第5話 逆襲の神奈川
野球に限らず勝負には『流れ』がある。それは自然科学のように理論的に説明できるものではないため、結果論や気持ちの問題と言ってしまえばそれまでだが、試合に関わる者には確かにその『流れ』を読み取れる瞬間が存在するのだ。
それが今。チャンスを潰した神奈川ナイトスターズは流れを失い、そしてピンチを乗り切った秋田フェザンツは流れを引き寄せる。それもピンチを潰したものがチャンスを作る。これは流れと呼ばずしてなんと呼ぼうか。
「っし、抜けたっ」
吉崎は走りながらガッツポーズ。打球は大きく開いた三遊間ど真ん中を低いライナーで破り、レフト前への流し打ちクリーンヒット。1塁コーチとハイタッチをかわし、ついでにバッティングレガースも手渡す。
「これはこれはコーチ、吉崎さんを自由契約にしたチームも悔しがってるんじゃないですか?」
「プロ野球は意外とこういうのがよくあるからなぁ。自由契約の選手が拾われた先で大活躍とか、FAの人的補償が主軸になったりとか。チームカラーとかもあるんだろう」
「もしくはコーチの手腕とか? やるじゃないですか。山野コーチ」
「いや、俺は投手コーチだから」
仲のいい山野投手コーチと雑談をかわす大馬はまだまだ元気十分。これならば6回どころか9回まで十分に投げ切れそうだと山野は確信する。しかし一応は確認しておくに越したことはない。
「時に浩介」
「はい?」
球団社長との区別のために下の名前で呼ぶ山野。大馬は額の汗をタオルで拭いながら返事をする。
「今日の調子はどうだ?」
「う~ん。なかなかいいですね~」
「そ、そっかぁ。うん。そっか」
と、言う時は得てしてリリーフを用意する必要がある。
大馬は投球の調子がいいと非常にテンションが上がるタイプである。それが結果的にさらに投球の調子を上げる結果も生む一方で、同時に疲労も生んでしまうのである。だからこそ大馬の場合、『普通』『いつも通り』などの回答以外の場合は、良好な回答でも、不良な回答でもリリーフを必要とする場合がある。もっとも、時にはその高いテンションで一気に9イニングを投げ切ってしまうことや、低いテンションゆえに体力が有り余って完投することもあるため、あくまでもリリーフ準備の参考程度である。
『(浩介なら急に炎上することもないだろうし、とりあえず5回か6回くらいからリリーバーに肩を作らせとくか? とはいえ、ここ最近の負け試合で中継ぎ陣も疲れがなぁ)』
さりげなく大馬から離れると、ベンチ横の受話器を手に取りブルペンへ電話をかける。それを受けたブルペンコーチにその旨だけを伝えて電話を切る。業務連絡的な簡潔で必要最低限な通話である。
「っと」
ふと試合に注意を戻してみると、2番の手嶋がサードへの送りバントを成功させており、吉崎は悠々と進塁。1アウト2塁として打順はクリーンアップ。
まずは最初の打席でツーベースを放っている3番の新谷。好投を続ける大馬を援護する意味でも、引き寄せた流れを完全に手中に入れるためにも、ここでの1点はなんとか欲しい所である。しかし相手もプロのエースピッチャー。そう易々と1点をくれるほど甘くはない。
「ファール」
古浦はカウント1―2と追い込んでから際どいコースへと連投。1球のボールを挟んで3球ファールで粘る新谷だが、ファールにしているというよりはファールになっているというのが正しいような厳しい状況である。
「ファール」
8球目をさらにファールし、カウントは依然2―2と平行カウント。粘るたびに球場のボルテージが上がっていき、私設応援団による応援も過熱していく。
熱気がこもりにこもった9球目。セットポジションからの投球はアウトコース低めへのストレート。新谷は少し遠いと判断して振りかけたバットを止める。ボールならフルカウントとなり、相手も攻めづらくなるところ。
「Strike three. He's out!!」
が、ストライクコールを取られて見逃しの三振。新谷は目を丸くしてキャッチャーの構えたところへ視線を落とす。
「いぃぃぃ? 今のは……」
今のがストライクか? そう口にしそうになるが、主審が睨みつけてきているのに気付き、あわてて口を止めて、さらに首を振る。
「い、今のは、今のは……Oh , year. It's very beautiful ball」
「いいから早く戻って」
「はい」
素直に返事をしてベンチへと戻る新谷は、表向きはそう言っておきながらもいまいち釈然としない表情。新谷はこれでもフォアボールはチーム最多、見逃し三振は規定打席到達者中でチーム最少。これが表すのは選球眼の良さである。そんな彼が見逃し三振をしたのだから、それだけ今のコースは際どかったことの証明にもなる。
「新谷。今のはボールか?」
「ボールですね。アウトコースにボール2つか3つ。今更ですけど、今日の審判は横に広いみたいです」
「そう……か」
