人目、当然お茶の出る順番も4番目。
正客と半東が場を盛り上げるために会話を続ける。私は茶器の銘などには興味がない。このお茶の味、温度、香りが全てなのだ。
「それはお茶の醍醐味ではないと思うぞ」
同じくらいに教室に通い始めた男子の汐見君が私をお茶に誘った。彼は今日はいの一番に亭主として点前をし、その後半東、正客を務め、後は次客以下か、点て出しをしていた。
彼は、私が点前をあまりやりたがらなかったので、その理由を訊いてきたのだ。
「お説教は勘弁して欲しいのだけれど」
「いや、説教って訳じゃないのだけれど、君はどこか勘違いしている様な気がしてね」
私はもう返事をしなかったが、汐見君は気にせず続けた。
「僕は何も点前をやれ、って言いたいわけではないだ。僕だって半東なんかはできれば勘弁願いたい。正直茶器になんて興味ないしね」
私はおや、と思った。彼は半東や正客を喜んでやっているものと思っていたが、私と同じような事を思っていたのだと言う。
「僕はね、コーヒーや紅茶と甘いお菓子を食べるのが好きだったんだけどね、あるとき上司に連れて行かれた茶会で、茶席で出てくるお菓子と抹茶のおいしさに一目惚れしたんだ」
「汐見君が甘党だったとは意外だね」
彼の見た目は、四角い顔に黒縁の眼鏡をかけていて、身長は高く筋肉質な身体付きをしていて、正直一見すると茶道が似合わない。だが、そういえば彼の目の前にはミルクレープが置いてある。
「それからいろんな甘味処に行って、お菓子と抹茶を注文して回ったんだけどね、それがどこもいまいちなんだよね」
「それは安い抹茶を使っているからじゃない?」
「それもあるんだけどね、一回はお茶だけで一杯2千円もするお店にだって行ったんだぜ。それでも満足できる味じゃなかった」
彼は一旦、しゃべるのを止め、ミルクレープを切って口に運んだ。それからコーヒーを一口飲み、やっぱりお店では甘いケーキと苦いコーヒーだな、とつぶやいた。
「それで僕はもう一度茶会に行ったんだ。そしたら、お茶とお菓子の美味いこと美味いこと。それで、席が終わった後に半東だった人を捕まえて、お菓子とお茶の銘柄を詳しく訊いて、今度は自分で買って家で点ててみたんだ」
汐見君は茶筅を動かすマネをした。
私は少し驚いた。私の中ではお茶は教室や茶会で飲むもので、家で飲むものではなかったからだ。
「そしたら、まあ不味くはないけれど感動するような味ではなくてね。それから抹茶の量とかお湯の温度なんかをいろいろ工夫してみて、一番美味しい点て方を見つけたけど、それでも茶席で飲むお茶には敵わなくてね、そこでようやく気づいたんだよ。茶席の全てが美味しいお茶につながっているんだってね」
「茶席の全て?」
「そう、全て。雑音の入らない静かな部屋。い草の香り、きれいに整えられた花や軸。亭主の所作。半東のもてなしの言葉。あの緊張感、それでいて落ち着く空気感。そう言った全てがあってこそ本当の意味で味に集中できて、お茶を美味しく感じられるんだよ」
そういえば、見た目は茶道のあまり似合わない汐見君だが、和服を着て点前をする彼はどこまでも真剣なまなざしで、まさしく茶室の主という空気をまとっていた。
「君は緊張するのが苦手で亭主や半東、正客と言った役割をしたがらないのだろうけれど、それは違う。そう言う役割をやる緊張感は後で飲むお茶の味を引き立ててくれるし、それにみんなのために茶室の空気を作る役を務めるのは大事なことだと思うよ」
それから汐見君はこの後予定があるからお先に、と伝票を持ってレジに行ってしまった。彼は会計を済ませると一度席に戻ってきて、また来週、と行って手を振っていってしまった。
取り残された私は一言つぶやいた。
「そういうことじゃないんだよな」
私はその日のうちに茶道教室を辞めた。