闇からの脱出
・ ・ ・
「ようやく見つけたのに……」
佳菜依はブロック塀に手を付き、掠れる声で言った。胸が苦しくてまともに歩くことが出来ない。
「もう少しだけ、耐えて」
自分の体へ言い聞かせるように言う。地上に留まる期間が長すぎた。佳菜依の体は怨霊化する寸前だった。
(わたしはまだ目的を果たせていない)
今このタイミングで怨霊化する訳にはいかなかった。
(あと少し。あと少しだけ時間が必要なの)
目的の怨霊がこの町に居ることは突き止めていた。この町のどこかにいる怨霊を見つけだせば、あとは仇を討つだけ。
(それまで耐えて……)
じゃないと、今までやって来たことが全て無意味になってしまう。
「?」
不意に、周囲へ影が差す。
雲が太陽を覆ったのかと思って上を見上げる。けれど頭上に雲はなく、それどころか空全体がなくなっていた。
気が付けば今まで手を付いていたブロック塀もなくなっている。
周囲が闇に飲まれていた。
「これは……」
背後を振り返ると、そこには着物を着た女性が妖艶な笑みをたたえて立っていた。
「まさか、貴女の方から現れてくれるなんてね……」
女性に向かい、佳菜依が挑戦的な笑みを浮かべる。
(卓也を奪った怨霊……!)
見間違うはずはない。間違いなくあの時と同じ怨霊が、目の前に居た。
辺りには冷気が立ち込め、怨霊の禍々しい気配で満ち溢れている。
(前よりも気配が強くなってる)
佳菜依はステッキを固く握りしめた。
「お前と……遊んでやろうと、思ってね……」
怨霊がにやにやと気味の悪い笑みで言う。佳菜依は目の前の怨霊を睨みつけた。
「わたしは貴女と遊ぶ気はない」
きっぱりと言い放つ。しかし、怨霊は全く相手にしない。
「これが……何か……分かる?」
怨霊が恍惚とした笑みをたたえながら、腰に巻いた帯をするすると解いて落とし、自らの着物の前を大きく開いた。
「……分かる?」
笑みを深め、さらに言う。
着物の奥にあった怨霊の体は、その胴体のほとんどが闇に染まっていた。開かれた闇に目を凝らすと、その中に浩二とワン子の姿が浮かび上がる。
動いてはいるようだけれど、生きているとは限らない。
(位置が遠くて霊体かどうか判別ができない……)
「貴女、まさか……」
「ふ……ははは……」
怨霊は長い髪を揺らし、面白そうに笑った。
「お前も……すぐに喰ってやる……」
「ふざけないで!」
佳菜依はステッキを怨霊に思いっきり突き刺し、叫ぶように呪文を唱えた。しかし怨霊は一瞬表情を崩した程度で、全く堪えていない。
「ふはは……この程度か……」
「なんで……」
(呪文と呪具を手に入れたのに。それでもわたしは、ただ立っていることだけしか出来ないの?)
それならば、わたしは何も変わっていない。あの頃から何も変われていない。
「なんで……」
泣きたくなるのを懸命にこらえ、何度も何度も呪文を唱える。それでも何も変えられない。少しもダメージを与えられない。
(お願い……お願い……)
壊れたように呪文の言葉を繰り返し紡ぐ。しかし何度呪文を唱えようと、目の前の状況が変わることはなかった。
「……つまらない」
怨霊が腹部に刺さったままのステッキを引き抜こうと、片手で握る。瞬間、ステッキに強い光が宿った。
「な……」
怨霊が驚いた声をあげる。直後、怨霊が後ろに倒れ、ステッキが物凄い勢いで佳菜依の後方へと吹っ飛んだ。一瞬の出来事に何が起こったのかが分からず、佳菜依は硬直した。そこに聞きおぼえのある声が響く。
「死霊めっきゃくうおおおおお!」
ステッキと一緒に飛び出してきたらしい何かが、やはり物凄い勢いで佳菜依の横を転がるように通り過ぎて行く。
「浩二?!」
先ほどの声はどう考えても浩二のものだった。
(生きていたのね……)
後方に生きた人の気配を感じ、安堵の息を漏らす。
「にゃあ」
続いて聞こえてきた声に釣られて下を見ると、灰色の猫が佳菜依の瞳を見上げていた。
「ワン子!」
佳菜依は猫をぎゅっと抱きしめた。
「無事で良かった……」
そう言うと、猫は嬉しそうにしっぽを振った。
「主に俺のおかげだけどな!」
後ろから浩二の声が飛んでくる。見たところ大きなけがはしていないようだった。
「浩二が助けてくれたの?」
佳菜依は首をかしげる。
「目の前にステッキの先が突き出てきたから、俺がそれをつかんで内側から呪文を唱えたんだ。媒体があれば俺でも呪文を発動できるんじゃないかって言われてさ。呪文なんか覚えてねー!って思ったんだけど、お前が何度も叫んでくれて助かったよ」
「言われた……?」
佳菜依はさらに首をかしげる。
「ああ。中に知らない奴が居て――」
浩二が言葉の途中で視線をそらす。佳菜依が浩二の視線の先へ目を向けると、怨霊が起き上がり、怒りの表情を浮かべていた。
ずりずりと少しずつ佳菜依たちの方へ近づいてきている。先ほど受けた衝撃のせいか、まだ動きは遅い。
「まずはステッキを探さないとな……」
「駄目よ!浩二には関係ないもの」
佳菜依は、ステッキを探しに行こうとする浩二を強い口調で引き留めた。
「関係ないってなんだよ」
浩二が不満気に佳菜依を見返す。
「あれは……わたしが探していた怨霊だから……。浩二はただ巻き込まれただけなの」
「だから何?」
「だから、浩二は早く逃げて」
佳菜依がそう言うと、浩二はあきれ顔を浮かべた。
「お前、馬鹿じゃないの?」
「なっ、浩二にだけは言われたくない!」
「お前失礼だな!」
浩二が叫ぶ。そして怨霊の方をちらりと見て、佳菜依の腕をつかむ。
「とりあえず逃げよう」
しかし、佳菜依は静かに首を横に振る。
「一人で行って」
佳菜依は座ったまま答えた。
「話は後にしてさ、とりあえず逃げないとあいつが――」
浩二が佳菜依の腕を引く。それでも佳菜依は動かなかった。
「もう動けないの」
だから、置いて行って。そう思うのに、浩二は行こうとしない。
「お前、ほんとに馬鹿だな」
浩二はそう言って佳菜依の腕を離すと、背中を向けてしゃがんだ。
「乗れよ」
「え?」
「背中に乗れって言ってんの。幽霊一人背負うくらい訳ないからな。実体がないから全然重くないし」
躊躇していると、浩二が両手を外側に返してから佳菜依の両腕をつかみ、そのまま引き上げて強引に背中へと乗せた。
「これで良し!」
満足そうに言って、勢いよく走りだす。
猫も一緒に駆け出し、浩二を素早く追い越して先頭に出る。
「ワン子、もしかしてステッキの場所が分かるのか?」
「にゃあ!」
浩二の問いに対し、猫が元気よく鳴いた。
「よし!じゃあ案内してくれ」
「にゃあ!」
猫は軽快に答え、さらに速度を速めて前進した。浩二も速度を上げたので、揺れが激しくなる。
(さっきの緊迫した状況が嘘みたい)
浩二の明るさに、少しだけ心が軽くなる。
(ありがとう、浩二)
佳菜依は振り落とされないように、しっかりと浩二の背につかまった。