中
「いつまで寝てんだい、このすっとこどっこいがぁ!!」
「うぇあぅえぅえぇっ!?」
「……お客様? どうなされましたお客様!?」
「……えっ? あっ? おっ? ここは誰? 私はどこ? マイクテストワンツーワンツー、ホワットタイムイズイット? ネエチャン、ダレー?」
「……あ、あの、私はこの機内のキャビンアテンダンドで、時刻は十七時五分過ぎ、乗機は現在関西上空を飛行中ですが……?」
「……何だよ、夢か……」
……参ったなこりゃ。まさかうたた寝の夢の中でまであの婆さんの怒鳴り声に叩き起こされるなんてなぁ。もしかしたら俺に取り憑いたのかあのババア? 冗談じゃねぇぞ、家に帰ったら速攻で塩撒いて悪霊払いしねぇとな。くわばらくわばら。
「もし、御到着までお休みになられるのでしたら掛け毛布を御用意致しますが、いかがなされますか?」
「おっ、いいねぇ! じゃあ、到着まで姉ちゃん添い寝してくれよ? 上でも下でも横でもおじさんが良い夢見させてやるぜぇ?」
「……あ、あの、お客様……」
「あぁ、あと酒だ酒! ここで一番良い酒とあと三、四人スケベな姉ちゃんがいると最高だなぁ? 空飛ぶキャバクラってのもなかなかお洒落だろ、なぁ? ギャハハハハ」
「………………」
「……冗談だよ、冗談」
あぁ〜、っと。俺も二十年前ぐらいのバリバリ現役ロードレース世界王者だった頃は、各国移動の手段もチャーター機一台買い占めて機内に大量の素っ裸のパツキン姉ちゃんはべらかしてドンペリを何本も空けてやったもんだかなぁ? 今やすっかりただのセクハラオヤジに成り下がっちまったぜ。
まぁ、それもしゃあねぇか。あの頃はレースの賞金やメーカーなどなどのスポンサーとの契約金も湯水の如く毎晩遊んで使い果たしちまってたからなぁ? 一日一日が全力疾走、現役引退した老後の生活なんぞこれっぽっちも考えてなかったしなぁ……。
全く、悔やまれる人生だぜ。あの時真面目にコツコツと金を貯めてりゃ今頃バイク便の仕事なんぞしなくても楽々食っていけたし、第一あのクソ女とも籍を入れる必要も無かったんだからなぁ。無敵の世界王者様の成れの果ては娘二人を養う儚い働き蜂かよ、因果応報ってヤツかねぇ? 運命の歯車ってもんは上手い事出来てるもんなんだなぁ?
「……お客様、エコノミークラスでのアルコールのサービスは禁止されておりますので、代わりにこちらのノンアルコールビールで御了承下さい」
……ぐえっ、まっじい! 何だこのガキ騙しのシュワシュワドリンクはよ? これならまだコーラかジンジャーエールの方がよっぽどマシだぜ!? 冗談じゃねぇぞ、貧乏人ってのはいつの世も報われねぇもんだなぁ。俺は遊びで沖縄くんだりまで来た訳じゃねぇんだぞ? 全く……。
……嘘だって? はい、嘘です。若干遊びました。いや、かなり遊びました。別にいいじゃねぇかよ、やる事きっちりやったんだから少しは気晴らしさせろよ! 毎日毎日、娘の那奈や義娘の優歌、居候のクセにデカい面しやがるいづみ相手に男一人で立ち振る舞うこっちの身にもなってみろ! 翔太は完全に女どもに尻に敷かれちまってるし、色々と大変なんだぞぉ!? これでも虎太郎パパ頑張ってんだよ、多目に見ろよバカ野郎が!!
……あれ? 俺、何か大事な事を忘れているような気がするなぁ? 何だっけ? ここは誰? 私はどこ? あぁ、ババアの話か。ババアなババア、おっ死んじまったあのクソババアな。どこまで話したっけ? 何か面倒くせぇな、やっぱり話すのやめてもう一眠りすっかなぁ……?
