『戻れない夜』
第一章 変わらない日々
東京・品川区。
山崎力、五十二歳。
営業一筋で三十年。
部下に頼られ、上司に信頼され、家庭もある。
妻と、長男と長女。
すべては整っていた。
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不満はない。
だが——
満たされているかと問われると、
少しだけ言葉に詰まる。
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ある日の昼、スマートフォンが震えた。
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見慣れない名前。
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——山崎かおり
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記憶の奥が、ゆっくりと動く。
従姉・山崎一子の娘。
三十五年前に数度会っただけの存在。
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——「覚えていますか」
——「今、吹田市にいます」
——「もしよければ、一度お会いできませんか」
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断る理由はいくらでもあった。
だが——
決定打はなかった。
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「……一度だけ」
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その瞬間、すでに何かが動き出していた。
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第二章 寄り道
数日後。
吹田駅に降り立つ。
夕方の光が、街をやわらかく包んでいた。
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そのまま向かうはずの足が止まる。
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駅前の小さな酒屋。
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理由はない。
ただ、手ぶらでは落ち着かなかった。
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缶酎ハイ500mlを三本。
つまみをいくつか。
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「これでいいか」
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袋は軽い。
だが、妙に重く感じた。
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引き返すこともできた。
それでも——
歩き出していた。
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第三章 再会
吹田市のマンション。
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インターホン。
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「力さん?」
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ドアが開く。
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三十五年ぶりの再会。
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そこにいたのは、
親族ではなく、一人の女性だった。
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「久しぶり」
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その一言で、時間が動き出す。
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第四章 長い夜
午後五時。
缶酎ハイの音。
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最初は、ただの会話。
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午後七時。
過去を埋める時間。
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午後九時。
距離が縮まる。
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午後十一時。
沈黙が意味を持つ。
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午前一時。
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「……久々」
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その一言に、
これまでの人生が滲む。
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距離が消える。
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拒めば止まったはずだった。
だが——
止めなかった。
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触れる温度。
近い呼吸。
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それは衝動ではない。
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選んでしまった時間。
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午前二時。
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戻れる場所はあった。
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それでも——
戻らなかった。
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第五章 日常
東京・品川区。
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何も変わらない日常。
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だが、自分だけが戻っていない。
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思い出す。
夜の静けさ。
あの距離。
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終わったはずなのに、
終わっていない。
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第六章 現実
——「少し、話せますか」
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電話。
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「……できました」
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子ども。
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現実が、形を持つ。
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「どうするつもりだ」
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「まだ、決めてません」
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揺れる声。
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「でも、今回は違う気もするんです」
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その言葉が、重く残る。
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第七章 再訪
再び、吹田市。
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同じ部屋。
だが、違う空気。
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「来てくれたんですね」
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テーブルは空のまま。
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「どうするつもりだ」
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「ちゃんと決めたい」
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その言葉に、初めての強さ。
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第八章 選択
「決めた」
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静かな声。
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「俺は、戻る」
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家庭へ。
仕事へ。
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築いたものを守る選択。
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沈黙。
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「そうですか」
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涙はない。
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「力さんらしいですね」
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その一言に、すべてが込められている。
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第九章 覚悟
「私も、決めます」
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もう誰かに頼らない。
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子どもの寝息。
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それが、現実。
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力は、それを一度だけ聞く。
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それ以上は踏み込まない。
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最終章 別れ
玄関。
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靴を履く。
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ドアに手をかける。
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「来てくれて、よかったです」
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振り返る。
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頷く。
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外へ出る。
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振り返らない。
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それが選んだことだから。
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エレベーターが閉まる。
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静かに、下りていく。
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それぞれの場所へ。
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戻る場所へ。
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戻れないものを抱えたまま。
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終




