第3章 蒼太の過去II 大きな背中
蒼太高校一年・四月
第一印象は、大きな背中だった。
父に、少し似ているかもしれない。
それが、青さんへの最初の印象。
僕は、青さんを初めて見たときから、
なぜか気になっていた。
特別目立つ人ではない。
声が大きいわけでも、
中心にいるタイプでもない。
それなのに、気づくと視線が追ってしまう。
最初は、
「落ち着いた人だな」
「群れない人なんだな」
そう思っていた。
でも、しばらく見ているうちに、
ふと、違和感が胸に引っかかった。
――あれ?
――ひょっとして……孤立してる?
青さんに話しかける人は、
ほとんどいなかった。
無視されているわけでも、
嫌われているわけでもない。
ただ、まるでそこに“いない”みたいに扱われている。
空気のように。
それでも青さんは、気にした様子もなく、
黙々とキャッチング練習をして、
雑用をして、
筋トレをしていた。
その大きな背中は、
いつも静かで、まっすぐだった。
――この人となら。
――なんとなく、気が合いそうだな。
理由なんて、なかった。
ただ、そう感じただけ。
話を聞くと、青さんは捕手らしい。
でも、決まった相方はいないという。
だから、孤立しているのかもしれない。
僕は、自分の手のひらを、ぎゅっと握った。
(……だったら)
(僕の球、取ってくれるかな)
胸の奥で、小さな期待が、
そっと芽を出した。
入部してから、数日が経った。
自主練の時間。
僕は、
投球練習に付き合ってくれる人を探していた。
同期の中には、投手希望も、捕手希望も、
何人かいる。
そのうちの何人かと、
順番にバッテリーを組んでみる。
ストレート。
バシュッ。
「うん、いいんじゃない?」
相手は、軽くそう言った。
(……次、フォーク、投げてみようか)
頭をよぎった考えを、すぐに打ち消す。
相手は、そこまで大きな体格じゃない。
もしフォークを受けて、
怪我でもさせてしまったら。
もし、嫌な顔をされたら。
――入部したばかりで、
浮いてしまいたくない。
その気持ちが、腕を止めた。
蒼太はフォークを封印して、
ただひたすら、無難な球を投げ続けた。
ストレート。
軽めのスライダー。
ゆるいカーブ。
安全で、角の立たない球ばかり。
(……これで、いい)
そう言い聞かせながら。
でも、胸の奥では、
どこか物足りなさが、静かに残っていた。
数日後。
また、自主練の時間。
投球練習をしようとしていると、
この前組んだ同期の捕手が声をかけてきた。
「岡谷、今日も一緒にやろう」
一瞬、迷ってから、首を振る。
「……ごめん。今日は、いいや」
パタパタパタパタ。
キャッチボールの音が、
グラウンドに散っていく。
(……あ)
いた。
青さん。
やっぱり、今日も一人だ。
周りを見渡しても、
青さんに声をかける人はいない。
(なんでなんだろう?)
胸の奥が、ざわっとする。
(……今日は)
(今日は、声をかけてみよう)
でも、先輩だ。
どうやって声をかければいいのか、
わからない。
足が、止まる。
視線の先には――
大きな背中。
(この人なら)
(きっと)
(きっと……)
取ってくれる。
喉が鳴る。
勇気をかき集めて、一歩、踏み出す。
「せ、先輩‥‥す、すみません……」
青が、振り返る。
「……あの」
心臓の音が、うるさい。
「よかったら……」
一瞬、言葉が詰まって。
それでも、言った。
「僕の球……受けてもらえませんか」
「……あ、いいよ。組もうか」
「……あ、ありがとうございます」
胸の奥が、ざわっと揺れた。
青の声は、低くて、落ち着いている。
どこか懐かしい。
(……やっぱり、父に似ているのかもしれない)
そう思いながら、ブルペンに立つ。
(まずは……ストレート)
腕を振る。
シュッ。
――バン。
ミットに収まった瞬間、
澄んだ、気持ちのいい音が響いた。
(……え)
もう一球。
今度は、さっきより力を込めて。
ビュッ。
――バーン。
胸の奥が、きゅっと掴まれる。
(……何なんだろう、この感覚)
投げた瞬間から、
「行ける」とわかる。
相性がいい。
理由は説明できない。
これは、投手としての勘だった。
「……うん。すごく、いいよ」
青のその一言で、胸が一気に熱くなる。
(よし……次、いこう)
「次、スライダー投げます」
ピシュッ。
――バーン。
迷いなく、きれいに収まる。
(……え)
(こんなに、気持ちよく取ってくれるんだ)
次。
「チェンジアップ、いきます」
ピュッ。
――バーン。
また、取った。
(……楽しい)
(楽しい……!)
