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第2章 蒼太の過去I 蒼太と母


バイト先のカフェに、


蒼太はシフトより早く着いた。




店内には、コーヒーの香りと、


静かな空気だけが満ちている。




蒼太は客席の端に腰を下ろし、


スマホを伏せて、


ぼんやりと天井を見上げた。




――自分の過去を、


思い出してみてはどうでしょう。




松本の言葉が、


遅れて胸に落ちてくる。




(……過去、か)




何から思い出せばいいのか分からず、


それでも目を閉じると、


自然と浮かんできたのは――


ずっと昔の、穏やかな景色だった。




* * * * * * * * *



第2章 蒼太の過去I 蒼太と母



* * * * * * * * *




小学生の頃。




家族は、仲が良かった。




父の名前は、岡谷一郎。


プロ野球選手だった。




一流投手として名を知られ、


テレビに映る姿を、


蒼太は誇らしい気持ちで見ていた。




母の名前は、岡谷ひとみ。


専業主婦で、


家のことをすべて切り盛りしていた。




父と母は、


高校時代からの付き合いだったと聞いている。




父がプロに入ってから、


思うような結果が出ず、


苦しい時期が続いたこともあった。




それでも母は、


一度も父のそばを離れなかった。




文句も言わず、


愚痴もこぼさず、


ただ、変わらずに支え続けていた。




母は料理が得意だった。




手間のかかった煮込み料理。


彩りのいい副菜。


テーブルに並ぶ料理は、


いつもあたたかくて、やさしかった。




母はきれいで、


よく笑う人だった。




父は、なかなか家に帰ってこなかった。




遠征。


合宿。


シーズン中は、家にいない方が多かった。




それでも――


帰ってきた日は、


必ず蒼太の時間を作ってくれた。




グローブを持って、外へ出る。




「よし、投げてみろ」




キャッチボールをしながら、


野球のことを教えてくれた。




フォーム。


握り方。


投げるときの呼吸。




難しいことは言わなかった。


ただ、優しかった。




母は、


そんな二人を少し離れた場所から見て、


夕飯の支度をしていた。




日が沈む頃、


家に戻ると、


テーブルには手の込んだ料理が並んでいる。




「おかえり」




「ただいま」




その声が、


当たり前のように交わされる場所。




それが、


幼い蒼太の世界だった。




――幸せだった。




疑うこともなく、


壊れるなんて、思いもしなかった。




胸の奥に、


あたたかいものが残っている。




……あの頃は。




まだ、


自分の居場所を疑わなくてよかった。




いつの頃からか、


家族は、少しずつおかしくなっていった。




はっきりとしたきっかけは、


蒼太にも分からない。




ただ――


中学に入った頃から、


何かが、確実に変わった。




父は、


さらに家に帰らなくなった。




成績が落ちていることは、


ニュースやスポーツ欄を見なくても分かった。




登板間隔は空き、


名前が載らない日が増えていく。




家に帰ってくる父は、


以前よりも無口で、


疲れた顔をしていた。




笑うことが、


少なくなった。




母は、


その分、家の中を必死に保とうとした。




料理は、


以前よりも、さらに手が込むようになった。




平日の夜でも、


煮込み料理。


焼き菓子。


手作りのケーキ。




「今日はね、スポンジからちゃんと焼いたの」




そう言って笑う母の声は、


少しだけ高かった。




母は、


父のことが、本当に大好きだった。




それは、


蒼太にも分かるほどだった。




ある日の夜。




食卓。




父は、箸を持ったまま、


どこか遠くを見ている。




「……一郎さん」




母が父の名前を呼ぶ声は、


昔と変わらず、やさしい。




「蒼太ね、


 今日の試合でヒット打ったのよ」




「……うん。センター前」




「……そうか」




父の声は低く、


元気がない。




「学校はどう? 練習、厳しい?」



「まあ……普通」




「そういえばね、


 今日ママ友たちと話してたら――」




母は、


蒼太の学校のこと。


ママ友の愚痴。


近所の噂話。




一生懸命、


話題をつなぐ。




「それでね、今日はちょっと頑張ってみたの」




「この煮込み、時間かけて作ったのよ」




「……うん」




父は、


料理に目を落としたまま、


小さくうなずくだけだった。




沈黙が落ちる。




母は、


それを振り払うように、


少し明るい声を出す。