「いつまで寝てんだい、このすっとこどっこいが!!」
……はいはいはいはいはい! 話すよ、話せばいいんだろ!? このままじゃマジでババアに呪い殺されちまいかねねぇからな、こんないい加減な文章で小説にも成り立たねぇ小話を聞きたい輩がいるかどうか知らねぇが、とりあえず続きを話してやるよ。
確かあの後、酔っ払った俺は面倒な役割を新作に任せて家の縁側に寝転んで爆睡こいてたんだよな。んで……。
「いつまで寝てんだい、このすっとこどっこいが!!」
「うぇあぅえぅえっ!? いってぇ!!」
そうだ、結局これだ。気持ち良く寝ている俺の尻を、あのクソババアが庭から持ってきたスコップでフルスイングしやがったんだ。タイガーウッズの比じゃねぇぜ? 軽く四百ヤードオーバーのナイスショットだったぜ。
「いい働き時の男が、朝っぱらから酒に酔って居眠りとは情けない限りだねぇ!? あたしゃお前をこんな男に育てた覚えは無いよ、この親不孝者めが!!」
「ざっけんなよ! ババアだってさっきまで疲れ果てていびきかいてグースカ寝てただろうがよ!? 人の事言えんのかゴラァ!?」
「育ての親に向かってババアとは何事だいこのクソガキがぁ! 悲しいが人間ってもんは歳を取っていくとな、自然と夜更かし出来ずに眠くなってくるもんなんだよ! お前はまだまだ若いだろうが!? 一日くらい寝なくたって死にやしないさ、さっさと起きて少しは無駄についたそのバカ力をあたし達の役に立たせな!!」
「いってぇー! 一眠りした途端に元気になりやがってこのクソババア! わかったよ、わかったから人の尻をバシバシ叩くな! いってぇーって!!」
目が覚めると、時刻はもう昼過ぎを回っていた。空は雲に覆われて辺り一面はいまいちパッとせずもの暗い。そこへもって、窓から外を見ると相変わらず防御盾を構えた警官や機動隊が家の周りの包囲していた。
「おーう虎太郎、今お目覚めかいな?」
残り酒でガンガンする頭を押さえて居間に入ると、新作がダラダラと畳にうつ伏せになりながらノートパソコンをカタカタと操作していた。歩美姉とその娘、そして今回の騒動の原因である坊主に至ってはちゃぶ台を囲って呑気に昼間っから鍋なんてつついてやがる。何だコイツら、今自分達が置かれている状況をちゃんと理解出来てんのかぁ?
「オイオイオイ! 周り一辺を警察に包囲されてるっつぅのによ、随分とお気楽な立て籠もり犯どもだなぁ!? いつ家の中に突入されるかわかったもんじゃねぇのに、いくらなんでもお前ら警察ナメ過ぎじゃねぇか!?」
「何を言うてんねん、自分かてさっきまでガーガー爆睡しとったやないかい!? 大丈夫やて、突入は無い、有り得へん、絶対にな!」
「……ハァ? ちょっと待て、新作、お前何をした?」
過去の大騒動を思い出した俺は新作からパソコンを取り上げその画面を見ると、ドクロの顔に三つ編み姿の奇妙なマスコットが次々と他のサイトにアクセスをしてトゲトゲハンマーで跡形無く破壊していく様を確認出来た。
「……お前、まさか、またやったのか……?」
「せやでぇ〜? お前が寝とる間に俺はせっせと警視庁や各テレビメディアなどなどの正式サイトに不正アクセスして、新作ちゃん特製の『滅殺魔女っ子ドクロちゃん』ウイルスで機能不能に陥れてやったんやでぇ? もう日本中の情報機関は完全にダウン状態、全てのコンピューターサーバーの管理は今、俺の指先一つでどうにでもしたい放題やでぇ!」
「……お前……」
「んでな、ウイルスと一緒に『立て籠もり犯はグリーンベレーの特殊訓練を習得済み』とか『高機動汎用型モビルスーツを装備している』とか『犯人はスティーブン・セガール並みに不死身』とかある事無い事いっぱいたくさん嘘情報とかもあちこちに撒き散らしてきたからな、もうヤッコさん達はどれか本当の情報かわからんくなって突入出来ずに立ち往生って訳や! どや、結構立派なええ弾幕貼れたやろ!?」
