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翌日の昼過ぎ、シャルンの部屋の扉を小さく叩く音がした。
「はい」
腰を浮かしかけたシャルンを制して、ルッカが扉へ近づく。
「…シャルン様はおいでかしら」
生き生きと楽しげな声が響く。
「いらっしゃいます。どうぞ」
ルッカが最低限の礼節を持って扉を開け、静かに身を引く。
入ってきたのはレースを幾重にも重ねて縫い合わせた薄青のドレスのリュハヤだ。
「ご機嫌よう、シャルン様」
弾むような足取りで入ってくると、立ち上がって出迎えたシャルンに婉然と微笑む。
「良いお知らせを持ってきましたわ」
「…」
シャルンは笑み返して小首を傾げる。ドレスは1日目のもののあしらいを変えただけ、昨夜はさすがに少し湯を使って体を拭いたが、夜着も『祈りの館』のものを借りているので落ち着かない眠りだった。
リュハヤはレダンと距離を縮めているのか、それに伴い食事も微妙に質素なものに変えられつつあり、本日の昼に至っては司祭もリュハヤもレダンも同席せず、シャルン1人で慎ましくパンと果物と野菜の数皿を頂いた。
「お昼にレダン様とご一緒したのですが、お優しいこと、レダン様がシャルンはどうしているかとお尋ねでした」
王が姿の見えない王妃を、ましてや夫が妻を案じるのは当然だろうに、それを優しいと言うリュハヤの物言いに、ルッカが冷ややかな視線を向ける。もちろん、それに気づくリュハヤではない。
「そうですか。陛下はつつがなくお過ごしでしょうか」
「当たり前でしょう、私がいるのですよ?」
リュハヤは驚いた顔になった。
「望む者を側に置き、安らがぬ男などおりませんよ」
王をただの『男』扱いとは不敬の極みだが、それでもリュハヤは平然と続ける。
「良いお知らせとは、陛下が私をご心配くださったことでしょうか」
「あら、それだけじゃありません。お会いになりたいそうですよ」
ふふふ、とリュハヤは唇を膨らませて笑った。
「昨夜、どのような場所で祈ったのか、何を祈ったのか知りたいと仰せです。まあ、ダイシャが許可なく鍵を開けたことについては、この際不問に致しましょう」
ぎり、と何かが軋るような気持ち悪い音がルッカの口から響いた。
「…何の音です?」
「いえ…」
訝しそうなリュハヤにシャルンは微笑み、先を促す。
「それでは私は陛下のお側へ参ってもよろしいのでしょうか」
「ええもちろん、王妃ですもの、ご自由に」
ぎりりりりり。
「……何の音でしょう」
「さあ……風でしょうか」
眉を寄せるリュハヤはシャルンの笑みに、唇を曲げる。
「まあ、シャルン様、そんな呑気なことを仰ってていいの?」
「はい?」
「失礼ながら、湯浴みもされていない、ドレスもそのまま、もしかして下着も? そんな姿では陛下を悲しませるのではないかしら」
どがん!
今度はさすがにひやりとした。ルッカが勢いよく床に足を踏み込んだらしい。
「……何」
「……何でしょう」
リュハヤは振り返り、大人しく俯いているルッカを眺め、音の聞こえたらしい場所を探してきょろきょろしたが、じろりとシャルンを見直した。
「おかしなことはなさらないでね、このお部屋は私の気に入りだし、それをあえてお貸ししているのよ」
「心得ております」
シャルンは静かに頷き、良いことを聞いたとばかりに目を煌めかせたルッカに、ダメですよ、お願いね、とそっと目を細める。放っておけば、ここを旅立つときには部屋のあらゆるものを破壊しにかかるかも知れない。
「…まあ良いわ。レダン様がお呼びです。今すぐにいらっしゃった方が良いわ」
「わかりました」
散々に貶した後の訪問なのに、準備もろくにさせないつもりなのがありありと見える。
「急いで下さいませ。この後、私は明日に備えて水浴びと禊に入ります。レダン様に今夜はお部屋に伺えないとお伝えすると、とても寂しがっておいででした。シャルン様でもいいから人肌の温もりを求めておいでかも知れないけど、明日は龍神祭です。くれぐれも不謹慎な振る舞いはなさらず、夜にはお部屋にお戻り下さいね」
もう既に自分がレダンの妻のようなつもりなのか、傲慢に言い捨てると、さらさらとドレスを鳴らして部屋を出て行く。
「お知らせありがとうございました」
ルッカが付き添い、扉を穏やかに閉めた。そのまましばらく扉の前で佇んでいる。
「ルッカ?」
くるりと振り向いたルッカは凍った目をしていた。
「姫様」
「…はい」
「……ハイオルトへ帰りましょう」
「はい?」
「もう我慢の限界です。私には耐えられません」
「あの、えーと、私はまだ大丈夫だけど」
「…………」
ふるふるふるとルッカが首を振り、じろじろとで部屋の中を見渡した。
「こんな愚かしい部屋に妃を閉じ込めて平然としている王なんて最低です」
「陛下にはちゃんとお考えがあって」
「どんなお考えか是非とも伺いたいもんですね、1週間ほどかかってもようございますよ私は」
ずかずか近づくと、シャルンをそっと椅子に座らせ、取り出した櫛で丁寧に髪を梳き始める。
「待たせておきましょうよ、あんな小娘にでれでれしている方なんて、日暮れまで1人で置いときゃ良いんです」
「…それは私がさみしいわ、ルッカ」
ぐ、だかげ、だか形容しがたい音が背後のルッカから漏れ、シャルンはくすくす笑った。
「ありがとうルッカ。あなたがそうして怒ってくれるから、私はまだまだ大丈夫」
「…なら私は怒りませんよ。私が怒って姫様が我慢されるなら、ええ私は怒りませんとも」
はい、できました。
綺麗なリボンで梳いた髪を丁寧にまとめて、ルッカが涙声で続けた。
「奥方様、あなたこそがカースウェルの王妃ですとも」