「ねえ、一郎さん」




「……ん?」




「今度の休暇、


 久しぶりに旅行に行かない?」




「蒼太も中学生だし、


 家族で行けるのも、今のうちでしょ?」




パンフレットを広げる。




海。


温泉。


観光地。




母の声は、


楽しそうだった。




「ここ、前に行ったとき、


 よかったじゃない?」




父は、


その紙を見つめてから、


目を伏せた。




「……少し、考えさせてくれ」




それだけだった。




「……そう」




笑顔は崩さなかった。


崩さなかったけれど――


ほんの一瞬、


間が空いた。




蒼太は、


その沈黙を、


はっきりと覚えている。




父は、


辛そうだった。




母は、


明るく振る舞っていた。




そして蒼太は、


二人の間に流れる空気を、


無意識に感じ取っていた。




(……大丈夫なのかな)




でも、


そう口に出すことはなかった。




家族は、


まだ壊れてはいなかった。




ただ、


少しずつ、


噛み合わなくなっていただけだった。




* * *




中学二年の冬。




家の中は、


もう以前のような空気ではなかった。




父は、


ほとんど家に帰らなくなった。




帰ってきても、深夜。


朝にはもう、いなかった。




母の笑顔は、


目に見えて減っていた。




そして――




雪の降る夜。




二階の自分の部屋で、


蒼太はベッドに座り込んでいた。




ドアを閉めているのに、


一階の声が、はっきりと聞こえてくる。




最初は、低い声だった。


抑えた声。




それが、次第に――


抑えきれなくなる。




蒼太は、


両手で耳を塞いだ。




(……やめて)




でも、


音は消えない。




「‥‥一郎さん……浮気してるでしょ」




一瞬、


空気が凍りつく。




「違う。お前の勘違いだ」




「じゃあ、このメッセージは何?」




母の声が、震えている。




「……俺のスマホ、見たのか」




「わたしは……!」




「わたしは……


 一郎さんの夢を叶えるために、


 ずっと支えてきたじゃない!」




声は震え、


それでも必死に張り上げられている。




「高校のときから……


 プロに入ってからも……


 うまくいかない時だって、


 ずっと一緒に支えてきた!」




必死に、


言葉をつなぐ声。




「……それが、だよ」




「え?」




「それが……


 苦しかったんだ」




「なに……?


 何言ってるのか、分からない……」




「お前の――


 お前の、そういうところだよ!」




父の怒鳴る声。




蒼太の肩が、


びくりと跳ねる。




一瞬の間。




父の低く、疲れ切った声が返る。




「俺は――」




言葉を探すように、


一度、息を吐く。




「その手の込んだ料理も、


 手作りのケーキも……


 もう、見たくないんだ」




「……なに、言って……」




「誰かが、こんなの作れって頼んだか?」



声が、次第に荒くなる。




「俺は……俺の話を、聞いてほしかった」



「お前は、


 一度でもちゃんと、


 俺の話を聞こうとしたか?」




「……聞いてたわ」




「聞いてたつもりよ!」




「違う!」




怒鳴り声が、


家の中を震わせる。




「お前は、


 “支えてる自分”に、


 必死だっただけだ!」




「そんな……!」



「一郎さんがいなかったら……


 わたし、どうしたらいいの……」




母の声が、崩れる。




「お願い……私の悪いところ、直すから」




「お願い……!」




懇願するような声。




「それが……


 それが、重かったんだ」




「分かってくれ……


 俺は、苦しかった」




しばらく、


何も聞こえなかった。




その沈黙のあと――


父は、はっきりと言った。




「……もう、ここには帰らない」




「……え?」




「俺は、出ていく」




沈黙。




その沈黙が、


一番、重かった。




そして――




「……蒼太は、どうするのよ」




その名前を聞いた瞬間、


蒼太の胸が、ぎゅっと縮む。




(……やめて)




(僕の名前を、出さないで)




耳を塞いでも、


涙が出ても、


言葉は止まらない。




「蒼太のことは、責任を取る」




「蒼太は、俺の可愛い息子だ。


 不自由な思いは、絶対にさせない」




父の淡々とした声。


感情を切り離した、


決定の声。




「‥‥一郎さん……それで、終わりなの?」




返事は、なかった。




蒼太は、


布団に顔をうずめた。




(聞こえない……聞こえない……)




