《プロローグ》
* * *
『ありがとう』
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
彼はにっこりと笑って、とてもきれいに笑って、
そして、落ちた。
深い深い闇の中に。引きずられるようにして。
『にゃあ』と、一匹の猫が声をあげた。
視線をそちらに向けると猫も視線を合わせ、足にまとわりついてきた。首に付いた鈴が静かに音を立てる。
彼は二度と戻らない。深い深い穴の中、彼は二度と戻らない。
* * *
一本の大きな木の上、少女は町を見下ろしていた。
十三歳くらいであろう小柄な体型の少女は、頂上近くの細く頼りない枝に体重を乗せている。その足場は不思議と安定していて、枝がしなる様子はない。
服装は、真っ白なジップアップパーカーに、鮮やかなロイヤルスチュアートのショートスカート。靴はベージュのロングブーツを履いている。
耳からは赤いイヤホンコードが延びているが、それはパーカーのポケットにつながっているので手に器械はない。そのかわり、少女はどういうわけか大きくて真っ白なステッキを握っていた。
地面に立てれば少女の肩まで届くサイズのステッキは、拳ふたつ分ほどの握りに細長い円錐形が組み合わさった形状をしている。更にサイズを伸ばせばランスさながらといった外形のそれは、少女が持つには不釣り合いであり、また随分と違和感があった。
夏の空気を含んだ、生暖かい風が吹き抜ける。
しかし、少女の肩口まで伸びた黒髪は微動だにしない。
代わりに小さな鈴が静かに揺れる。
ちりん、と澄んだ音が鳴り響いた。少女が音の鳴った方へゆっくりと顔を向ける。鈴は、灰色の毛並みを持つ、かわいらしい猫の首元にぶら下がっていた。
「……みつけたの?」
少女が足下の猫に問いかける。
すると、猫は応じるように「にゃあ」と鳴き声をあげた。そして体を枝から投げ出して、すとんと地上に降り立つ。少女もそれに続いてするりと下へ飛び降りる。
空は雲一つなく、真っ青に晴れ渡っていた。
猫は迷いのない足取りですたすたと進んでいく。
少女は少し立ち止まって空を見上げてから、猫の後に続いてゆっくりと歩き出した。