出会い
「Mika went to a convenience store and bought one bread. Then she met shun in front of a fountain of a park.
―――ミカはコンビニエンスストアに行って、パンを一つ買いました。それから、彼女は公園の噴水前でシュンに会いました」
「Mika said ―――――…」
教壇に立つ女性の声が右から左へと流されていく。
(学生の本分は勉強だ、なんて誰が決めたんだろ……)
森本浩二は本日何度目かのあくびをした。
浩二がいるのは霞中学校の三階、一年三組の教室内。
教室の中には二十七人の生徒がいて、みんな真面目そうに授業を受けていた。
ほかの授業であれば上の空の生徒や船を漕ぐ生徒がいることもあるのだけれど、この英語の授業は例外だ。
なにせ教科担当の河本先生は竹を割ったような性格、かつ何事にもきっちりとしているため、教科書をめくる手が止まっていれば「どうしましたか、何か気になることがありますか?」と必ず声をかけるし、今にも寝てしまいそうな生徒がいれば、声を張り上げ名前を呼んで覚醒させる。
しでかし具合によっては廊下に立たせることもあって、その場合にはもれなくマンツーマンの居残り授業が発生するため、放課後の時間が奪われることとなる。
しかも何事にも手を抜かない河本先生によって、たとえ小学校の授業内容まで遡ろうと、分からないところがなくなるまでこんこんと突き詰めていくので、真面目な生徒ならともかく、不真面目な生徒にとっては相当に辛い時間となる。
だからみんな、真面目そうに授業を受けている。
浩二も注意されない程度には真剣さを装っていて、時々教科書に無意味な書き込みをしている。一番後ろの席で目立ちにくいため、たとえ「パンよりご飯だろ」などという落書き紛いの書き込みをしていたとしても、それらしい仕草をしていれば怒られることは殆どない。
浩二は適当なところで書くのをやめ、手を止めた。
ほんの少しだけ顔の向きを横にずらして窓の外へ視線を向ける。
体育の授業をしているクラスはなく、校庭が広々として見える。
(……ん?)
視界の端に何か“白いもの”が映りこむ。
(なんだろ……)
敷地の奥に並んだ樹木の辺りに目を凝らす。よく見てみれば、それは“もの”ではなく、真っ白な女優帽と真っ白なワンピースを身につけた“人”らしい、とわかった。
でも、校庭に居る理由がわからない。
服装が華やかなので、おそらく先生ではない。
近くに案内役がいないので、学校見学ではなさそうだし、もちろん生徒もいないので、授業見学でもない。
(うーん……)
頭を悩ませていると、ふいに“白い人”が顔を上げた。
(……?)
普通に考えれば、三階と一階、しかも校庭の端と端の距離で相手の視線がどこに向いているのかなんてわかるはずがない。
しかし浩二はなぜか、その人の目線がまっすぐに自分へと向いているように感じていた。
自分を、見てる。
そう意識した瞬間、背筋がぞくりとする。全身に鳥肌が立ち、冷や汗が体を伝う。
(なんで……)
視線を外そうとしても、なぜだかそれが出来なかった。首を動かそう、という意識はあるのに、それが出来ない。まるで自分の体じゃないようで気持ちが悪い。
いつもちょっとしたことで叱ってくる先生が今日に限って何も言ってこないことが、今ばかりは恨めしい。
(何だこれ、金縛り……?)
息が止まりそうな圧迫感と寒さが全身を襲う。
(いや、違う。俺が顔を戻そうとしてないだけだ。きっと朝起きようと思っても布団から出られないのと同じ原理に違いない……起きろ、起きるんだ俺……!!)
浩二は完全に錯乱していた。何が起こっているのか全くわからない。
(なんなんだよ……!)
恐怖や焦りがどんどんと湧き出てくる。
白い人は絶えずじっとりと浩二を見つめていた。いや、白い人に見つめられていると感じていた。
考えないようにしようと思えば思うほどその存在感は増していき、次第にそのことしか考えられなくなる。全身から流れる汗は止まらず、服がべっとりとぬれた感覚が、さらに不快感を与えて気持ち悪さへの拍車をかける。
(動け……!)