……またやりやがった。この男、松本新作は以前今回と同じ様に国内のみならず海外のサーバーにも不正アクセスをして、情報操作どころか株価や通貨のレートも狂わせ世界中の経済界を大混乱に陥れた前科がある天才ハッカーの異名を持っている。どうやらジャーナリストとして世界中を飛び回っていた時に、あるルートの組織の人間から学び身に付けたものらしい。その根拠は有料エロ裏サイトに不正アクセスする為だったらしいのだが……。
前回の時は日本経済界の首領である奥井幹ノ介との因縁の対決をしていた当時の俺の為に援護射撃としてやってくれたものなのだが、そのバラまいてくれたウイルスのお陰で完全復旧までに一週間以上の時間を費やす事になり、その間も経済並びに情報システムはさらに混乱してあわや世界大不況を引き起こしかねない状況に陥った。あの時の後始末は俺も相当苦労をさせられた記憶がある。
「……それをお前はまたやったのか? やっちまったのか? こんなガキ一人の冤罪を晴らす為だけに? あーあ、俺は知らねぇぞ、今回ばかりは俺は何にも関与してないからな、知らねぇぞー、知らねぇぞー? いーけないんだー」
「イケメンだー、フゥ〜! 大丈夫やって! 今回はちゃんと自爆装置付きや! とりあえずこの用件が済んだらボタン一つで綺麗さっぱりウイルスが消滅する様に改良してあるから安心せいや!?」
「……自爆?」
「そや、自爆、足跡残さんようにサイトごとな」
「それが大迷惑だって言ってんだよ、このバカ野郎!!」
あーあ、こりゃ明日の報道や日経の動きが楽しみだ。エラい事になるぞぉ、ただでさえ不況で頭痛い役立たずの総理大臣や日本銀行総裁がさらに涙目になっちまうぞ? 下手すりゃ内閣総辞職でみんな首吊っちまうんじゃねぇかこりゃ?
「現代の戦争は情報が全てってニュースで聞いたけど、本当にその通りなのね〜? 私、新ちゃんが何か神様に見えてきちゃったわ〜?」
「いやいや、こんな俺でもどうしてもアクセス出来へんものもあんねんで歩美姉ちゃん?」
「あら、それって何かしら?」
「……それは美しい女性のハートの中さ、女心だけはさすがの俺でもそう簡単には侵入出来へんのや……」
「……あらやだ、新ちゃんったら詩人なのね、私の心のアクセスコード、解明出来るかしら……?」
「……もちろんさ、俺の手にかかれば、あっという間に歩美姉ちゃんの両胸のボタンにダブルクリック……」
「歩美姉、鍋おわかりー」
「そんなもん自分でよそりなさい! 私はアンタの母ちゃんじゃないんだよ!」
「チッ、いつも新作ばかり甘い顔しやがって、欲求不満の年増女め、しっかしこの鍋うめぇなぁ?」
確かにあの時の鍋は美味かったなぁ。酒で廃れた胃袋には伊東の海で捕れた新鮮な魚の出汁が良く出た汁が良い感じだったぜ。これぞ五臓六腑に染み渡るってヤツだな。
「でも、やっぱり祖母ちゃんが育てただけあって新ちゃんはすげー男なんだなー? なぁ武雄、あたしはパソコンとか良くわかんねーからこういう人見るとスッゴい憧れちまうよー!」
「……やってる事は立派な犯罪だけどなぁ」
「本当だな波子ー! 俺も魚の名前はわかるけど不正アクセスとかダブルクリックとか全然わかんねー! これからの海の男はそういう事もわかんねーと駄目なんかなー?」
「だからコイツのやってる事はネット犯罪だって言ってんだろうがクソガキども! ペチャクチャ喋ってねぇでさっさと鍋つつけつつけ! 俺の奢りだ、食え食え!」
「私が作った鍋だよバカちんが! 虎太郎、大概にしねーと久々に折檻しちまうぞゴラァ!!」
「うっせーな歩美姉も、グダグダ言ってねぇでさっさと鍋空けろよ! これじゃいつまで経ってもおじやが作れねぇだろうがよ!?」
「おじやなんて食ってる場合じゃないんだよ、この出来損ないがぁ!!」
