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樽の番号が語る嘘、崩れた七番区画

「先生、水位、上がってます」


トトの声が、堰の上に響いた。


ケンジは記録板から顔を上げた。


「流量はどうだ」


「毎秒二百……いや、二百五十まで来ました」


「上がるペースが速すぎる。何秒で二百から二百五十に達した」


「え、ちゃんと計ってません……すみません、次から計ります」


「今からでいい。数字は逃げるとすぐ嘘をつく」


「はい……数えます、今から」


「時計代わりに、俺の呼吸を数えてもいい。十で読み上げてくれ」


「分かりました……一、二、三……」


「予定より速いな。バルガス、締切りの様子は」


「今のところ異常なしだ。持ってるぞ」


石工バルガスの声には、まだ余裕があった。


だがケンジの目は、右岸寄りの一区画に釘付けになっていた。


わずかに、壁面が膨らんで見える。


濡れた石の表面が、光を鈍く弾き、その奥で何かが軋むような音を立てていた。


低く、長く尾を引く音。


石と石とがこすれ合う、耳の奥にざらつく響きだった。


「トト、七番区画の様子を見てくれ。目視でいい」


「はい、今……あれ」


「どうした」


「壁が、少し出てるような……気のせいですか」


「気のせいかどうか、お前の目で確かめてから答えてくれ」


「もう一回見ます……やっぱり、出てます。さっきより」


「どれくらい出てる。指何本分だ」


「二本……いえ、三本分くらいです」


「気のせいじゃない。離れろ、トト!」


その声が終わるより早く、鈍い音が響いた。


ゴボォォ、と壁面が内側から押し出され、亀裂が走る。


水しぶきが、亀裂の隙間から霧のように噴き上がった。


「うわあ、崩れる!」


村人の叫びが飛び交う中、七番区画が一気にはらみ出した。


締め切っていた水が、堤の隙間から噴き出す。


石と土がまとめて剥がれ落ち、濁流に呑み込まれていく。


「せんせ——っ!」


トトの足元が崩れた地面ごと持っていかれ、濁流に呑まれかけた。


「トト!」


「先生、あっちだ、早く!」


「バルガス、先に行っててくれ!」


「もう行ってる、遅れるな!」


ケンジは迷わず土手を駆け下りた。


バルガスも同時に飛び出し、水の中へ腕を伸ばす。


「離すな、腕をつかめ!」


「つかんで、ます……っ、滑る……!」


「もっと強く握れ、諦めるな!」


「爪が立たない、先生、滑るんです……!」


「泥に足場を作る、少しだけ耐えてくれ!」


「早くしてください、腕が抜けそうです……!」


「あと少しだ、耐えろ!」


「力抜くな、俺が引く。ケンジ、足場を作れ!」


「板だ、そこの足場板を寄越してくれ!」


「先生、これでいいですか!」


「それでいい、突き立てろ!」


村人が投げた板をケンジが受け止め、濁流の中に突き立てる。


泥水が膝の裏まで這い上がり、足を持っていかれそうになった。


冷たさよりも先に、濁った水の重さが両足に絡みついてくる。


腕に走る痛みより先に、耳の中で水音だけが大きく響いていた。


バルガスがトトの腕を掴んだまま、渾身の力で引き上げた。


「よし、上がったぞ!」


トトの体が土手に転がり出る。


咳き込みながらも、息はある。


泥と草にまみれた髪から、水が滴り落ちていた。


「トト、大丈夫か。どこか痛むところは」


「だい、じょうぶ……です……水、飲みました、けど」


「本当にどこも痛くないか。手足は動くか」


「動きます……ちゃんと、動きます……」


「無理に喋るな。まず息を整えろ」


「先生こそ、腕、擦りむいてます……」


「これくらいはどうってことない。お前が無事なら十分だ」


「バルガスさんも、ありがとうございました……」


「礼はいい。次からもっと早く逃げろ」


濁流はなおも下流へと流れ続けていた。


田植えを終えたばかりの水田に、勢いよく水が押し寄せる。


苗が根こそぎ浮き上がり、泥水の上を漂っていく。


小さな緑の列が、みるみる乱れて散っていった。


「今年の苗が……」


「せっかく植えたばかりなのに……」


「またやり直しか……何度目だ、これで」


村人たちの声が、力なく落ちた。


「王室の贈り物でも駄目なら、結局あんたの手順も運次第じゃないのか」


誰かが放った言葉に、周囲がざわめく。


「違う、あれは通常配合の区画じゃない」とバルガスが言い返しかけたが、続きは飲み込まれた。


ケンジは何も言い返さなかった。


トトの背をさすりながら、崩れた区画をただ見つめていた。


割れた石の断面から、まだ白い水煙が立ち上っている。



「残念です」


天幕から歩いてきたクラインが、静かに口を開いた。


濡れた地面を踏んでも、外套の裾一つ汚さずに。


「王室の魔力で、応急的に塞ぎましょうか」


