噂 (1/2)
それは七月のよく晴れた中旬のことだった。
「秀一! すごいじゃん。また一位なんて!」
一人の少女がはしゃいだように騒ぐと、少年はぴたりと足を止めた。たまらず周囲に群がる生徒たちの好奇の視線が彼のもとに集まってくる。
羽毛のように柔らかそうな黒髪に、四角い黒縁の眼鏡――全体的に黒色を好んでいそうな風貌で、背筋のよく伸びた中肉中背の体格には、襟付きの制服がよく似合っていた。
『理系コース 一位 阿我理 秀一』
デジタル電子掲示板に表示される一位の生徒。それは紛れもなく少年の名前だった。光雲高校では恒例のことで、テストが終わると、いつも学年順位が公に発表されるのである。
だが、秀一は決して嬉しがりはしなかった。昔から神童と呼ばれ続けた彼にとって、そんなことは些細なことでしかないからだ。
彼は生まれつきの釣り目をさらに不機嫌そうに尖らせると、声をかけてきた少女のことを鋭く睨みつけた。
「ふん。こんなものは俺ならば当然の結果だ。いちいち騒ぐなよ。うっとうしい」
「まーた……あんたはそうやって偉そうに。いいのかな? このわたしにそんな口きいて」
彼女の名前は、織原琴子。
同じ二年生の女子で、秀一にとっては小学生からの幼馴染でもある。身長は低く、全体的に小柄なのだが、太陽みたいな活発さが全身にあふれて強い存在感を放っている。黒髪のショートにクシャっとした緩いパーマをかけており、ふっと笑うと意地の悪そうな猫っぽくなる瞳が特徴だった。
彼女のそんな何を考えているのか分からないような動物じみた視線が、秀一は昔からの苦手であった。
「お……お前に逆らったからなんだってんだよ……」
たじろいだように尋ねると、琴子はニヤリとして、周囲に聞こえないように顔をそばに近づけて小さな声でこっそり耳打ちした。
「――あんた。最近、ナルルの写真集を買ったんですって?――」
「……」
絶句するしかなかった。
ナルルとは、ただいま絶賛売り出し中――『時代の流れも恋する天使』がキャッチコピーの現役女子高生アイドル、成瀬流々(なるせ るる)のことであった。そして同時に、秀一が密かに応援しているアイドルのことである。
「ど、ど、どうして、それを……あれはデジタルデータで買ったんだぞ! 俺のパソコンにしか入ってないはずなのに――!?」
明らかな動揺を隠せず、秀一の顔から、みるみるうちに血の気が引いていった。
「ふふふ……。わたし。おばさまとは昔から仲が良いからね。なーんでも知ってるのよ? ホント、幼馴染って素晴らしいわよね」
琴子は、まるで悪魔のように邪悪な笑みを浮かべながら、印籠のようにスマホを掲げてみせた。画面には母親との最近のチャット記録が映っている。きっとそれは氷山の一角に過ぎないものだ。
(……あ、ん、の、バ、バ、ア……!)
腸が煮えくり返るような激情。もしも彼女ごと街を飲み込んでくれる火山噴火スイッチなど所有していたら、少年は迷わず押してしまいかねない勢いだった。
しかし、少年は思い留まった。いや、思い留まらずを得なかった。
母親が自分のパソコンの情報を知っているということは――つまり、他の情報も漏れている可能性が高い。すなわち、織原琴子にはナルルの写真集よりすごい秘密を握られているのかもしれないのだ。
下手に逆らえば、藪蛇から大蛇が飛び出しかねない。具体的には、Eドライブあたりのデータが火を噴くと、秀一の人生はほぼ確実に終わりを迎えてしまう。
(……こいつ……どこまで知ってやがる……!)
相手の出方を伺うように、ごくりと息を呑んで、秀一。一方の琴子はまぎれもない勝利を確信した様子だった。
「わたし、おばさまに昔から頼まれてるのよ。秀一が天狗にならないように見ておいてねって」
「う、うるさい! そうやって、いつまでも優位ぶってられるのも今のうちだからな! あと一年ちょっともすれば、俺は海外の大学生! 晴れて自由の身! 毎日が研究三昧のノースタディノーライフだ! いざ行かん、天才科学者への道! こんな公立高校など離れて、お前らの呪われたネットワークからも解放されるんだからな!」
「……そうなると、あんたって、ますます友達できなさそうね……」
琴子の言葉に同調して、周囲にいた生徒たちまで一緒になったようにウンウンと頷いて肯定している。
(くそ……琴子のくせに生意気な……)
反論の一つでもしてやろうかと思うが、今の状況では劣勢だった。まずは、情報流出の原因を調べないことには戦えそうもない。
怒りをぐっと堪えて、秀一は戦略的撤退を余儀なく選択した。
「ちょっと、どこ行くの。秀一」
「……帰るんだよ。そもそも俺は順位表なんかを見に来たんじゃなくて、帰る途中だったの。ったく、なんで、この高校には昇降口が一個しかないんだか……これだから公立は困る。金がなくてな」
「待ってってば、秀一。一つ気になる噂があってさ」
「いや、いい。俺は聞きたくない。じゃあな――」
そうきっぱり断ると、秀一はくるっと背を向けて迅速に逃走を開始した。これ以上、無駄な時間は過ごしたくない。
だが――
なぜか彼女はしつこくついてきた。おまけに大股で歩く速度をかなり早めているのに、しっかり横に並んでくっついてくる。
トコトコ、トコトコと……
秀一はたまらず悲鳴をあげた。
「だぁぁぁ……ついてくんなっつうの! いくら幼馴染だからって、いつもいつまでも馴れ馴れしすぎるんだよ!」
「あんたこそ! ちょっと話くらい聞いてくれたっていいでしょ!」
怒ったように、琴子。秀一は指先をわなわなと震わせて、さらに続けた。
「いいや、聞きたくもないね。なにせ噂なんて、根拠のない虚構およびフィクションが大半だからな! 暇人が作りし暇人成分100%の暇人だけが有り難がるヒマトーク! そんなもの、お前と同じように暇を持て余して暇にあかした暇人同士で木曜の夜あたりにでも一緒によろしく暇暇しく楽しんでくれっつうの!」
「……帰宅部のアンタにだけは絶対に言われたくない台詞ね……」
「帰宅部上等。俺は自分の将来の勉強で忙しいんだ。部活なくとも暇じゃないんだよ。なにせ、やることが山ほどあるからな」
琴子は呆れたように嘆息すると、今度はお願いするように言い直した。
「あのさ、一応、ねつ造でも作り話でもないんだから、ギャーギャーいわずにちゃんと聞いてよ。あんたにちゃんと関係ある話なんだから」