「ぶはっ!!」
お椀に盛られた鍋をすすって食っていたら、またもや鈴婆のスコップが今度の俺の後頭部に突き刺さってきた。その鋭い突き刺しはフェンシング銀メダリストも顔負け、お陰で鼻の穴から魚の小骨が噴き出しちまった。
「虎太郎! 啓介や新作は危険を省みず子供達の為に精を尽くしてやっているっていうのに、お前はここに来てから一つでも何か役に立ったのかい!? うちは働かないぐうたら男にタダ飯を食わせる余裕なんて無いよ!!」
「あのなぁババア、じゃあはっきりと言わせて貰うがな、何でこの俺がいきなりやってきた見ず知らずのガキを助けてやらなきゃゃならねぇんだっつーの!? そもそもこの一件は、アンタが逃げてきたこのガキを勝手に家の中に匿って、それを捕まえに来た警察に勝手に喧嘩を売りつけたのが全ての始まりだろうがよ!? それを何で俺達がその尻拭いをしてやんなきゃならねぇんだ!? あぁん!?」
まぁ、さすがの俺も育ての恩人相手だとはいえ完全にトサカにきちまったな。何せ役立たずのでくの坊のタダ飯食い逃げ泥棒みたいな言われ方をされちまった訳だしなぁ? つっても、このババアの迷惑がましいお節介はこの時に始まったもんじゃなかったけどなぁ。
「おいおい虎太郎、それはあんまりに母ちゃんが可哀想やで……」
「てめぇは黙ってろ! そうだ、てめぇもだ新作! てめぇと啓介がこのババアに釣られて余計な真似をしたから事がこんなにデカくなっちまったんだぞ!? こんな事して一体、俺達に何の得があるって言うんだよ!? 一体この状況、どうやって収集つけるつもりなんだ!? あぁん!?」
「イヤイヤイヤ、俺と啓介が出来る事なんかちょっとしたお膳立てぐらいやもん、やっぱこういう非常事態には仕舞いに虎太郎兄貴がいつもみたいにこうドカーン! って……」
「ざけんなてめぇ!? 俺は暴れん坊将軍でも水戸黄門でも何でもねぇんだよ! いいか、良く思い出せ、俺達は何もここに人助けの為にやってきたんじゃねぇんだよ! せっかくの少ない貴重な休みを使って、せめてもの親孝行としてババアや歩美姉達に元気な面を見せにやってきたんじゃねぇのかよ!? しかもそれはてめぇが一番最初に言い出したんだからな、新作!!」
「虎太郎! もし、それ以上新ちゃんを責めたりしたら私が許さないよ!? 新ちゃんも啓ちゃんも間違いを正す為に母さんの気持ちを汲み取って……」
「女がグダグダと話に割り込んでくんじゃねぇよ!! もう面倒臭ぇから新作も歩美姉も裏の部屋行って勝手にズコバコヤッてろクソ野郎ども!!」
「あのなぁ虎太郎、俺と姉ちゃんの会話はただの言葉だけのやりとりを楽しんでるだけやで? それをまだ未成年の子供の前でそない破廉恥な言い方……」
「あぁ、そうかいそうかいそうかい、んだったらついでにこのガキ二人も一緒に連れてって、手取り足取り学校じゃ教えてくれないレベルの性教育をつけてやれよ!? この娘っ子に『アンタはここから産まれてきたのよ〜』って奥の奥まで観察させてやれよ年増女!!」
「何て下品な喧嘩文句! これだからおめぇは可愛くねぇんだよ虎太郎!! 謝んな、今すぐ私と母さんに謝んな!?」
いやいや、自分でも大人気ねぇったらありゃしねぇ。久々に頭に血が上っちまって普段の生活のストレスが一気に噴き出しちまったんだよなこの時は。それだけ俺にも当時は家庭内の出来事で心労が溜まってたんだ。俺自身がこんな性格だから周りには信じて貰えねぇだろうがな。
ちょうどあの頃、俺の家庭では非行に走っていた優歌がやっと人前の女として落ち着いてきた頃だった。その姿に俺も一安心していた矢先、ちょっとした暴力団絡みの事件が起こって優歌が巻き込まれちまったんだ。俺が助けに行った時には優歌はヤツらにリンチされて虫の息になっていた……。