「……あんたが」


「私が、です。魔力なら、この程度の亀裂は瞬時に埋まります」


「瞬時に、って、そんなことできるんですか」


トトが咳き込みながら顔を上げた。


「ええ。魔力があれば、造ることも、直すことも、造作もない」


「便利なもんだな、魔力ってのは」


バルガスが低く唸るように言った。


「便利なだけなら、なぜ最初からそれで堰を造らなかった」とケンジが問うと、クラインの笑みがわずかに歪んだ。


「魔力は、いずれ尽きるものです。だからこそ、今日は特別に使う」


「尽きるものを、今日だけ使うと」


「応急処置、と申し上げたはずです」


「今すぐ塞げるのはありがたい。だが、これで終わりにはさせない」


「終わりというのは?」


「なぜ壊れたか、ちゃんと調べる。塞ぐのはその後だ」


「調べたところで、結果は変わりませんよ」


「変わる。原因が分かれば、次は壊れずに済む」


「原因なら、もう分かっているのでは? 田舎の窯の癖、と」


「その言い訳が通ると思ってるならお笑いだ」


「では何だと仰るんです。私にはまだ、確たる証拠が見えませんが」


「証拠はこれから出す。逃げる前に待っていてもらう」


クラインは薄く笑い、それ以上は言わなかった。


随員に指示を出し、崩れた区画へ向かって歩いていく。


「先生、私、大丈夫ですから。見てきます」


「無理するな。座ってろって言っただろ」


「でも、記録は……あ」


トトが崩れた瓦礫の中に目を留めた。


泥にまみれた木箱の間から、一枚の板が覗いている。


濁流を被ったはずなのに、表面はほとんど傷んでいなかった。


角の一つも欠けておらず、刻まれた線は雨に濡れて黒々と際立って見える。


「先生、あれ」


「記録板か。よく流されずに残ってたな」


「奇跡みたいですね……普通、流されて割れてもおかしくないのに」


「奇跡じゃない。表に何か塗ってあるのかもしれん。後で調べよう」


トトが泥の中から板を拾い上げ、袖でこすった。


刻まれた文字が、少しずつ現れてくる。


「打設した日付と……樽の番号、書いてあります」


「読めるか。読んでくれ」


「はい……先生……」


トトの指が、番号のところで止まった。


指先がわずかに震え、板から離れない。


「どうした、番号がどうかしたか」


「もう一度確かめてくれないか。見間違いかもしれない」


「見間違いじゃ、ないです……何度見ても、同じです」


「この番号、王室の樽と違います」


「見せてくれ」


ケンジは板を受け取り、灯りに近づけた。


刻まれた数字は、確かに「三」に見える。


だが王室から届いた樽には、はっきりと「七」の焼き印が押されていた。


「トト、もう一度樽の焼き印を見てきてくれるか」


「はい、確かめてきます……あ、やっぱり七です。刻んであるのは七」


「板には三、樽には七。数字が合わない」


「打ち間違い、ってことはないんですか」


「あるかもしれない。だが確かめる価値はある」


「先生、見せてきていいですか」


「いや、俺が持っていく。お前はここにいろ」


ケンジは板を握ったまま、崩れた区画へ向かうクラインの背を追った。


「クラインさん、これを見てもらえますか」


クラインが足を止め、振り返る。


差し出された板に目を落とし、わずかに眉を寄せた。


「……番号が違う、と?」


「ここに刻まれてるのは三番。あなたの樽の焼き印は七番です」


「単なる記入違いでしょう。現場ではよくあることです」


「記入違いなら、なぜこの板だけ濁流を被って無傷なんですか」


クラインの視線が、一瞬だけ板から逸れた。


「……偶然、でしょう」


「偶然が、都合よく二度も重なるとは思えません」


答えは返ってこなかった。


外套の裾を握る指先に、わずかな力がこもるのを、ケンジは見逃さない。


「今日はここまでにしましょう。夜も更けています」


クラインはそう言い残し、随員を促して天幕へ足早に戻っていく。


その背中を見送っていたバルガスが、ぼそりと呟いた。


「今の、逃げたな」


「逃げたんじゃない。時間を稼いだだけだ」


「同じことだろう」


「違う。稼ぐってことは、隠す時間が要るってことだ」


崩れた田を見つめていた村人の一人が、ぽつりと声を上げる。


「あの澄まし顔が崩れるとこ、初めて見たな」


「ああ。少しは、こっちの言い分も効いたってことか」


「運次第、は言い過ぎだったかもな……あの人、痛いとこ突かれてたし」


ケンジはトトから板を受け取り直し、もう一度灯りにかざした。


刻まれた番号は、何度見ても読み違えようがなかった。


「トト、これは俺たちの手で調べる。誰にも渡すな」


「はい……先生、これで、何か分かるんですか」


「まだ全部じゃない。だが、確実に近づいた」

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