ジャカ……
(動け、俺の体……!!)
……ジャカジャカ……
(……………………)
思考が、とまる。
今、とてつもなく場違いな音が聞こえてきていることに気がついた。
ジャカジャカ……ジャカジャカジャカ……
これは、音漏れだ。たぶん、何かの音楽の。
ジャカ……ジャカジャ……ジャカジャカジャカ……
鬱陶しい。もの凄く、鬱陶しい。
(うるせぇ……)
浩二の眉間にしわが寄る。
自分の置かれている状況と、隣からの能天気な音漏れとのギャップにイライラする。
ジャカジャカジャカ……ジャカジャカ……ジャカジャカジャカジャカ……
ジャカジャカ……ジャカジャカジャカジャカ……ジャカジャカ……ジャカ……
ジャカジャかじゃかじゃか……
(ああ、もう!)
浩二は耐え切れなくなり、耳障りな音を撒き散らしている人物に文句を言ってやろうと意気込んだ。……が、隣に顔を向けたとたん、憤りをぶつける間もなく気持ちがあっさりと萎んでしまう。
目を見開き、驚愕のまま心の中で叫んだ。
フー・アー・ユー!!!
浩二の目の前には、見たことのない私服姿の少女が立っていた。背筋をピンと伸ばし、視線はまっすぐ校庭へと向けている。 耳には赤いイヤホン。先ほどの耳障りな音の原因は、間違いなくこいつである。
にゃあ、と言う声に反応して下を見ると、灰色の猫が浩二のことを見つめていた。
(ね、ねこ!?)
どうしてこんなところに猫が……というかそれ以前に、
(私服姿の女がこんな堂々と居るっておかしくね?!)
浩二は混乱した。慌てて周りを見回してみるが、誰も少女らの存在に気付いていないかのように、平然と授業が進んでいる。
「……げ、幻覚?」
訳のわからない他国語の聞きすぎで頭がおかしくなってしまったのだろうか?
(それか……)
浩二は、窓の外を見るのに集中していて少しも動く様子のない少女と、ゆらりゆらりとしっぽを揺らしながら浩二を見上げる灰色の猫を、ゆっくりと観察する。
至って普通に見えるし、背景が透けている様子はない。ない、が。
「幽霊、とか……?」
少女の顔を覗き込むようにしながらつぶやいてみる。
すると、今まで石像並みに動かなかった少女の顔が急に変化した。にぱっと歯を出して笑う。
「正解!やっぱり見えるんだ?」
「うわっ?!」
少女があまりに唐突に笑ったので、思わず椅子から転げ落ちそうになる。河本先生がじろりと浩二を見た気がするが、今それどころじゃない。
「せっかくアレから視線をはがしてあげたのに、その反応はないと思うんだけど」
少女がイヤホンを耳から外しつつ、不服そうに言った。少女がちらりと見た視線の先を見ると、白い人らしきものがまだそこに居る。
「ちょっと!せっかく視線を外してあげたのに、また見てどうするのよ!」
少女が浩二の顔をつかんで、ぐいと無理やり顔を戻させた。
「いたたたたたた!」
まるで寝違えた首を強引に回されたような、酷く鋭い痛みが浩二を襲う。
「何すんだ……よ……?」
首筋をさすりながらも見上げると、目の前には河本先生が立っていて、浩二のことを見据えていた。先生だけではなく、気づけばクラスメイトたちの視線も独占している。
少女と猫はどこにも居ない。
「教えてあげましょうか?」
河本先生が腰に手をあて、にっこりと笑った。嫌な予感しかしない。
「廊下に立たせようとしてるんです!!」
河本先生が叫ぶ。廊下に立つということはつまり、放課後の居残り授業が確定したということである。
「……はい」
浩二はうなだれながら、河本先生の言葉に頷いた。
幽霊の話をしたところで信じてもらえるわけがないので、従うしかない。
(どうせなら、もう少し早く注意してほしかった……)
そうすればもっと軽いペナルティーですんだかもしれないのに、などと考えつつ、浩二は窓の外に視線を向けないよう気をつけながら机の上を片付けた。