戦う力・3
「ありがとう、助かったわ」
しばらくして、呪文は覚えたと言って蔵から出ようとする少女を「もうひとつだけ見せたいものがある」と賢介が引き止める。
賢介はぎっしりと積み重なった箱のひとつを引っ張り出して床に置き、そこから閉じた傘のような、変わった形状の物体を取り出した。
少女はそれをまじまじと見つめた。
「……変体」
「うん。間違ってはいないと思うけど、できることなら主語を入れて欲しいかな」
使う漢字や話の主体によっては意味が大きく変わってしまう。
「白い、棒?」
「うん、そうだね。ありがとう」
賢介が頷く。
「棒というよりはステッキかな?これに霊気が取り巻いてるのがわかるかい?」
少女はふるふると首を横に振る。
「そうか……大丈夫、そのうちわかるようになるはずだよ。――それで、とにかくこのステッキには霊気がまとっているわけだ」
「うん」
賢介がステッキを持ち上げたまま横に倒して少女のほうへと滑らせると、少女は両の手のひらを体の前に差し出した。小さなふたつの手に、白いステッキをそっと載せる。
「これはね、怨霊を倒すのに役立つと思う」
そう言ってステッキから手を離す。
「えっ……?」
少女が驚きの声を漏らした。
賢介はにこやかな笑みを浮かべてから、少女に背中を向けて蔵の外へ出る。
「念の弱い怨霊なら祝詞だけでも倒せるだろうけど、それを使えばもっと楽に倒すことができるし、強い怨霊と対峙するときには必ず君の役に立ってくれる」
賢介は石段を降り切ったところで、蔵の中の少女を振り返る。
「見た目はイマイチかもしれないけれど、効力は僕が保証するよ」
少女は手のひらに載せられたステッキに目を落とし、数秒の沈黙のあと「……変人」と小さくつぶやいた。
「ははは」
小さなつぶやきは照れ隠しのようなものだとすぐにわかったので、不快は感じない。賢介が笑うのを見て、少女も釣られたように僅かにほほを緩ませる。
「霊気をまとった武器を使うと、通常より術が流し込みやすくなる。だけど、強力な怨霊が相手ではそれでも足りない。器となる身体がないからね。
力が及ばなそうなときには、生きた人間に力の仲介をしてもらうといい」
「よくわからないけれど、なんだか面倒そうね」
「そうだね。でも仕様がない。なにせ、死んだ人間が怨霊退治をすること自体が異様なことだからね」
賢介がそう言うと、少女がくすりと笑いをこぼした。
「それもそうね」
そして軽やかな動作でふわりと飛び立ち、石段と賢介を一気に越えて着地する。
「でも、どうしてここまでしてくれるの?」
少女の顔には、純粋な疑問の色が浮かんでいた。
(それは、分からなくて当然だ)
賢介は少女を見つめ、静かにほほ笑んだ。
賢介が答えないのを見て、少女はさらに問いを重ねる。
「初めて会った、しかも幽霊のわたしに……貴方はなぜ、こんなに親切にしてくれるの?」
少女が賢介の瞳をじっと覗きこむ。賢介は少女と目を合わせたまま、ゆっくりと口を開いた。
「君は僕の――妹に、似ているから」
つい苦笑が交じる。本当は何も言わないつもりだった。
「妹に?」
少女が首をかしげる。
「そう、妹」
賢介は頷いた。
「病弱だから田舎で養生を……しているんだけれど、雰囲気が君と似ているんだ」
賢介の瞳が寂しげに揺れる。しかし瞼が降り、次に目が開いた瞬間にはもうその面影はなく、少女はそのことに気付かない。
賢介は重々しさを一切感じさせない爽やかな調子で「さ、君はそろそろ行かないとね」と少女に向かって声をかけた。
「もう二度と会わないことを祈っているよ」
言葉の内容とは対照的に、表情はとても優しい。
この先、賢介が少女へ会いに行くことはない。会うべきではないと理解しているから。
それに少女には何をおいても成すべき望みがある。
その身を賭してでも復讐を遂げようとしている少女が、この場所に戻ってくることはないだろう。だから、もう会うことはない。そのはずだ。
けれど少女の望みはたやすくない。無事に怨霊を退治できるかもしれないし、怨霊に倒され取り込まれてしまうかもしれない。もしくは怨霊にたどり着く前に自らが怨霊となってしまうかもしれない。
どのような結末をたどるかは、誰にも分からない。
そんな状況で再び出会うことがあるならば。もし出会わなければならない事案が生まれるとするならば。
それはきっと、どちらにとっても望ましくない未来――。
「……そうね」
少女も優しく微笑んだ。それと同時に緩やかな風が吹き抜けるけれど、少女の髪や服は少しも揺るがない。
「でも、もしわたしが怨霊になったら――」
その言葉は小さく、賢介の耳には届かなかった。
少女はすぐに「なんでもない」と首を横に振る。
「ありがとう」
少女はステッキを握りしめ、敷地を囲む塀へと静かに飛び上がった。
「にゃあー」
「おや」
蔵の外で待たせておいた少女の猫がいつの間にか傍にいて、賢介の足首を柔らかな毛並みで撫でるようにしながら通り過ぎていった。そして少女と同じように塀へと登る。
「そう言えば名前を聞いていなかったけれど、もう会うことはないんだから、貴方も必要ないわよね?」
そう言って少女がいたずらっぽく笑う。
月明かりに照らされた少女の顔はまるで一枚の絵画のようだ。
(悲しいほどに美しい……か)
賢介は静かに目を細める。
「それじゃあ、さようなら」
あっさりと言い切るのと同時、賢介の言葉を待たずに少女と猫が塀から飛び降りた。
「……さようなら」
後に残されたのは静寂と月明かりと少しの寂しさだけ。
少女がいなくなったあとも、賢介はしばらく塀の上を見上げ続けていた。
――願わくば。
「君の進む道が、少しでも明るいものでありますように」