監督も抗議にいけばよかったか? と首をかしげる。
この新谷の見逃し三振で再び流れが変わる。続く4番・チャリスがサードゴロに倒れスリーアウト。一旦は引き寄せた流れを手放してしまう。こうもなると1点勝負の投手戦の様相を呈してくるこの試合。攻撃で相手を突き放せなかった以上、1点を守り抜くしかない。
「頼んだぞぉぉぉ、大馬」
「よっ、フェザンツの星。お前だけが頼りだ」
「完封だ。完封しちまえぇぇぇぇ」
エース・大馬、ファンの声援を受けながら4回の表のマウンドへ。この回も規定数通りの投球練習をしてマウンドの感触を再確認すると、ロージンバックの位置を邪魔にならないように変えたり、足を引っ掛けないように穴を埋めたりと、自分の投げやすい環境に微調整。
『4回の表、神奈川ナイトスターズの攻撃は――』
『(っと、始まるか)』
ウグイス嬢の声に、これくらいにしておこうか。と、思いつつ視線を上に向けて体を起こす。
右バッターボックスに入るのは2番の山下。1打席目はショートフライに倒れてはいるものの、塁に出すと怖い俊足のバッターである。
「なんとか塁に出ろぉぉ」
「しっかり見て行けぇぇぇ」
「そろそろ追いつくぞぉぉぉ」
こっちが盛り上がれば次は向こうが盛り上がり、向こうが盛り上がれば今度はこっちが盛り上がる。流れが両チームの間を行ったり来たりしているせいで、盛り上がり度合いも双方を行ったり来たり。
『(ふん。そう簡単に追いつかれてたまるかよっ)』
エースの意地にもかけて1点を守りきる。そう意気込む大馬の初球は、外に張っていたバッター・山下の裏をかくインローストレート。山下はそれに手が出ずにワンストライク。球速は145キロと、肩も暖まってきてスピード・コントロール共に安定。制球が定まらない序盤の140台中盤とは質が違う。
厳しいコースに決められて、そのコースを意識せざるを得なくなった山下だが、とにかくツーストライクまでは狙い球・コースを絞ってかかる。狙いを広げるのは追い込まれてからでも問題はない。
「次打者からクリーンアップ。1人目をなんとしてでも切っておかねぇとな」
寺西からサインを受けた大馬。小さな声でそうつぶやき、大きく大胆に振りかぶるワインドアップ。球の出どころが見えにくい面倒な投球フォームから放たれた2球目は、
「ボ、ボール」
「回った、回った」
アウトローに沈むカーブ。山下のハーフスイングに主審はボール判定だが、寺西はすぐさま1塁審判を指さしハーフスイングの判定を要請。すると1塁審判は右手握り拳を静かに上げてスイングのジャスチャー。
「っし、ツーナッシング」
大馬はボールかと思われた投球をストライクとしてもらったことで、気を良くしながら寺西からの返球を受ける。
『(そう言えば、最近はツーナッシングって言うとツーボールの事なんだよなぁ。どうも、慣れないな。ナッシングツーは)』
どうでもよくはないが、少なくともこの状況で考えるような事ではない話題を心の内でつぶやきつつ、ひとまず足元のロージンバックに手をやって一呼吸置く。その動作に焦らされまいと、山下は一旦打席を外してタイムを掛け、スイングを確かめるように素振り。大馬の準備が済んだのを見て、やや彼を焦らしかえすように余分に素振りして打席へ戻る。
「ノーボール、ツーストライク。プレイ」
主審のボールカウント確認、およびプレイ再開宣告。ポジションに入ってから、小さく深呼吸。自分のタイミングでモーションへと入る。
『(遊び球は無し。こいつで決めるっ)』
前のイニングですっぽ抜けたフォークの再挑戦。今度は失投しないように慎重に、気を払いながら腕を振り下ろす。投球はど真ん中へのハーフスピード。回転はあまりかかっていない、いわばフォーク回転。バッターの手元で沈み始める。
『(よし、今度は落ちたっ)』
フォークの捕球体勢に入る寺西。だが落ち幅は普段に比べて小さい。フォークと言うよりは緩いストレートに近いボールを、山下はセンター返しのタイミングで振り切る。ボールの頭をバットがややかするようになって生まれた打球は、ピッチャー大馬の3塁側足元への速いゴロ。体をひねってグローブを突き出し、せめて止めようと試みるも、ボールはグローブの20センチくらい下を通過し二遊間へ。
「やべっ。抜けたっ」
振り返る大馬。しかしそこを守るは信頼できる後輩だ。
マウンドでバウンドして打球が跳ね上がった事で、二遊間到達までコンマ2、3秒程度の余裕ができた。そのコンマ2、3秒の差で打球に追いついた新谷は、その体勢では1塁送球が難しいと判断。反時計周りに回転して体勢を立て直し、回転の勢いを無理に止めずにスリークォーターで1塁送球。ファースト手前でワンバウンドした送球を北見がすくい上げるのと、山下が1塁を駆け抜けるのはほぼ同時。100人いれば50人がセーフ、50人がアウトと言うであろう絶妙なタイミングに1塁審判が取った判定は?
