望まない再会
「やあ、こんにちは」
不意に声がかかる。それは何年も前に聞いたきり、一度も聞くことのなかった声だった。
(この声は……)
佳菜依が振り返ると顔を向けた先には予想通りの人物がいて、一瞬言葉を見失う。
その姿を目にした途端、どうしようもなく泣きたいような気分になったのだ。
すぐそばで聞こえているはずの「にゃあ」という鳴き声が、遠く感じる。
「どうして……」
辛うじて言えた言葉がそれだった。
佳菜依の前には、穏やかに笑う男が立っていた。
それは以前、尾柄木神社で出会った神職の男だった。
彼は自分のことを尾柄木賢介と名乗ってから、佳菜依の返事を待たずに話し出す。
「本当は妹に会いたいなと思ってぶらぶらしていたんだけどね」
「そうじゃなくて」
佳菜依は声を絞り出す。聞きたいことはそれじゃない。
どうして。
「どうして、死んでしまったの?」
賢介は以前会った時とさほど変わらぬ姿で立っていた。でも、生身じゃない。
それはとても不確定で不安定な、霊体の姿だった。
「妹が病弱で里子に出された話はしたかな?」
賢介がぽつりと言葉を落とす。
「簡単になら」
佳菜依が答える。
「僕も妹ほどではないけれど、昔から病弱なところがあってね。だけど僕は長男だから、尾柄木神社の宮司や尾柄木家の当主として父の後を継がなければならなくて、僕は妹と一緒に行かせてもらえなかった」
「そう……」
「しばらくは仕事の量を少なめにしてそれなりに上手くやっていたんだけれど、正式に後を継いだらそれも中々難しくて」
賢介はそこで苦笑した。
「気が付いたら死んでいたよ」
苦々しさを含んだその立ち姿がいつも穏やかに笑う賢介にはどうにも不似合いで、だからこそ、いまのこの状況がよけいに悲しく映る。
「僕は、また君と会うことになるとは思っていなかったよ」
「わたしもよ」
お互い、二度と会わないつもりで別れたはずだった。
「もう一度貴方に会うとしたら、それはわたしが怨霊になったときだと思ってた」
「うん。僕もそう思っていたよ」
賢介が笑う。
「……もし怨霊になったら貴方に退治して欲しいと思っていたわ」
少しだけ沈黙が続いた。賢介はほんのちょっと困ったような表情をして「……ありがとう」と一言だけ答えた。
「……ねえ。妹に会いたかったなら、何でこんなところにいるの?」
ここは町中で、決して妹がいると言っていたような田舎などではない。彼が住んでいた尾柄木神社もこことは遠く離れた土地にある。どう考えてもたまたま通りかかるような場所ではなかった。
「さあ、何でだろう。唐突に君に会いたくなったのかもしれないね」
言ってから、はは、と笑う。
「そんなふざけた返答は求めていないわ」
「ふざけている訳ではないんだけれど。そうだね……何となくこのあたりを散策してみたかった、それだけだよ」
「……ふうん」
佳菜依は納得していない。
「不満、かな?」
「そりゃあね」
佳菜依が頬を膨らませると、賢介が微かに笑う。
「それじゃあ、せっかく会えたことだし、僕の話に付き合ってくれるかい?」
その言葉に佳菜依が首をかしげる。
「貴方の話に?」
「そう。良いかな?」
「……相変わらず良くわからない人ね」
「あはは」
賢介はたいそう愉快そうに笑った。佳菜依にしてみれば、何がそんなに愉快なのかがわからない。
そのあと、とくに話す場所を変える必要はなかったけれど、なんとなく近くの河原に場所を移して、芝生に横並びで腰を下ろした。
猫が佳菜依の横で眠そうにあくびをかいている。賢介はじっと水面を見つめて動かない。日が落ちかけて薄く橙色に染まった景色の中、誰も声を発することなくしばらく無言で座っていた。
「……あなたの話をするんじゃなかったの?」