心が、跳ねる。
そして、自然と――
あの球が、頭に浮かんだ。
(……この人なら)
(きっと、フォークも取ってくれる)
たとえ失敗しても。
たとえワンバンになっても。
――嫌な顔は、しない。
そんな確信が、あった。
「……じゃあ」
声が、少し震える。
「次、フォーク投げます。
まだ、不安定なんですけど……」
その瞬間。
青の体が、ほんの一瞬だけ、
ピクッと動いた。
(……よし)
踏み込む。
(取って)
(取って……)
(お願い、取ってくれ)
ピュッ。
――ワンバウンド。
――バーン。
取った。
……取ってくれた。
確かに、そこにあった。
蒼太のフォークを。
(……あ)
(取った……)
(取ってくれた……)
胸の奥で、何かが音を立てて、
ほどけていく。
練習の片付けが始まる。
転がっていたボールを拾い、
道具をまとめる音が、
グラウンドに散っていく。
蒼太は、何度も深呼吸をした。
(……今、言わなきゃ)
青の背中に、声をかける。
「あの……先輩」
一度、言葉が途切れる。
「あの……よかったら……」
手が、少しだけ震えた。
「明日からの自主練習、
僕と、組んでもらえませんか」
一瞬の、間。
「……おう」
青は顔を上げて、短く。
「いいよ。組もうか」
青のその一言で、胸の奥が一気にほどけた。
「……ありがとうございます」
声が、少し上ずる。
(やった……)
(やっと……)
やっと、見つけた。
僕の球を、受けてくれる人。
投げることを、怖がらなくていい相手。
――この人だ。
蒼太は、確信していた。
その後、蒼太が
「自分は青に恋をしているのだ」と実感した
のは、それから、ほんの数日後のことだった。
気づけば蒼太は、
いつも青の大きな背中を追っていた。
「先輩、練習しましょう」
「先輩、お疲れさまでした」
「先輩、おはようございます」
「先輩、学食……一緒に行きませんか」
――先輩。
――先輩。
何度も、何度も。
蒼太が声をかけると、
青は決まって、
あの低くて落ち着いた声で答えてくれる。
「……おぅ、いいよ」
「ああ‥、いいよ」
それだけなのに。
その声を聞くだけで、
胸の奥が静かに落ち着いた。
安心して、
心地よくて、
守られているような気がした。
(……ずっと、この人といたい)
そう思うようになった頃には、
もう後戻りはできなかった。
蒼太にとって青は、
ただの「バッテリーの相手」ではなくなっていた。
完全に――
片思いだった。
* * *
蒼太 高校1年・8月
夏の県大会がおわり、
練習はオフとなり、蒼太は部屋で休んでいた。
ある日。
母から、電話がかかってきた。
「蒼太、学校は……慣れた?楽しい?」
「うん。楽しいよ」
「そう。友達はできた?」
「できたよ。
先輩も優しいし、練習も楽しいし……
寮生活も、思ったより快適だよ」
「そう……よかった」
少しだけ、安心したような声。
「あんまり無理して、怪我しないようにね」
「うん。
母さんも、仕事しすぎて体壊さないように」
「ありがとう」
一瞬、間が空く。
「……それでね。今度のお盆休みなんだけど」
その一言に胸の奥が、わずかにざわつく。
「私と、お父さん……
やっぱり、離婚することになりそうなの」
「……そう‥‥なんだ」
「今、弁護士さんといろいろあって、
ちょっと忙しくてね」
淡々とした口調だった。
「だから……
お盆は、無理に帰ってこなくても大丈夫よ」
「もし帰ってくるなら、鍵は置いておくから」
「……わかった」
少しだけ、間を置いて。
「ちょっと、考えるね」
「そう。
じゃあ……また、電話するわ」
通話が切れる。
静かになった部屋で、
蒼太はしばらく、
スマホを握ったまま動けなかった。
蒼太は、帰省するのをやめた。
母に会いたい気持ちは、確かにあった。
けれど、帰ればきっと、
自然と離婚の話を聞くことになる。
それが、嫌だった。
蒼太は、まだ――
その話を、聞きたくなかった。
だから、帰らないことにした。
ごそごそと、寮内が慌ただしくなる。
帰省する寮生たちが、
大きな荷物を抱えて行き交っている。
蒼太は、窓辺に立ち、外を眺めていた。
そこに、見慣れた姿があった。
――青。
大きなバッグを肩にかけ、
あの大きな背中が、寮の外へと出ていく。
蒼太は、窓越しに、