その暴力団どもは俺と昔に俺が世話になった頼りになるある刑事と共に全員残らずボッコボコにして日本国内から追い出してやったんだが、関心の優歌の傷を癒やしてやるまでの事はしてやれなかった。つまり俺は父親として力量不足の失格の烙印を天から押されちまった訳だ。
己の不甲斐なさに絶望したよ。情けなかった。いづみを始めとする仲間達の励ましも聞こえねぇ、緊急帰国してきた麗奈の顔もまともに見れねぇ、しかも心配して俺の側に寄り添ってくれていた那奈には未だにこの事件の真相を話せないままでいる始末だ。
生涯決して忘れる事の出来ない大切な人間から預かった大切な娘なのに、俺はアイツをまともな一人の女性として育ててやる事がちっとも出来てねぇ。後悔に後悔を重ねる毎日、とても他人の話にまで介入する余裕なんて無かったんだ。だから、例え里親の頼みだとしてもこの一件に関わるのは正直面倒臭かった。
「これでも俺はせめてもの恩返しと思ってアンタの元に帰って来たんだぞ!? それが何だこの様は!? 何が出来損ないだ、何が親不孝者だ!? 俺達の感謝の気持ちを踏みにじって憩いの場をムチャクチャにしてくれたのはアンタなんだぞ!? 里帰りしてきた息子達をまともに出迎えられねぇどころか、訳わかんねぇ面倒な事を無責任に押し付けてくんじゃねぇよこのクソババア!!」
だからって目先の人間に当たり散らしたらいけねぇよな。でも、俺の一っ通りの言い文句をババアは目をつぶり黙ったまま聞いてくれていた。俺としてはかなり本気で気迫を込めて食いかかったつもりだったんだが、そんな気迫に微動だにせず腕を組み仁王立ちしているババアは静かに目を開けると溜め息一つついてポツリと一言漏らした。
「……堕ちたもんだね、虎太郎」
「……何?」
「……あたしが知っている渡瀬虎太郎は、そんな女々しい戯れ言なんて一言も言わなかったもんだけどねぇ? おかしい、間違っている、こんなもんは納得出来ねぇ、そう思い込んだら誰が相手だろうと狂犬の如く相手の喉元に噛みついていく勇敢な男だったはずなんだけどねぇ?」
「……いい加減にしろよ? 俺だっていつまでもバカばかりやってる場合じゃねぇんだよ! 家庭の事、嫁の事、娘達の事、それだけじゃねぇ! 貴之の代わりにその嫁の面倒、そしてその息子にもバイクの練習と三度の飯を食わせてやらなきゃならねぇ! さらに言わせて貰えばな、プロライダーとして世界中を駆け回ってた頃から奥井の連中どもと闘っていた頃まで、俺は少しも休む事無く突っ走り続けてきたんだよ!! いい加減に休ませろ!! 俺ばかりに面倒な話をふっかけてくんじゃねぇ!! 俺はスーパーマンでも仮面ライダーでも正義のヒーローでもねぇ、てめぇらと何一つ変わらないただのちっぽけな一人の人間なんだよ!!」
「甘えんじゃないよ!!!!」
「……!!」
ババアは肩に担いでいたスコップを床に投げつけると、その手で俺の襟首を掴み上げてこちらを睨みつけてきた。歳のせいかその瞳は若干白く濁りかけてはいたが、その鋭い眼光は色褪せる事無く健在で、襟首を掴むその力はとても九十近い老婆とは思えないほどのものだった。
「休ませろだぁ!? バカな事を抜かすんじゃないよこのクソガキがぁ!! いいかい、人生ってもんにはな、ちまちまと休憩なんか取ってる余裕なんてありゃしないんだよ!! どんなに疲れていたって、どんなに苦しくったって、容赦なく誰にでも明日はやってくるんだよ!! この世で人として生きていくのならば、どんな時でもその日一日を全力で生きていかなきゃいけないんだよ!! どうでもいい、いい加減に過ごしていい時間なんて一つもないんだよ!!」
それは、俺が単調で平凡でありふれた生活と言う繰り返しの中でいつの間にか忘れ去ってしまっていた人間の情熱の塊だった。誰にも媚びず、群れず、時代の流れに逆らい、強大な力にも潰されずに常に立ち向かって生きてきたこれまでの俺の生き様そのものだった。父親に捨てられた俺を女手一つで一人前に育て上げてくれたババアが教えてくれた人生の教訓だった。
