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「…一番初めに海水は可哀想だろう」
砂浜から少し離れた場所に布を敷き、海中で見開いて痛んだ目を水で洗い流して、シャルンは唸るレダンを振り向く。
「大丈夫です、陛下」
海の水は塩気が多い。泳ぐ時にはその塩気が体を浮かしてくれるので、泳ぎを覚えやすい。
知識としては知っていたが、実際これほど目が痛いとは思わなかった。
「泳ぎを覚えたいと言ったのは私ですので」
けれど、陛下があんなに上手に泳がれるとは思いもしませんでした。
「あーまあ、その、な」
多少恨みがましい目を向けてしまったのも無理はない。
目が痛くなって、再び海へ入るのを少し手控えてしまったシャルンに、泳ぎはどんなものだか見せてやりなよ、とサリストアに促されたレダンが、渋々泳いで見せてくれた。
砂浜から肩に日を光らせて海に入っていくレダンの身のこなしも綺麗だったが、少し離れた場所でゆっくり大きな動作で水を掻き分けていくのは、まるで海の生き物が身をくねらせてはしゃいでいるような、本当に気持ち良さそうで惚れ惚れした。数回沖まで往復して戻ってくる、軽く息を弾ませて濡れた体で戻ってくるレダンが、布で体を拭きながら隣に腰を下ろすと、これだけ明るい日差しの中なのに、まるで閨の時の姿に見えて、1人どきどきしてしまった。
「いや、その、元々多少は泳げるんだ、だが」
「やんちゃのせいなんですよ」
ぼそりとガストが言い放った。
「やんちゃ?」
「エイリカ湖にも潜ってますしね、ティベルン川も泳いでますし」
「ティベルン川に?」
シャルンは思わずレダンを見た。ティベルンは暴れ川だ。好んで泳ぐ人間はいないと思っていた。
「『バースト』に襲われたんだっけね」
にやにやとサリストアが意地の悪い笑顔を見せる。
「話さなくていい」
「『バースト』に襲われた、とは?」
薄赤くなるレダンは日焼けしたというより照れているようだ。可愛らしくて、思わず尋ねる。
「南の方の川沿いの湿地に『バースト』という生き物がいましてね、吸い付かれると、体液を吸われて死に至ります。19の時でしたっけ、勝手にうろうろしてた時に、そいつに襲われたんですよ、この人は」
「ええっ」
ガストのからかい口調に、レダンは眉を寄せる。
「いいだろ、もう。シャルンが案じるではないか」
「それで、どうされたんです」
「あなたも聞かなくていいだろう」
「最後までお聞きしないと心配です」
「心配って、今ここに居るんだから、無事だってことじゃないか」
「それでも、19歳の時の陛下が心配です」
確かに無事は無事だろうけど、その時に怪我などしなかったのだろうか。
「囲まれて追い詰められたこの人は、ティベルン川へ飛び込んで、そこから海まで潜って泳ぎ抜けて切り抜けたんですよ」
「バケモンだろう?」
サリストアがあっけらかんと言い放つ。
「他に道がないからって、溺死寸前のところで海に出て、よく生きてたもんだよ」
「陛下…」
「あー、シャルン」
「私、そんなことも知らずに陛下を泳ぎにお連れしてしまったのですか…」
一歩間違えば死んでしまうような状態で水中を生き延びた相手に、なんということを要求してしまったのか。
思わず潤んだ視界に俯くと、薄いドレスの上からの羽織ものごと、ぎゅっと抱き寄せられた。
「大丈夫だ、シャルン、そんなひどいことじゃなかったんだから」
「でも、陛下…」
「それにな」
あなたが誘ってくれたおかげで、私は再び水を潜る楽しさを思い出した。
耳元でそっと囁かれる声が甘くなる。
「俺を、あんなにうっとりと見てくれるなら、苦しい記憶など吹っ飛ぶ」
「う、うっとりですか」
覚えがあるから思わず顔が熱くなる。