青の背中が少しずつ、小さくなっていくのを
ただ、黙って見つめていた。
そのとき、同室の同期が声をかける。
「なあ、岡谷。帰らないの?」
「あ、うん。
うち、お盆に親戚が集まる習慣なくてさ。
自由にしていいって、言われてるんだ」
「へえ、そうなんだ。自由でいいな」
そう言って、同期はバッグを持ち上げる。
「じゃ、もう行くわ」
「……うん。行ってらっしゃい」
扉が閉まり、足音が遠ざかる。
やがて、寮内は静かになった。
ほとんどの学生が、もういない。
蒼太は、そっとカーテンを閉める。
それはまるで――
自分の心に、カーテンを下ろすみたいだった。
* * *
高校一年・十二月
――冬合宿前。
蒼太は、冬合宿に向けた荷造りをしていた。
ユニフォーム、アンダーシャツ、ノート。
一つずつ確認していると、スマホが震えた。
――母からだ。
胸の奥に、嫌な予感が走る。
(……来た)
一度、深く息を吸ってから、
通話ボタンを押した。
「もしもし」
「蒼太……ちょっと、話いいかしら」
「うん」
「私ね……お父さんと
――あの人と、離婚することになったの」
「……そうなんだ」
「もう、離婚は成立したわ」
“お父さん”から、
“あの人”に変わったことが、胸に刺さる。
「ごめんね。こんなことになって」
「それで……親権は、私が持つことになった」
少しだけ、事務的な声。
「まあ、離婚の原因は……
あの人の、浮気だったから」
(……浮気)
胸が、ぎゅっと締めつけられる。
「心配しないで。
蒼太にはこれからも、
いろいろ支援は受けられるから」
それから母は、淡々と説明を続けた。
慰謝料が支払われたこと。
実家の名義が、母のものになったこと。
蒼太が大学を卒業するまで、
養育費が振り込まれること。
蒼太は、ただ聞いていた。
感情を挟む余地は、なかった。
そして、最後に。
「それからね……蒼太」
「来月から、月に一回、
お父さん――あの人に、会ってね」
一瞬、言葉が理解できなかった。
「それが、養育費の条件なの」
「……大学、行きたいんでしょう?
だったら、お願いね」
「……わかった」
それ以上、言えなかった。
「じゃあ……
風邪ひかないようにね」
通話が切れる。
ガチャ、という音だけが残った。
蒼太は、スマホを握ったまま、
立ち尽くしていた。
窓の外は、鉛色の空。
今夜は、雪が降りそうだった。
その後、蒼太は、ひたすら野球に打ち込んだ。
理由は、単純だった。
野球をしている時間だけ、
野球に集中している間だけ、
青のそばにいられる。
投げれば投げるほど、
捕ってもらえればもらうほど、
青との距離が、ほんの少し縮まる気がした。
だから蒼太は、迷わず野球を選んだ。
けれど、一人になると、
どうしても考えてしまうことがあった。
――なぜ、母と父は離婚したのだろう。
原因は、父の浮気だと母は言っていた。
それは、きっと事実なのだろう。
でも、蒼太は知っていた。
それよりもずっと前から、
家は、もう壊れていたことを。
高校へ進学するとき、
母は、ふとした拍子に、こんなことを言った。
『悪いは私』
『私が、ちゃんとしていなかったから』
その言葉が、
ずっと、蒼太の頭から離れなかった。
(……僕は)
(ちゃんとした大人にならなきゃ)
ちゃんとして。
ちゃんとして。
もし、いつか恋人ができても。
誰かを大切に思うようになっても。
――ちゃんとしなきゃ。
母みたいには、なりたくない。
蒼太は、そう強く思っていた。
* * *
蒼太 高校二年生 夏。
夏の県大会。
蒼太は決勝のマウンドに立ち、
そこで、敗れた。
蒼陵高校は、決勝で敗退。
結果は、準優勝だった。
夏は、終わった。
――お盆休み
蒼太は、銀座の高級レストランにいた。
月に一度。
ここで、父と会う。
母が言っていた。
「月に一回、父親に会うこと」
それが、養育費の条件だと。
けれど蒼太は、
養育費のために来ているわけではなかった。
――ただ、父に会いたかった。
父のことは、嫌いではない。
それでも、母とあんなことになってしまったことを思うと、
簡単に許せるわけでもなかった。
本当は、もっと話したい。
聞きたいことも、言いたいことも、たくさんある。
けれど、母の顔が浮かぶたび、
言葉は喉の奥で止まってしまう。
そんな関係だった。
「蒼太、待たせたな。ごめん」