「お前は今まで一日も無駄に過ごす事無く全力で駆け抜けてきたんじゃないのかい!? だから一つの世界で頂点まで駆け上る事が出来たんじゃないのかい!? だからあれほど巨大な財力を誇り残忍なやり方をしてきた奥井に対しても立ち向かう事が出来たんじゃないのかい!? だからこれまでの人生を勝ち残ってこれたんじゃないのかい!?」
「………………」
「虎太郎、今のお前はね、牙を抜かれちまったひ弱な虎だよ! なれもしない真面目な父親なんか演じようとして丸くなっちまった飼い猫だよ!! お前はまんまとあの気丈な嫁に上手く手懐けられちまったのさ、お前の負けだよ、虎太郎!!」
「……な、にぃ!?」
「お母ちゃん、アカーン! 虎太郎に麗奈の話をしたら、コイツホンマにキレよるでぇ!?」
俺が一番言われると我慢ならねぇ事、それは好きで結婚なんぞした訳でもねぇ俺の最大の宿敵であり常に目の上のたんこぶであり続けている嫁、麗奈と比べられる事だ。ヤツはこの無敵の俺様をいつも見下し、決して敗北を認めずに俺に刃向かい続ける。俺より優れた人間がこの世にいる訳がねぇ、ましてや女なら尚更だ!!
「……俺が、ヤツに負けた、だと?」
「そうだよ、お前の完敗だよ! 情けないねぇ、暴虐理不尽の恐怖の帝王の異名で呼ばれた世界バイク王者も、成れの果ては嫁に尻敷かれる子育てパパかい!? お前の今の腑抜けな姿を見たら、お前に全てを託してくれた優人や歌月は一体何て思うだろうねぇ……?」
「……てめぇぇぇぇ、ババアぶっ殺すぞぉぉぉぉ!!!!」
「アカンアカンアカーン! お母ちゃん、その二人の名前も言ったらアカーン!!」
俺は怒りに任せて止めに入った新作を押しのけババアの着物の襟首を掴み返すと、そのまま自分より小さくなっちまったババアの体を力任せに持ち上げた。しかし、ババアは完全に足が宙に浮いた状態になったにもかかわらず、ちっとも取り乱す事無く俺の目を睨みつけたままだった。
「虎太郎、もしお前があの乱暴されそうになった娘の父親だったとしたら、お前どうするつもりだい?」
「ハァ? わかりきった事聞くんじゃねぇよ、犯人捕まえてボコボコにシバくに決まってんだろうが!?」
「そうだよねぇ、そんなヒドい話、黙っている事なんて出来ないだろうねぇ?」
「だから、何が言いてぇんだよババアゴラァ!?」
「じゃあ、他の人の娘だったら面倒臭ぇって見て見ぬ振りすんのかい!?」
「……!!」
……そうだ、俺は今回のこの一件の様に人間の勝手や欲望や悪意によって大切な娘を傷つけられた。そして、その無念を晴らす為に代わりにその相手に対して報復をした。もちろん、優歌を苦しめたヤツらが憎かったのもあったが、それ以上に同じ男としてヤツらのやり方を許す事が出来なかったからだ。これは一人の男としての俺のけじめ落としだった。
「……いいかい虎太郎、啓介も新作も、あたしに言われたから、頼まれたから嫌々協力している訳じゃないんだよ? 同じ年頃の娘を持つ父親として、乱暴を働いた戯け者達を許す事が出来なかったんだよ? そうだろ、新作?」
「……う、う、うん、ま、まぁ、言われてみれば、そうかもしれへんかなぁ……?」
「はっきり返事をしんかい、新作!!」
「お、おう! 若くてお肌ピチピチのウブな女子校生に対してやましいイタズラをしようだなんて何て羨ま、いや許せへん! 新作パパ、愛する翼と岬の為に悪者に正義の鉄槌を食らわせてやんねん!!」
「どうだい虎太郎、お前は実際に預かった大切な娘を傷物にされた経験があるだろうに? それなのに、お前の心にはあの娘の助けを求める訴えの声は届かないのかい? あの娘を必死に悪等どもから守りきってきた武雄の叫び声は届かないのかい!? お前の心の扉はそんなにまでに錆び付いちまったのかい!?」
