白い幽霊
「……」
「……」
「……お前、何してんの」
思わず声を出す。
目の前にはしばらく前に姿を消したはずの、ワン子とかいう変わった名前の猫がいた。
なぜかその姿はぼやけていて、うっすら廊下の床が透けている。
「にゃあ」
鳴き声とともに猫が顔をあげる。小さなふたつの目と、浩二の困惑気味な視線とが合わさった。しっぽが右から左、左から右へと床を擦りながら揺れている。
「もしかして懐かれてんの、それとも見張り?」
「にゃあ」
肯定なのか否定なのか、猫は陽気に声をあげた。
「別に……良いけど」
ガラッ、
「森本君!」
不意に呼ばれて声の主を振り返る。振り返った先、扉の傍には河本先生が立っていた。
「あ……」
「……」
数秒の沈黙。かち合う視線。
「すみません!!」
先に口を開いたのは浩二だった。言いながら素早く腰を上げる。
廊下に立っていろと言われたのに、腰を完全に下ろして床に座り込んでいるなんて、河本先生じゃなくても誰だって怒るだろう。
「森本君……体調でも悪いんですか」
河本先生は静かに問うが、内心怒りたい気持ちを精一杯抑えているのだと思う。異様に低いテンションとわざとらしく抑えた声がそれをはっきりと表していた。
「いや、まあ……はい」
体調というより、気分が悪い。でも余計なことは一切言わないで肯定の言葉を述べておく。
「それじゃあ今日はもういいから帰りなさい」
(そしてしっかり頭を冷やしてこい、と)
俺もその意見には賛成だ。とにかく頭をすっきりさせないと。
「はい」
浩二は素直に従った。
「暑ー」
どこかの誰かによると、一日の中で最も日が高くなるのは十四時頃らしい。五限目が終わった時点で学校を出てきたから、いまはちょうどそのくらいの時間なんだろう。
頭上からは熱のこもった日差しが惜しげもなく注がれてくる。
九月に入って十日が過ぎているが、夏の暑さはまだ去ってくれる様子がない。
「これじゃあ冷やすどころか、どろどろだっつの……」
「にゃあ」
浩二としては独り言のつもりだったのだが、猫が唐突に会話へと加わってくる。
学校の廊下では薄ぼんやりとしていた猫の姿は、時間とともに段々はっきりとしてきて、今では完璧に見えるようになっていた。
とはいえ、それでも浩二の目以外には映らないらしく、途中何度か道行く人に蹴飛ばされそうになっていた。
「ああ、もう鬱陶しいなあ。俺の後ろでも歩いてろよ」
浩二は確かにそう言った。
浩二の横を歩くから蹴飛ばされそうになるわけであって、浩二の真後ろを張り付くように歩く変態が存在しない限り、後ろの方が安全に決まっている。目で見える範囲、と言う意味では前の方が良いのかもしれないが、浩二は後ろの方が安全と判断してそう言ったのだ。
……しかし。
「何でお前そんなところにいるわけ」
わずかに顔を上げるが、そうしても語りかけた相手の姿が見えないのは分かりきっていた。
「にゃあ」
猫が浩二の頭に張り付いたまま返事をする。なんだか知らないが楽しそうだ。浩二の首にゆらゆらと揺れるしっぽが当たる。少しくすぐったい。
「別に……良いけど」
半ば諦めそう言った。何故かたいして重くはないし、痛くもないし……。
「俺、懐かれてんのかなあ……」
ちりん、
今度は返事の代わりに鈴の音が聞こえてきた。
「……なん、だ?」
浩二は不自然に歩みを止めた。もし体が機械でできていたなら、ぎぎぎ、と錆びたような鈍い音がしたに違いない。
ぞくり。
背中に悪寒が走る。寒い。
さっきまで溶けそうなくらい暑かったのに、今ではそれが嘘みたいに寒い。
背後には何の気配も感じられない。しかし、逆にそれが恐かった。
何か、いる。絶対に、いる。
早く、早く逃げないと……。
そう思うが、体が動かない。言うことを聞かない。
あのときと同じだ……。
三階の教室。誰もいない校庭。俺を見上げる、白い、人。
―――浩二はアレに取り憑かれてる―――
蘇る、あの言葉。
「もっと真面目に聞いときゃよか―――ああああああ!」
不意に視界を白い物がさえぎり、浩二は思わず声をあげる。
強引に手を引かれ、体が前のめりになる。
「ああああああ、頭冷えたああああ!!!」
浩二は利き足を前に出して踏ん張り、倒れそうになった体制を持ち直す。そのまま何とか逃げようとするが、つかまれた手が外れない。
白い物体は浩二の叫びと動作を完全に無視し、小さな手のひらで浩二の手首を強くつかんだまま、前へ前へと引っ張っていく。 力づくで引き剥がそうと視線を落とすと、つかまれた手の先でヒダのついた短いスカートが揺れている。
あ、れ……?
浩二はそこであることに気づき、抵抗をやめた。引かれるままに走り出す。途中何度か足がもつれそうになるが、前を行く相手はそんなことお構いなしに、同じペースで走り続けている。
無我夢中で走っていたのでどの道をどう来たのか覚えていないけれど、とにかく気付くと神社の階段を駆け上がっていて、それを上り切ったところに構える石造りの鳥居をくぐっていた。