でも、


一つだけ、


はっきりと分かってしまった。




――この家は、


もう、元には戻らない。




もう、二度と笑い声は聞こえない。




* * *




中学三年の春。




父は、家を出ていった。




家の中で、


母はよく電話をしていた。




小さな声。


それでも夜になると、


廊下にまで響いてくる。




「離婚裁判がどうなるか」


「親権はどちらになるのか」


「生活費の取り決めが――」




蒼太は、


それらの言葉を聞こえないふりをした。




テレビの音を上げる。


イヤホンを耳に押し込む。




(聞かない)


(聞こえない)


(関係ない)




そうやって、


自分の心を守った。




代わりに、


野球に、のめり込んでいった。




ボールを投げている間だけは、


何も考えなくてよかった。




家のことも、


母と父のことも、


すべて、グラウンドの外に置いていけた。




努力すれば、結果が出る。


頑張った分だけ、評価される。




分かりやすくて、


残酷じゃない世界。




蒼太は、


そこに救われていた。






母は、仕事に出るようになった。




父から生活費は振り込まれていたが、


親権のため働くことをきめていた。




専業主婦だった期間が長く、


なかなか仕事は見つからなかった。




仕方なく、


時給の安いパートに出るしかなかった。




慣れない仕事。


安定しないシフト。




帰ってくる母は、


いつも疲れていた。




最初のうちは、


以前と変わらないように料理を作っていた。




時間をかけた煮物。


栄養を考えた副菜。


蒼太の好きな味付け。




蒼太は、それを見るたび、


胸の奥が少し痛んだ。




ある日、蒼太は思い切って口にした。




「……母さん。


そんなに無理して料理、


頑張らなくてもいいよ」




母は、一瞬だけ手を止めて、


それから、困ったように笑った。




「……ごめんね、蒼太」




その声には、


申し訳なさと、


どうしようもなさが混じっていた。




それから、


少しずつ、食卓は変わっていった。




最初は、高級スーパーの素材。


次に、普通のスーパーの素材。




品数は減り、


調理時間も短くなった。




それでも蒼太は、


一度も嫌な顔をしなかった。




「いただきます」


「ごちそうさま」




それは、習慣のようで、


同時に、蒼太なりの精一杯だった。




ある晩、母がぽつりと言った。




「……蒼太。


ちゃんとした料理、


食べさせてあげられなくてごめんね」



「ううん」



「大丈夫だから」



「料理、無理しなくていいよ」



(僕が、我慢すれば大丈夫。


 我慢すれば、


 きっと前みたいに戻れるかもしれない)




そう思うことで、


自分を納得させていた。






そのうち、


高級スーパーの惣菜が並ぶようになり、




やがて、


普通のスーパーの惣菜になり、




そして、ある日。




テーブルの上に置かれていたのは、


コンビニの弁当だった。




そばには、母の手紙。




『蒼太、ごめんね。


 今日から夜勤になったから。


 これで、許してね』




電子レンジの音。


規則正しい、短い音。




蒼太は箸を手に取り、


ふと、思った。




(……いつから、だろう)




昔は、


手の込んだ料理ばかりだった。




時間をかけて煮込んだもの。


一品ずつ、丁寧に盛られた皿。


特別な日じゃなくても、


ケーキが並ぶこともあった。




(あの頃が、懐かしい)




(……もう、戻れないのかな)




