10
「ここ」
鏑木が立ち止まる。
石で囲われた内側に、澄んだ水が張ってある。
「入って」
「え?」
普通に言ってくれるが、まだ春の初旬で肌寒い季節だ。
「え?」
もう一度声をあげてみるが、田中(仮)も鏑木も真顔でこちらを見つめている。
「……わかったよ」
しぶしぶ池の中に足を入れる。痛みに似た感覚が足を伝い、一気に総毛立つ。
「寒っ!冷たっ!」
なんとか池の中央まで行って振り返る。膝のあたりまで水に浸かってしまった。
「よし、それじゃあ始めるぞ」
がんばれの言葉すら貰えないままに、儀式開始の声が発せられた。
しかし、よく考えたら何の説明も受けていない。
「この後どうすればいいんだよ」
「水が過去に導いてくれる」
田中(仮)が言う。
「それで?」
「過去を受け入れろ」
今度は鏑木が言った。
「水を飲まないように気をつけて」
それだけ言って呪文の詠唱を始める。
「え。ちょ」
反発する間もなく、呪文の効果が表れ始めた。
水が円を描きながら、浮き上がって来る。
水の壁が、浩二を覆う。
「なんだこれっ……」
水の動きが止まり、表面に浩二の姿がハッキリと映し出された。瞬間、水が一気に浩二へ振りかかる。
バシャッ!!!
「うわあああ」
腕を顔の前に上げるが、間に合わない。顔も体も全身水でもまれていく。
「ぶはっ」
水が捌けたタイミングで顔を上げて目を開けると、そこに鏑木と田中(仮)の姿はなかった。
(あいつらどこに……)
『おかあさん!』
子供の声だ。反射的に、声がした方向とへ顔を向ける。
『ここにはね、桜の妖精が居るのよ』
聞き覚えのある声が、聞き覚えのある台詞を発していた。
(俺の……母親……?)
そばに居る小さな少年は、恐らく自分だろう。
桜の木の前で、母と手をつなぎ、笑い合っている。
(桜の妖精は、いない)
桜の木の前に居るのは母と自分だけだ。
『だからね、きちんとお世話をしたら、来年も綺麗な花を咲かせてくれる』
『うん。僕も頑張ってお世話する』
『ふふ、ありがとう』
(桜の妖精は、作り話か……)
どこからともなく現れ、上から下へと落ちてきた水が目の前の風景を洗い流し、場面が切り替わる。