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穏やかな日差しの中、テラスで1人、準備されたお茶を前に身動きせず、シャルンはじっと外を眺めている。
『あなたは……人では…ないのだろうか…?』
海辺で静かに尋ねられた声が耳に蘇る。
右手の甲を目の前に差し上げて眺める。
こうしていても何も見えない。光に浮かび上がる紋章も、薄水色に彩られる紋様も何も。
それでも、シャルンにはわかることがあった。
「…シシュラグーン」
小さく呟いた声が大気に消える前に、『それ』は手の甲から立ち上った。
半透明に揺らめく波。
日差しを跳ね返し、宝石のようにきらきらと光る、けれども同時に蠢いて揺れる、見たことのない不思議な水。
「…どうしてここにおられるのですか」
問いは自然なものだった。
右手の甲から指先へ、薄水色の繊細な図式がはっきりと見える。まるで手の甲だけを包むレースの手袋のようだ。海辺でも、戻ったカースウェルでも、繰り返し見えたこの紋様は、よくよく見てみると幾重にも丸を描いた中にうねる曲線を組み合わせた円から伸びる5本の樹木の枝のようだ。爪の部分に5つの小さな円があり、そこにも複雑な図式が描かれている。
紋様が出ている間でも、手は自由に扱えた。握ることも、開くことも、またある方向を指さすことも。但し、方向を指さすとともにそちらへ注意を向けてしまうと、立ち上った半透明な波がその指先へ走り出す。握れば小さく縮むが、強く開くとふわりと掌の倍ほどに膨れ上がり、そのまま手を伸ばした方に広がって行くのがわかった。
そうしてシャルンの手を離れた半透明の波は、届いた先を水で満たす。指をさせば細くて鋭い水が飛び、掌で示せば広がった霧のような水が、思う場所に塊となって膨れ上がる。
怖かった。
水はシャルンの気持ちに敏感に反応し、素早く従った。
名前を呼んで半透明の波を確認してから動かせるようになったのは数日前のことだ。
それまではふいに思い出した水龍の記憶だけで、右手の甲が薄水色に彩られ、思いもかけないところに水を溢れさせた。レダンは使役と言ったが、そんなに立派なものではない。右手に、一杯になり今にも溢れ落ちそうになっている器を、常に掲げているようなものだ。転べば周囲を汚し、躓けば人を引き倒すほどに打つ。
シャルンはレダンとガストを遠ざけた。ルッカを、侍女達を遠ざけた。
人を遠ざけた。
「シシュラグーン」
半透明の波が応じるようにゆらゆらと揺れる。
「あなたは巫女の命を奪われました。……生き残った私からは……愛しい者達を奪われるのですか?」
視界がぼやけた。
瞬きし、必死に目を凝らす。
テラスの先ではレダンがガストと剣の鍛錬をしているはずだった。
いつもなら、側で見惚れ、声援を送り、ルッカとともに汗を拭いながら戻ってくる2人に冷たい飲み物を準備し、嬉しそうに見開かれる瞳に見つめられて、胸を温める。
けれども、今は近寄ることもできない。
水龍シシュラグーンはシャルンを守ってはくれるが、他の者には手厳しい。少しでもシャルンの気持ちが波立てば、容赦なくその相手に向かって激しい流れを叩きつける。
「それとも……私が…望んでいることでしょうか……?」
諦めればいいと思っていた。
ハイオルトでずっと1人で耐え凌いだ日々に比べれば、レダンやガストの心配そうな顔や微笑みを見ることはできる。寝床や食事に添えられた花でルッカ達の思いやりを感じることはできる。以前よりずっと幸福で、以前よりうんと孤独ではない。
自分には過ぎた出来事だったのだと、美しい思い出をたくさんもらえたのだと思えばいいと。
けれど寂しい。
「こんな…守りを……望んではおりませんのに……」
特別な力ではなく、ただ毎日を無事に平穏に過ごしたいとそれだけを願っているのに。
しかも先日、ハイオルトより手紙が来た。
書庫にて母親エリクの諸本が見つかった、急ぎ検分に来て欲しいと。
父がハイオルト王国史をまとめており、それが父を安定させ生きがいとなっているのはよくわかっている。シャルンにエリクの遺品を整理させ、一区切りとしたいと願うのもわかる。
けれども、このような状態で戻れば、父はシャルンをカースウェルに戻すのはふさわしくないと考えるだろう。あるいはシャルンの得た特別な力を、再び自分のために役立てろと言い出すのではないか。
引き戻される、あの城に。
吹き荒ぶ風にただ凍えて必死に生きていた日々に。
そうしてシャルンは、二度とこの穏やかで美しい世界には戻ってこれないのではないか。
「っ…」
気持ちが抑えきれなくなったのだろう、半透明の波がいきなり躍り上がり降り落ちて来て、湯気を立てていたカップを弾き飛ばした。テラスに転がり落ち、砕け散るカップに、背後の部屋から慌てて走り寄るルッカの気配がする。
「なりません!」
シャルンは制して、振り向いた。
部屋で立ち竦むルッカが歯を食い縛っているのに、そっと微笑む。
「大丈夫です、ルッカ」
立ち上がって、水龍に命じる。
「お戻りください、シシュラグーン」
半透明の波がゆっくりと小さくなり、右手の甲から紋様が消えていく。
「ルッカ、部屋の隅へ。私が通り過ぎて寝室に戻ってから、テラスを片付けて下さい」
「……かしこまりました…」
小さく吐いて頭を下げるルッカから、シャルンは静かに視線を反らせた。