「ううん。大丈夫。そんなに待ってないから」
家を出た頃、
父は疲れ切った顔をしていた。
でも今は、顔色もよく、
どこか吹っ切れたように見える。
「元気だったか」
低くて、落ち着いた声。
蒼太は、父のその声も、嫌いではなかった。
「うん」
「決勝、残念だったな。試合、見てたよ」
「……そうなんだ」
少し、間を置いて。
「でも……あれは、僕が悪かったから。
僕がちゃんとしてなかったから
だから、負けたんだ」
父は、すぐに首を振った。
「蒼太、そんなことない」
「お前は、精一杯やってた。
それは、試合を見てて十分伝わってきた」
「だから、自分を責めるな。
胸、張れ」
「……父さん」
それ以上、言葉が出てこなかった。
父は、何も言わず、
そっと小さな箱をテーブルに置いた。
「これ。準優勝、おめでとう」
「……え?開けてもいい?」
「ああ」
箱を開ける。
中に入っていたのは、腕時計だった。
蒼太は、ブランドには詳しくない。
けれど、見ただけでわかる。
――高い。
――きっと、相当。
洗練されたデザインの時計だった。
「……ありがとう」
「まだ来年もある」
父は、少し笑って言った。
「来年は、甲子園だな」
「……うん。そうだね。頑張る」
その後は、取りとめのない話をした。
試験のこと。
野球のこと。
学校生活。
進学の話。
「大学は、好きなところに行けばいい」
「蒼太が行きたいところ、
学費も生活費も、ちゃんと出す」
「困ったことがあったら、いつでも電話しろ」
「……うん。ありがとう」
「じゃあ、また来月な」
店を出ていく父の背中を、
蒼太は、しばらく見つめていた。
その大きな背中が、
少しずつ、小さくなっていくのを。
* * *
高校二年・一月
蒼太は、また銀座の高級レストランにいた。
月に一度、父と会う日だ。
ただ――
今日の蒼太は、これまでとは違っていた。
クリスマスも、年末年始も。
蒼太は、恋人・青と一緒に過ごしていた。
初めての恋人。
初めて、
誰かと「一緒にいたい」と思えた時間。
蒼太は今、
自分でもわかるほど、幸せの中にいた。
父が、店に入ってくる。
「蒼太、待たせたな。ごめん」
「ううん。全然大丈夫」
自然と、声が明るくなる。
父は、一瞬、はっとしたように蒼太を見る。
「……元気そうだな」
「うん。元気だよ」
「この前と……表情が違うな」
「え? そうかな……えへへ」
父は、少しだけ、安堵したように息をついた。
料理が運ばれてくる。
蒼太は、いつもよりよく食べた。
「蒼太、まだあるぞ。
おかわりするか? 追加、頼むか?」
「え、そう?
じゃあ、もう少し食べる。
この肉、すごくおいしい」
父は、穏やかな顔で、その様子を眺めていた。
やがて、ふとした調子で、父が聞く。
「何か、いいことがあったか」
「うん。ちょっとね」
蒼太は、照れたように言った。
「恋人が、できたんだ」
「……ほう。よかったな」
「うん。それでね」
蒼太は、少し前のめりになる。
「夢ができたんだよ」
父
「‥‥‥」
蒼太は続ける。
「大学もね、同じところに行こうって話してる」
その瞬間、
父の表情が、ほんのわずかに曇った。
それに、蒼太は気づかない。
「だからね……もう大丈夫だよ」
「目標もできたし、
僕、ちゃんとした大人になるから」
父は、少し間を置いてから、静かに言った。
「……蒼太。それは、自分で決めたことなんだよな」
「うん。そうだよ。
自分で考えて、自分で決めた」
父は、小さくうなずいた。
「……そっか」
食事を終え、店を出る。
「あ、美味しかった。
父さん、ごちそうさまでした」
「ああ。じゃあ、また来月な」
「うん。また来月」
店の外で、別れる。
蒼太は、地下鉄の駅に向おうとしている――
「……蒼太」
父に呼び止められ、振り返る。
「なに?」
父は、一瞬だけ、言葉を選ぶようにしてから、言った。
「お前……
母親みたいには、なるなよ」
「……え?」
意味が、わからなかった。
ほんとうに、
単純に、意味がわからなかった。
何を言われたのか。
なぜ、今それを言うのか。
「……気をつけてな。蒼太‥‥」
父は、それ以上何も言わず、歩き出す。
蒼太は、その場に立ち尽くしたまま、
父の大きな背中が、
少しずつ小さくなっていくのをただ、見ていた。




