Scene:3大型連休の翌日の話(後)
放課後になって私はプールに行くことにした。
教務棟を抜け、体育館への連絡通路の途中の「プール」と書かれた無骨な鉄扉を開けると、日差しが全身を覆った。
日本海側の白根県にはわりと珍しい、雲一つない快晴。
まだ春だというのに今日はやたらと暑かった。じっとりと汗がわいてくる。こんな日に泳ぐ水泳部を少し羨ましく思いつつプールサイドに足を運んだ。
なぜか鬼教師の銀山が足を組んで瞑想していた。
「!?」
何かの仏像にそっくりだった。
一瞬にしてわいていた汗が引く。
戸惑いつつもとりあえずすべてを見なかったことにして引き返した。
『待たれよ、汐見トキ』
……引き返せなかった。
先生の厳かな一言は私の全身をフリーズさせた。
眼を閉じているのになんで私がわかったのかはもうこの際どうでもいいや。
「あの、どうしてプールにいらっしゃるのですか銀山先生」
首だけを何とか動かしてそれとなく尋ねてみる。
『我は今年から水泳部顧問だ』
「あ、そうだったんですか」
内心は全然「そうだったんですか」じゃ済まなかった。ここの水泳部、よりによって顧問は銀山ですか。私もう逃げていいですか。しかしこんな顧問の下でよく新は耐えられたものだ。
「勝手に入ってすみません。私、新――小針君に放課後水泳部に来るように言われまして」
『知っている。小針は今週、教務棟東階段の清掃担当のはずだ。もっともサボっていなければの話だが。小針が来るまで、ゆっくりとくつろがれよ』
プールサイドでくつろぐもなにもなかったけど、ひとまず銀山から三メートル位離れたところに腰を下ろした。付かず離れずのギリギリなポジション。離れすぎると違和感を持たれるだろうし、だからといって近づくなんて怖すぎて出来ない。
『……………』
「……………」
お互いに沈黙。話すことがない。第一、銀山は瞑想中だった。
『……………』
「……………」
『……昼のマクドナルドは美味かったか?』
「へ?」
唐突に変なことを訊かれた。しばらく固まってから、返事を搾り出す。
「……大変おいしく頂きました。行動はアレでしたが、小針君には感謝しています」
『そうか』
静かで落ち着いた声音だった。
普段新に怒鳴り散らす銀山の印象とだいぶ違う、泰然とした雰囲気。これが銀山の素なのだろうか。
「そういえば、小針君の処置はどうなるんです?」
『誠に残念ながら、今回に関しては職員会議の結果不問ということになった』
やはり銀山は銀山だった。
途端、憤怒のオーラが立ち上る。思い出し怒りをしているらしい。
『あやつめ、成績トップを盾にとって我以外の教師を誑かしおって』
実は小針は1年生の頃から学年の成績で常に1位をキープしている秀才だったりする。卒業生の殆どが大学進学し、旧帝大や早慶・東大にも現役合格が多いこの進学校の中では凄いことだと思う。少しぐらいなら大目に見てもらってもいいだろう。生活指導の銀山としては気に喰わないだろうけど。
『小針新、覚えておれ……』
憤怒のオーラは銀山の周囲数メートルを焦土にしつつあった。とんでもなく熱い。
正直な話、一刻も早く逃げたい。
でも怖くて身体が動かない。
というか、そろそろ誰か来て欲しい。
いい加減隣の閻魔大王の沈黙の炎に焼かれそうだった。
その時、
ぱしゃり
どこからか清廉な水の音がした。ここからでは見えないが、誰かがシャワーを浴びているらしい。私の祈りが天に通じたのか、銀山は怒りのオーラを収めてくれた。助かった。
ぱしゃぱしゃと、水が石畳を叩く音が聞こえる。1滴1滴を聴くたびに、私の感覚が研ぎ澄まされていくような心地よさがあった。やがてシャワーの音が止んだ数瞬の後、彼女が姿を現した。
一瞬、空気が静まった。そんな気がした。
肩口まで伸びた金髪から水をしたたらせ、淀みのない足どりでプールに向かって歩みを進める。途中でこちらに顔を向け、銀山に向かって一礼。芯の通った背筋と、洗練された身のこなし。おまけに見惚れてしまいそうになるほどの美人だった。
スタート台の前で立ち止まり、彼女は準備運動を始める。一部始終が舞踊の所作であるかのように、微塵の迷いも間断もない動作だ。髪を手早く纏め上げキャップを被り、ゴーグルをピタリとつけた彼女はおろむろにスタート台に上った。
右足は前に、左足は後ろに。両の手はスタート台の前のへりを掴む。ちょうど陸上のクラウチングスタートのような姿勢だ。そのまま重心を限界まで後ろにかけ、全身の力を溜める。
やがて彼女が水の先を見据えた。来る、と思った。
フライ・イン。
全身をバネにして、高く高く弧を描く。長い一瞬。
水面に吸い込まれるように、ほぼ直角での着水。音が殆ど立たない。
彼女は長い潜水を経て、滑るような速さで水を掻き始めた。1つも無駄の無い動きで、水の先を目指している。
水の中で飛んでいるみたい。心からそう思った。
「咲花の奴、もうやっとんのか」
気がつけばそばに新が来ていた。着替えを済ませており、競泳水着に身を包んでいる。
「すごいね、あの子」
「まぁ咲花は水泳部の中でも別格やからな。そうだ、来てもろておおきに」
「あ、うん」
「よし! んじゃ早速で悪いんやけど、今からあの咲花と勝負してもらうで」
「はぁ、勝負ねえ……」
え?
勝負?
空気が凍った。間違いなく凍った。
今、何と?
「ショウブって、なに?」
「そんな自分はいかにも関係ありませんみたいな顔されても困るで。ええか、ここにトキを呼んだのは咲花と水泳で勝負させるためや。女子部員に水着とタオル用意してもろたし。何や? 何か言いたいことでもあるんか?」
……………。
「………トキ?」
……………。
「おーい」
……………。
「ちょっぷ」
ごん、と頭頂に痛みが走った。
「ちょっと、何するのよ!」
「いい加減現実逃避はやめや。来た以上は泳いでって貰うで」
「そんなこと言っても競泳自体幼い頃やってたぐらいだし、勝負なんて無茶苦茶な」
「実力はどうでもいいんや。要はとにかく本気で泳げいうだけやから」
「いや、でもさ……余りにも唐突って言うか」
「マクドナルド」
「あんまりな気がするって言いますか」
「マ ク ド ナ ル ド」
「……すいませんでした。やりますからその銀山みたいな形相やめてお願いだから」
「わかればよろしい」
そういうことになった。
その日、5月6日。
1週間近い大型連休の翌日。
この日を境に私の平凡な学校生活は大きな変貌を遂げることになるとは、しかも喰い物の恨みからそうなるとは思いもよらなかった――