「アウッ」
拳を振りおろしアウトコール。その瞬間、1塁側スタンドからは新谷へ称賛の声。3塁側スタンドからは「セーフだろ」と審判へ非難の声。一方で3塁側ベンチのナイトスターズ畑監督は、今のでアウトなら仕方ないと諦め顔。むしろ新谷にヒットを阻まれたものの、大馬のフォークをまともに捉えた事に、バッターへと称賛の声を送る。ところがさらに一方で浮かない表情なのはフェザンツベンチの山野投手コーチ。
『(ここまで浩介は3イニング打者11人を2安打無失点。数字だけはいいんだが……)』
そろそろ何かありそうな気がする。いったいその『何か』が何なのか、その根拠はどんなもんなのか。それは分からないが、照明できないがたしかに感じる『勘』が山野に『何か』を訴える。
『3番、ライト、梶尾』
ここからクリーンアップ。長打と巧打を併せ持つ梶尾、ホームラン王の経験のあるフランク、弱冠22歳の若き和製大砲・筒野。俊足の2番・山下を塁に出さずに済んだのはいいことだったが、流れを断ち切れたわけじゃない。
「ファール」
初球はアウトコース高めに浮くボール。2球目はインローのカーブでワンストライクをもらい、3球目はインコースに食い込むスライダーで詰まらせてファールにし、これでカウントは1―2と有利なカウント。
『(どうする? 俺としては、今日はフォークよりもスクリューの方がキレてるし、スクリューをお勧めする)』
『(いえ、寺西さん。そっちじゃないです)』
アウトコースに逃げるスクリューのサインに首を振る。ならばこっちかと次のサインをを出してみる。
『(一応だけどこれか? 俺はお勧めしないぞ? お前が投げたいなら無理は言わんが……)』
『(はい、それでお願いします)』
『(ま、いっか。次第に調子も上がってきているしな)』
サインを出し終わり低めに構える寺西。大馬はバッター・梶尾の表情を読んでから、寺西の構えるミットだけを凝視。集中力が次第に高まる。バックネット裏の席でビールを買っているおじさんも、その横で上司と野球観戦に来ているサラリーマン風の男も、視界の中にいながらも意識しない。見えるのは黒色のミットだけ。
思いっきり振りかぶり、足を高々と上げ、前に勢いよく踏み込む。力を腰、肩、肘、手首、指先へと徐々に伝えていき、振り下ろす右腕。選択したボールは、
『(ま、マズイっ。大馬、また抜けやがった)』
『(ヤバっ。打たれるっ)』
高めへのフォークボールすっぽ抜け。変化球か、ストレートか。ストライクか、ボールか。そんな迷いも何もなく梶尾はスイング。バットが一閃した直後、大馬は振り返らず、寺西のミットを凝視したまま。
『(やっぱりやったか、浩介……)』
山野投手コーチも大馬から視線を動かさず。
そうして大馬も、山野も見送ることなかった打球は、打った瞬間入ると分かる会心打。ライト・手嶋は追いかけているが、センター・吉崎は追いかける事すらしない。右中間スタンドへと飛び込む大アーチだ。
つまりこれで……
『(ど、同点……)』
ここまで張り詰めていた緊張感の糸が途切れ、大馬の体から力が抜ける。魂が抜けるようなその瞬間は、むしろ心地よさを感じてしまう。もっともそれは決していいものではなく、現実逃避したい気持ちが引き起こした気持ちよさなのだろう。
梶尾が自らの前を通り過ぎホームを踏んだ様子を視界に捉え、ようやく壊れたカラクリ人形のように振り返る。みつめる先にあったのはスコアボード。4回表の得点欄に輝く『1』という数字。
「タイム」
リードしていた寺西としても、それは不測の事態である。もちろんホームランを打たれるつもりでリードをしていたわけではない。と言うのもあるが、序盤に調子のよかったフォークが急激に調子を崩し、あろうことか同点ホームラン。