佳菜依が沈黙に耐えられなくなって聞く。猫もすっかり飽きてしまったらしく、体を丸めて気持ちよさそうに眠っていた。
「……うん」
「うんじゃなくて……」
「うん」
賢介はそれしか言わず、再び口を閉ざしてしまう。
佳菜依には、賢介が何を考えているのかが全くわからなかった。
佳菜依はもう、と小さく悪態を突く。
(いっそ私も寝ちゃおうかしら)
ぽふりと芝生に背中を付けて空を見上げる。
先ほどまでの橙色は消え入り、薄い青色に切り替わった景色の中に深い紺色のベールが覆い始めていた。
もう少ししたら、初めて賢介と会った日の月夜と同じ色になる。
「最後に君と話がしたくてね」
そよ風に混じって、つぶやくような声が降りてきた。
「……え?」
佳菜依は体を起こし、賢介を見る。
「僕は君と話したかったんだ」
賢介はゆっくりと、佳菜依に穏やかな笑みを見せながら言葉を紡ぐ。
「……妹じゃなくて?」
「…………うん」
佳菜依は困惑した。
「……それは、どうして?」
賢介は息を吐くようにふっと笑い、空を見上げた。
「さあ、どうしてだろうね」
質問に答える気はないようだった。賢介の顔が再び佳菜依のほうへ向く。
賢介の手が、佳菜依の頭を軽くなでた。
「でも、君が元気にやってるみたいで安心したよ」
そっと包み込むような声で、賢介はとても神職だったとは思えない発言をする。
「幽霊は、元気に留まってちゃいけないと思うけれど」
「そうだね。でも、僕は安心したんだ」
そう言って、賢介は昔と何ひとつ変わらない優しい笑みを浮かべた。
「……奇人」
「あれ、また格下げされちゃったかな」
昔と同じような取りが楽しくて、同時に切ない。彼はもう生きてはいない。それがすごく悲しい。
賢介がゆるりと立ち上がる。
「ありがとう、少しの間だったけれど、楽しかったよ」
佳菜依を見つめ、とびきりの笑顔で言う。
だけど、佳菜依はどうしても笑う気分にはなれなかった。
(さよならを言うとき、どうしてみんな笑うのかな)
どうしてみんな、笑えるのかな。
あの日、卓也も笑っていた。
決して良い別れ方などではなかったのに、卓也は笑っていた。最高の笑顔で。
「……妹のところへ行くの?」
「いいや、それはもう良いんだ、道も見えていることだしね。君みたいにならないように、道が見えているうちに行くことにするよ」
賢介が空を仰ぎながら言った。
「見えているの……」
上に行く道が、賢介には見えているらしい。
(私が見失った、あの道が……)
卓也に出会って暫くすると見えなくなってしまった白い道。上に続く光の道。
「それなら確かに急いだ方が良いわね」
下手に未練を作れば、道は簡単に消えてしまう。
……わたしのように。
「わたしも、貴方に会えてよかったと思うわ」
やっぱり笑顔を浮かべることは出来なかった。けれどそれでも賢介は嬉しそうに目を細めていた。
「ありがとう」
そう答えた賢介の顔をじっと見つめる。とてもいい笑顔だと思った。
「いいえ。……ねえ、でも一つ聞いてみたいことがあるの」
そう前置きをしたあと、佳菜依はあの日と同じ疑問を口にする。
「どうしてあのとき、わたしを助けたの?見ず知らずの人間で、そのうえ霊だっていうのに」
以前聞いたときにははっきりとした返答がもらえず、ずっと気になっていた。
退治をするどころか呪文を教えたり術具を譲ったりするなんて、普通はしない。ましてや神職に身を置く者なら、尚更そんなことはしない。
(本当に、妹に似ていたからという理由だけ?)
違う気がしているのは、わたしが疑い深いから?
「それは……」
「それは?」
佳菜依は右手を伸ばし、賢介の袖口を握った。掴んでいないと、すぐにでも去ってしまいそうだったから。
「君が、妹に似ていたから」
賢介は戸惑いの表情を浮かべたあと、最終的にあの日と同じ言葉を口にした。




