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『戻れない夜』

作者: 源喜英
掲載日:2026/04/25

第一章 変わらない日々


東京・品川区。


山崎力、五十二歳。


営業一筋で三十年。

部下に頼られ、上司に信頼され、家庭もある。


妻と、長男と長女。


すべては整っていた。



不満はない。


だが——


満たされているかと問われると、


少しだけ言葉に詰まる。



ある日の昼、スマートフォンが震えた。



見慣れない名前。



——山崎かおり



記憶の奥が、ゆっくりと動く。


従姉・山崎一子の娘。


三十五年前に数度会っただけの存在。



——「覚えていますか」


——「今、吹田市にいます」


——「もしよければ、一度お会いできませんか」



断る理由はいくらでもあった。


だが——


決定打はなかった。



「……一度だけ」



その瞬間、すでに何かが動き出していた。



第二章 寄り道


数日後。


吹田駅に降り立つ。


夕方の光が、街をやわらかく包んでいた。



そのまま向かうはずの足が止まる。



駅前の小さな酒屋。



理由はない。


ただ、手ぶらでは落ち着かなかった。



缶酎ハイ500mlを三本。


つまみをいくつか。



「これでいいか」



袋は軽い。


だが、妙に重く感じた。



引き返すこともできた。


それでも——


歩き出していた。



第三章 再会


吹田市のマンション。



インターホン。



「力さん?」



ドアが開く。



三十五年ぶりの再会。



そこにいたのは、


親族ではなく、一人の女性だった。



「久しぶり」



その一言で、時間が動き出す。



第四章 長い夜


午後五時。


缶酎ハイの音。



最初は、ただの会話。



午後七時。


過去を埋める時間。



午後九時。


距離が縮まる。



午後十一時。


沈黙が意味を持つ。



午前一時。



「……久々」



その一言に、


これまでの人生が滲む。



距離が消える。



拒めば止まったはずだった。


だが——


止めなかった。



触れる温度。


近い呼吸。



それは衝動ではない。



選んでしまった時間。



午前二時。



戻れる場所はあった。



それでも——


戻らなかった。



第五章 日常


東京・品川区。



何も変わらない日常。



だが、自分だけが戻っていない。



思い出す。


夜の静けさ。


あの距離。



終わったはずなのに、


終わっていない。



第六章 現実


——「少し、話せますか」



電話。



「……できました」



子ども。



現実が、形を持つ。



「どうするつもりだ」



「まだ、決めてません」



揺れる声。



「でも、今回は違う気もするんです」



その言葉が、重く残る。



第七章 再訪


再び、吹田市。



同じ部屋。


だが、違う空気。



「来てくれたんですね」



テーブルは空のまま。



「どうするつもりだ」



「ちゃんと決めたい」



その言葉に、初めての強さ。



第八章 選択


「決めた」



静かな声。



「俺は、戻る」



家庭へ。


仕事へ。



築いたものを守る選択。



沈黙。



「そうですか」



涙はない。



「力さんらしいですね」



その一言に、すべてが込められている。



第九章 覚悟


「私も、決めます」



もう誰かに頼らない。



子どもの寝息。



それが、現実。



力は、それを一度だけ聞く。



それ以上は踏み込まない。



最終章 別れ


玄関。



靴を履く。



ドアに手をかける。



「来てくれて、よかったです」



振り返る。



頷く。



外へ出る。



振り返らない。



それが選んだことだから。



エレベーターが閉まる。



静かに、下りていく。



それぞれの場所へ。



戻る場所へ。



戻れないものを抱えたまま。



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