タイムを掛けた寺西がマウンドへ駆け寄っていくと、なんとなくその気配を感じた大馬は、やはりカラクリ人形のように振り返った。
「大馬。今日だけどな」
寺西は唇を読まれないように口元にミットをやる。ホームランを打たれて同点にされた直後。ファンや報道の人間はキャッチャーがピッチャーを励ましているように見えるシーン。だが、話している内容はと言うと、
「終わったら久しぶりに何か食いに行こうぜ。何が食いたい? おごってやるよ」
「そうですねぇ、懐石料理とか行きましょう」
サークル終わりの大学生のような会話である。プロ野球でバッテリーがマウンドで話している内容と言うのは、当然真面目な内容もあるのだが、こうした話も意外とあったりする。優勝決定戦など重要な試合ならまだしも、年間140試合程度もあるプロ野球。たかだかソロホームラン1本で騒いでも仕方ないのだ。
「おいおい、年俸2000万になんて無茶を」
「マジですか。チームリーダーなのに2000万なんですか?」
「うちの社長はどうもそこを評価してくれなくてなぁ」
「分かりました。今度、球団社長に言っておきます。とりあえず今日は焼肉にしときましょうや。今日は俺、肉の気分ですわ」
「そうだなぁ。寮の近くでいいか? チェーンじゃない個人経営の所」
「あ、あそこ美味いですよね。あそこにしましょ」
「よっしゃ。じゃあ決定な。さっさと試合、終わらせようぜ」
寺西が大馬の左肩をミットで叩いて定位置へと戻る。これが傍から見れば落ち込んだピッチャーを励ます女房役に見えるのだから、プロ野球とは怖いようで面白いようで……やはり怖くて面白い集団である。
『(もしもの時はマウンドに行く予定だったが……やはり俺が出るまでもなかったか)』
山野投手コーチは一応、監督にマウンドまで行くかもと伝えてはいたが、結局は出る幕は無し。寺西が声掛けに言って間を取ったのもそうだが、大馬も野球に関してはあまり1つの事を引きずらない性質の選手だ。見た限りでは既に立ち直っているようで、そこからわざわざコーチが出ていくのは、彼の肩を冷やしてしまって逆によくないとも考えられる。
と、短時間ながらタイムで試合が止まっての再開。神奈川ナイトスターズとしてはここから追撃を仕掛けたいところであるが、立ち直った、もとい、そもそも崩れてすらいない大馬を打ち崩せない。4番のフランクは高めの釣り球ストレートで空振りを誘われ、2打席連続の空振り三振。5番の筒野は初球のインから真ん中に入ってくるスクリューに力んでしまい、バックネット側へのファール。それを寺西が素早い判断で飛びついてキャッチし、キャッチャーファールフライでスリーアウトチェンジ。同点にこそさせたものの、逆転は許さずに4回の表を乗り切った。
「はふぅ」
「おぅ。お疲れ」
「あ、山野コーチ。すみません。また一発病が発症しまして」
「まぁ、お前の一発病は仕方ないと割り切ってる」
一発病とは、やたらホームランを打たれるピッチャーの別名である。この大馬もその一発病であり、規定投球回数に達しているピッチャーの中では、特に総失点に対する本塁打絡みの失点が多い。とは言うものの、大馬に限っては悪い点とは言い切れないのだ。
「お前の一発病は、連打で点を取られないから、結果的に失点が本塁打に偏っているだけだろ? そのくらい、気にする事じゃない。むしろ連打で点を取られない時点で十分利点なんだ」
そう言う山野投手コーチの発言がすべてを物語っている。大馬の場合、総失点数に対する本塁打絡みの失点が多いというよりは、総失点に対するタイムリー・押し出し等、本塁打以外の失点が極端に少ない。そのため、相対的に本塁打での失点率が上がっているに過ぎない。むしろ彼の一発病は、崩壊・乱調が少ないという点でメリットなのである。もっとも、今日の失点に関しては一発病よりはフォークのキレの悪さにあるわけだが。