小さな使者
「ふぁあ……ねむ」
森本浩二は大きなあくびをしながら外を眺めていた。校庭ではどこかのクラスがサッカーをしていて、楽しそうにグラウンドを駆け回っている。
(アレからもう一年経ったのか……)
校庭に視線を留めたまま心の中でつぶやく。
この『アレ』とは、浩二が白い怨霊に襲われた日のことを指している。それから一年と少しの月日がたち、今後の進路を真剣に考えさせられるような時期に差し掛かっていた。
(校庭に居た怨霊を目撃したのがきっかけだったんだよな)
その件以来、浩二は意識して回りを見渡すようになった。そうすると今まで普通だったものが普通ではないことがわかり、最近ではその“普通ではないこと”が、すっかり普通になってしまっていた。
(要するに、今まで普通に見ていた景色のあっちこっちに幽霊が存在していたというわけだ)
幽霊かどうかを見極めるのは結構難しい。
わかりやすく透けたり浮いたりしてくれてたらいいのに、そうじゃない。普通に地面を歩いているし、場合によっては物を食べたり、人の輪に入って勝手に話に交じっていることもある。
最初のうちこそ幽霊にうっかり声をかけてしまって変な目で見られることもあったけれど、最近では判断力が随分と鍛えられてきて、大抵の区別はつけられるようになっていた。
(あれ、なんか飛んでるな……あ、落ちた)
遠くの方でふわりふわりと宙を飛んでいた白い物体が、ゆるゆると下に下がり、緑色の塊に吸い込まれていった。おそらく公園の中だと思う。
浩二の家とは反対方向なのでそんなに詳しくはないが、あの辺りは住宅密集地のはず。それぞれの家の庭は木を何本も植えられるほど大きくはないだろうし、木が密集している場所といえば公園ぐらいしか思いつかない。
(うーん……)
もしこれがあの夏の日よりも前だったのなら、時期はずれな凧が舞っているとか、鳥が変な動きをしているとか、そんなふうに考えたんじゃないかと思う。でも、実際の正体はそうではない。
(幽霊、だな)
浩二は確信していた。あれは間違いなく幽霊の類いだ。
だけど一体どうしたのだろう。何度思い返しても、先程の動作は自分の意思で地上に降り立ったようには見えなかった。
ゆっくりとした動きではあったけれど、落ちたという表現の方がかなりしっくりくる。
「普通落ちることって、あるのかな」
幽霊が落ちると言うイメージがどうしても湧かなくて、思わずひとりごちた。
「授業を真面目に聞かなければ落ちることもあるでしょうねえ」
聞こえてきた神経質そうな声の言葉に、浩二は吹き出す。
「いや、授業は関係ないだろ」
授業態度が幽霊の挙動を左右するわけがない。
「ほう、授業なんて聞くだけ無駄と言いたいわけですか」
「いやそうじゃなくてさ……って、え?」
誰かと会話していたことにようやく気づき、振り返る。
「相当な自信があるみたいですね、森本浩二君?」
そこには、笑顔ながらに殺気を大量放出する河本先生が立っていた。
「受験は余裕ですか」
「は?受験?」
何故受験の話になっているのかが解らず、浩二は呆けた顔をした。
「落ちない自信があるんですよね?」
問われ、ああそういうことかと勢いよく答える。
「受験のことならむしろ落ちる気満々で―――ぐわっ」
もの凄く痛い。言い切る前に殴られた。
「うう」
脳みそがぐらぐらする。
「先生、グーは痛い……」
浩二は頭をさすりながら訴えた。
「馬鹿なことを言うからです」
「はい……」
(なんでこんな流れになったんだっけ?)
考えながら視線を落とす。すると、視界の端に見覚えのある灰色の物体が入ってきた。
(あれは……)
「先生」
浩二は真剣な表情で、河本先生の顔を見上げた。
「なんですか?」
「頭が痛いんで早退していいですか」
目をしっかりと見据えて言ってみるが、当然断られる。
「良い訳ないでしょう!」
(ですよね……)
河本先生が簡単に早退を許すとは思えない。思えないが、とりあえず会話を続けてみる。
「でもほら、打ち所悪くてこれ以上馬鹿になっても困りません?」
「そうならないための授業です。それから、打ち所は悪くないはずです。しっかりと手加減したので早退は必要ありません」
先生はきっぱりと言った。
(結構痛かったんだけど……)
とはいえ、これ以上続けても先生を怒らせるだけなので、食い下がるのは止めた。この辺りが引きどころだ。
「先生、早退は諦めます」
言った途端、なぜか急速に体が傾いた。
「うわっ!?」
ズボンの裾を思いっきり引っ張られたらしい。あまりに突然だったため受け身が間に合わない。
ガッターン!
「いってぇぇぇぇ!!」
引かれた勢いのまま床に滑り落ち、自分が先ほどまで座っていた椅子に頭が勢いよくぶつかった。
ついさっき頭上を殴られたばかりということもあり、そことダブルでめちゃくちゃ痛い。尻も打ちつけたので、尾骶骨のあたりと、ついでになんでか腰まで痛い。
「あーもう!いきなり何なんだよ!」
灰色の物体をつかんで怒鳴る。
「ほんとに馬鹿になったらお前のせいだかんな、ワン子!」
ズボンを引っ張ったのはこの猫だ。猫一匹の力でよく人一人をひっくり返せたなと感心しなくもないけれど、やられた方は堪ったものじゃない。
「にゃーーー!!!」
猫が大きく鳴き声をあげる。
久々に再会した猫のワン子は、何故だか必死そうな様子で手足をバタバタと動かしていた。
「……おまえ、どうしたんだ?」
いつもと違う様子が気にかかって問いかけると、返事は全く違う方向から返って来た。
「貴方がどうしたんですか……?」
「え?」
声がした方向に顔を向けると、先生が血の気の引いた顔で立ちすくみ目を丸くさせていた。周りのクラスメイトもポカンとしている。
「あ。あー……」
右手につかみあげた猫を見る。どうやらこの猫は、今回も姿を消した状態で現れたようだ。
(ワン子め……この状況、一体どうしてくれるんだ……)
浩二は諦めのため息をついた。もうどうにでもなれ。
「先生、やっぱり早退していいですか」
「…………」
反応がない。驚きすぎて固まっている。
浩二は、まだつかんだままの猫を指さし、さらに言った。
「幻覚が――見えるので」
先生は目を大きく見開いたまま、何度も頷いた。