ジュエリーケース
気に入っている大きな本屋で、迷子を探す放送が流れる。手慣れた穏やかでささやかな声色は、内容にそぐあわないと思った。そんな、私の主観の話。
迷子。その放送内では、保護者とはぐれたとか、それ以上の意味を持っていない。けど、その定義で迷うのは子供だけでもない。感情とか、視線とか、飽和しているような女子中学生とか。
中学2年生の私は、来年に受験を控えている。何をしたくてどこに行くのか、今から考えて下さい。最近そう繰り返す担任教師。私は進路に迷っているのかもしれない。好意をぶつけてくる相手に戸惑っているのかもしれない。決して私を見ないただひとりの父親に、振り返って欲しいのかもしれなかった。
──好きに生きなさい。
そう父は言った。私の目を見ず、目を合わせず。母親に逃げられた父にとって、今の私は再婚の邪魔にしかならない。一般的にはシングルファザー。ファザーもいないなら私は何なのだろう。好きに生きろとは、自分と無関係でいろということだろうか。
きっとよく聞く家庭環境だ。母親は他に男を作って蒸発、父親はそれを人生の汚点だと思っている。だから、その逃げた母親との子供である私は、父にとっては汚点そのもの、人生の失敗の象徴だった。
雪名や由宇のいう、私の思考癖。その始まりは、恐らく父だ。何故父が、あんなまなこで私を見るのか。憎しみと嘲りを含んだ、薄暗いまなこ。あの目がとても怖くて、それでも父が嫌いになれなかった自分を、自分の感情が知りたくて。
未だに考え続けている。未だに父を嫌っていない私がいる。家に父は帰ってこない。再婚を考えている女の人のところへと帰っている。父が帰らない何度目かの夜に、テーブルの上に投げ出された結婚指輪を見た。それで、分かってしまったのだ。ホコリを被って輝きを鈍くしたそれは、私と同じく居場所をなくしたのだと。可哀想で、同情して、母が置いていったジュエリーケースにしまう。ふたつ揃ってしまったその指輪を、今でもぼんやりと眺めることがある。
夏目漱石は、恋を罪悪だとこころで記した。愛は醜いと自分の名前を冒涜する。破綻した父と母の関係の、前段階を私はこれから始めようとしていた。恋はまだ分からない。愛は醜い。父を嫌うことができない。思えば、父は私に手を上げることがあった。いや、ある、のだ。それでも嫌えないのは、まるでストックホルム症候群だと思う。いつ、どの辞書や本でその名称を見つけたのか。そこまでは覚えていない。多分。きっと。恐らく。
立ち止まった私の横を通り過ぎる家族。夫婦の、薬指。ジュエリーケースにしまわれた指輪よりも遥かに美しく、幸せそうに、子供と共に輝いているそれ。迷子の子はもしかして、この夫婦の子供かもしれない。見つかったという放送は流れない。聞いたこともない。
「…………好き、に、」
父は振り返らない。