救世主
少女の走る速度は、自分よりもわずかに遅い。それは唯一の救いであった。
だが、いずれ体力は底をつく。秀一はさして運動が得意ではない。一方、先ほどの様子を見れば、彼女は相当に鍛えこんでいることは明白だ。おそらくスタミナでは勝ち目がないだろう。
状況は極めて劣勢で、いわゆる絶体絶命というやつだった。
(せめて……人がいる場所に――助けを呼ぶんだ――!)
それだけが秀一の今のところの希望だった。あの化け物を相手に、それで本当に助かるかどうかは不明だが、そんな真偽はまた後で考えればいい。まずは味方が必要だった。
そんな折、一台の幸運が彼のもとに舞い込んだ。
――――――
背後から国道のアスファルト一帯を照らすハイビームの光。
それはタクシーであった。しかも表示は『空席』。秀一にはそれが救世主のように思えた。
(しめた! あれに乗れれば――)
すかさず手をかざして呼び止めると、車はちゃんと気づいて停車してくれた。
リュックを肩から外し、秀一が開いたドアに慌てて乗り込むと、年配の運転手は呑気な調子で聞いてきた。
「お客さん、若いねー。学生さん? こんな時間に危ないよ。どこまで行く?」
「おっちゃん、いいから早く出して!」
「出してって、どこに?」
「駅! 夏野丘でいいから! とにかく早く!」
血相を変えて叫ぶ。
「あいよっと。まったく最近の若いのはなんだかなぁ……」
年配特有のぶつぶつとしたぼやきをしながら、ドアを閉めて、アクセルを踏む。
そうして秀一がほっと安堵した瞬間、ドンッ――と車は大きく振動した。
「へ……?」
秀一と運転手。二人の声が同時にハモる。
ボンネットの上に乗った、黒いブーツの両脚――助手席から仰ぎ見ると、そこには先ほどの金髪の少女が現れていた。
「そのまま走って! おっちゃん!」
だが、運転手は事情を知らないのだから、走るわけもない。
彼はすぐさまブレーキを踏むと、窓を開けて彼女を怒鳴りつけた。
「オマエ、なにやってんだ! あー、あー……へこんじまうだろ! はやく降りろ! 女だからって容赦しねえ! ぶん殴るぞ!」
親父の激がどんどん暴言じみていくが、少女はまったく聞いていない。それどころか、
「……これやるとお腹が空くから、あんまりやりたくないんだけど……」
そう言って、彼女はその場に片膝をついて屈みこむと、まるで照準を狙うように、広げた右手をボンネットへかざした。
(な、なんだよ……あれ……)
秀一が瞠目する。
彼女の右手に収束していく、丸い光の粒――それが一定の発光量に達すると、途端に彼女の手の平から巨大な光の塊が盛大に撃ち放たれた。
ズドン――! すさまじい爆音と振動。
車体が大きく縦に揺れると、まもなくエンジンは沈黙した。ライトも消えて、あたり一帯が再び沈黙と暗闇に包まれる。
ほんの一分も経たないうちに、その救世主は、活躍する間もなく殺されてしまった。
「…………」
見れば、運転手は目ん玉を真っ白にしてひん剥いていた。目の前の光景がおよそ信じられないのだろう。それは、秀一もまったく同じ気持ちだった。
さらに彼女は右足を振りかぶると、秀一に向かって思い切り蹴りつけた。
フロントガラスが、たちまち蜘蛛の巣のようになってビシッと割れる。ブーツの先端は車の中にまでめりこんで貫通している。
「あれ? 思ったより頑丈じゃん、これ。一発でぶち破れると思ったのに――」
ガラス片をパラパラと散らせながら足を引き戻すと、続けて彼女は助手席に座る秀一に向かって右手をかざした。
先ほどのボンネットを壊した時のように、彼女の手の平に光の粒が集積していく。
「う、うわあああああああああ!」
たまらず秀一が絶叫する。荷物を肩にかけて慌てて外へ飛び出すと、入れ替わりざま、彼の座っていた助手席は、光の衝撃によって凄惨にぶち壊されていた。
「ハハ、ハハハハハハハ!! そうか……これは夢だな。そうなんだな! イヒヒヒヒイヒ」
運転手から聞こえてきたのは、けっこうヤバイ感じの笑い声だった。たぶん、現実逃避を始めたのだろう。申し訳ない気持ちしかないが、とはいえ、今は構っていられない。
(くそ――!)
少女がボンネットから飛び降りる姿を見て、秀一は再び全力で走り出した。
しかし、
「鬼ごっこはもう終わり。飽きたもの」
今度はカンタンに追いつかれてしまっているらしい。すぐ背後から、彼女の冷ややかな声が聞こえていた。
(どうして――!? 俺のほうが速いはずじゃ――)
首だけ振り返らせると、秀一はぎょっと目を疑った。
彼女は先ほどまでのように走るのではなく、まるでスケートのようなフォームで地面を滑走していたのだ。
(そんなんアリかよ……!?)
そこで秀一はようやく理解した。先ほどから彼女が突然にして姿を現していた理由を――
彼女の履いているブーツ。それはただの靴ではなく、なにかしらの技術製品であったのだ。強い推進力を生み出して、ほとんど無音で操縦者を移動させている。つまり、秀一に気づかれないように先回りしていたのだ。
少女はその姿勢のまま前に屈むと、まるで抜刀するかのように片腕を構えてみせた。
(まずい――!)
とっさに秀一が地面に身を投げ出すと、頭上で鋭く風を切る音が聞こえた。
背後では、攻撃に失敗した少女がいなされた闘牛のようになって、しばらく離れた場所でようやく身を翻していた。
どうやら、なんとか回避はできたらしい。
「……その脚、まっすぐは進めても急旋回はできないんだな」
「だからなに? アンタを殺るのに一ミリも困らないけど」
秀一が息を呑む。彼女の言う通りだったからだ。
助かる策などありそうにない。そして、なにもアイデアを考えつかないうちに、彼女は畳みかけるように攻撃を再開した。
「くそっ……!」
道路の脇の河川敷――秀一は攻撃のタイミングを見計らうと、今度はそこに向かって思い切り飛び込んだ。
斜面になった草土をゴロゴロと転がって――岸辺に着く頃には、ポロシャツもジーンズもすっかり泥まみれになっていた。
遅れて、少女が坂道を降りてくると、
「逃げ場はない。これで最後ね」
ぼろぼろになった少年を見て、彼女はそう告げた。