「………………」
……何も反論出来なくなっちまった。俺は静かにババアを下に下ろすと、掴みかかっていた手を離して自分の腰の上に添えた。
「……俺には、関係ねぇんだよ……」
「……そうかい、ならもういいよ、お前に頼ったあたしが愚かだったよ、悪かったね」
ババアはそう言うと床に転がったスコップを拾い上げ、不安そうにこちらを覗き込むガキ達の側に寄り添って頭を撫でた。
「……鈴子婆さん、俺、本当に濡れ衣晴れるのかなー?」
「……祖母ちゃん、武雄は捕まったりしねーよな? 本当の犯人が捕まってちゃんと自由の身になれるよな? あたしヤだよ、武雄が捕まったりしたら困るよー!?」
「大丈夫だ、祖母ちゃんに任せろ! お前達を警察なんかに連れて行かせない、指一つ触れさせてやらないよ? お前達はあたしの子供だ、あたしに頼ってくる人間はみーんなあたしの子供だ! 子供が一生懸命頑張ってんのに親が先に弱音なんか吐けるか! 絶対に祖母ちゃんがみんなを守ってやるよ、絶対だ!!」
俺は苛立っていた。もちろん、ババアに対してじゃない。警察に対してでもない。世界に対してでも、神に対してでもない。自分自身に対してだ。俺は結局、心労を言い訳にして目の前に現れた人生の壁に対して逃げようとしていただけだった。
あの事件以来沈み込んでいた優歌も、最近は何かを振り切った様に自分の得意分野である格闘技団体のジムで汗を流し立ち直りつつあった。なのに、俺はグズグズと一人だけくすぶり後悔の念に苛まれてるまんまだ。
今思い出してみても情けない。あの時、俺はアイツを励ましてやれるどころか、逆にアイツに励まさせていたのかもしれない。俺に必要だったのは中途半端な優しさなんかではなく、そんな苦しみすら吹き飛ばしてしまえるほど無鉄砲に生きていく潔さだったんだ。
闘いの日々で徐々にすり減り、唯一無二の親友である貴之を失って鳴りを潜めちまった本来の俺の姿。どんな相手だろうと叩き潰してきた、あの理不尽暴虐な怖いもの知らずのあの時の俺……。
「……あー、あー、立て籠もり犯に告ぐ! 私はこの隊を指揮する静岡県警機動隊隊長、三河晃である! お前達の要望通り静岡県警警視監補佐、田巻正男が現場に到着した! 警視監補佐、犯人との交渉をお願い致します!」
家の外からハウリングがするほどの大音量のメガホンの声が聞こえてきた。どうやら警察の方に動きがあったらしい。周囲には警官や機動隊だけではなくロープで一線引かれた場所にはテレビ局の報道記者や近所の野次馬達も大量に集まってきていた。
「あー、只今紹介をされた県警の田巻である、犯人に告ぐ、何やらいい加減な情報で情報メディアを撹乱し私の息子に罪を押し付けているようだが、全くもって事実無根の戯言である! このような理不尽かつ無差別な行為、お前達に有利な交渉は無いと思え! 立て籠もり犯は速やかに人質を引き渡し投稿せよ、でなければ強行突入も考慮に入れる事になるぞ!」
「来やがったね、待ってたよこの諸悪の根源め! 何て高圧的で偉そうな態度だい!? こんな世間知らずのバカ親がいるから、息子がろくな人間に育たないんだよ! この森川鈴子様が、親子揃ってそのひん曲がった根性を叩き直してやるよぉ!!」
「母さん、一人じゃ危ないわ! ちょっと待って!?」
「鈴子母ちゃんチョイ待ち! ちゃんと俺達にも作戦ってもんがあるから勝手な行動は、って、ちょっと待ってや〜!?」
いかにも鼻に触る憎たらしい喋り方をする黒幕の声を聞きつけたババアは、頭に手拭いを巻くと気合いを入れ直してスコップ片手に玄関から外へと飛び出して行った。
それに慌てて新作と歩美姉が続く。啓介はまだ帰ってこない。自分の心の闇に潜むもう一人の弱い自分との決着を落としきれない俺を後目に、ついに待った無しの戦の火蓋は切られる事になった。