コンビニ弁当は、


ちゃんと美味しかった。




それが、


余計につらかった。




ぽた、と。


箸の先に、雫が落ちる。




涙だった。




蒼太は、


音を立てないように泣いた。




弁当は、


少しだけ、しょっぱかった。




* * *




中学三年の夏。




蒼太は、地元のシニアチームに所属していた。




グラウンドは、決して広くなかった。


設備も、特別整っているわけじゃない。


それでも、蒼太にとっては大切な場所だった。




――野球ができる。


それだけで、十分だった。




この日の練習は、バッテリー練習。




捕手がしゃがみ、


蒼太はマウンドに立つ。




サインは、ストレート。




一球、投げる。




乾いた音でミットに収まる。




「よし、次」




今度は、スライダー。




蒼太は、


ほんの一瞬だけ迷ってから、投げた。




ボールは、


鋭く曲がり――




「うわっ!」




ミットに入らなかった。




ボールは捕手の構えを外れ、


防具に当たって転がる。




「……っ、あぶねぇ!」




顔をしかめて立ち上がる。




「痛っ……」




「ご、ごめん!」




蒼太はすぐに頭を下げる。




周囲が、ざわついた。




「なんだよ、今の球!こんなの投げるなよ」




「正直さ……、怖ぇんだけど」




捕手のその言葉が、


蒼太の胸に、ひっかかった。




「……岡谷」




監督の低い声。




「ちょっと、こっち来い」




蒼太は、


グラブを抱えたまま、


ベンチ裏へ向かった。




監督室は、


古い木の匂いがした。




監督は、


椅子に腰を下ろし、


腕を組んで蒼太を見る。




「今の球な」




「……はい」




「フォークだろ」




「はい……」




「正直に言うぞ」




少し、間を置く。




「今のチームではな、


 その変化球‥‥、


 特にフォークは投げない方がいい」




蒼太は、


一瞬、言葉を失った。




「……え?」




「理由は簡単だ」




「お前のフォークを、取れるキャッチャーがいない」




はっきりとした言い方だった。




「無理に投げさせて、


 怪我させたくないしな」




蒼太は、


ぎゅっと唇を噛む。




「……わかりました」




そう答えるしかなかった。




監督は、


蒼太の表情を見て、


少しだけ声のトーンを落とした。




「岡谷、


 高校は、どこ行くつもりだ?」




「……まだ、決めてません」




「そうか」




一拍。




「もし、


 本気で野球を続けたいならな」




蒼太は、


顔を上げた。




「この辺りじゃ、


 正直、


 お前の球を受け止められる


 キャッチャーは、いないかもしれん」




「……」




「でもな」




「もっと強いところに行けば、


 話は別だ」




「東京とか、


 埼玉とか、


 神奈川とか……」




「その辺りの強豪校なら、


 お前のフォークを


 “怖がらずに受けてくれる”


 捕手がいるかもしれない」




その言葉は、


慰めでも、


励ましでもなかった。




ただの、


現実だった。




蒼太は、


膝の上のグラブを見る。




(……取れない、か)




自分の球が、


悪いわけじゃない。




でも、


誰かを困らせる球でもある。




「……はい」




「考えてみます」




「無理に答えを出さなくていい」




「でもな、岡谷。


 お前の球は、“才能”だ。


 抑え込むもんじゃない」




その言葉だけは、


蒼太の胸に残った。



* * *



中学三年生・秋




蒼太は、


高校進学のことを、初めて現実として考え始めていた。




きっかけは、


あの日、監督に言われた言葉だった。




――お前の球を、取れるキャッチャー。



その言葉が、


ずっと頭から離れなかった。




(……本気で、か)




その夜、


蒼太は自分の部屋で、パソコンを開いた。




検索欄に、


少し迷ってから文字を打ち込む。




「野球 強豪校 東京」


「野球 強豪校 埼玉」


「野球 強豪校 神奈川」




エンターキーを押す。




画面いっぱいに、


ずらりと学校名が並んだ。




(……え?


 こんなに、あるんだ)




知らなかった世界だった。




甲子園常連校。


全国大会出場校。


名前を聞いたことのある学校も、


聞いたことのない学校もある。




その中で――


ふと、視線が止まった。




『埼玉県 私立 蒼陵高校』




(……あ)




画面の文字を、


もう一度、見つめる。




「蒼」




自分の名前と、


同じ漢字だった。




理由なんて、


それだけだった。




でも、


なぜか気になった。




(……ちょっと、見てみよう)




マウスをクリックする。




カチッ、という小さな音。




学校のページが開く。




野球部寮あり。




『髪型自由』


『寮の規則は比較的ゆるやか』




練習環境。


グラウンド。


部の方針。




蒼太は、


画面をスクロールしながら、


いつの間にか真剣な顔になっていた。




(……寮、あるんだ。


 髪型、自由なんだ。


 ……ここ、結構いいかもしれない)




胸の奥が、


少しだけ、ざわつく。




野球ができる環境。


強いチーム。


そして――


家から、離れた場所。




(……ここに、行きたい)




理由は、


まだ言葉にできなかった。




ただ、


そう思った。




(……ここに、行こう!)




* * *




数日後。夕方。




母は、


仕事から帰ったばかりで、


少し疲れた顔をしていた。




蒼太は、


タイミングを計りながら、声をかける。




「……母さん」




「なぁに?」




その声はやさしかったが、


どこか余裕がなかった。




蒼太は、


少し言いにくそうに視線を落とす。




「ちょっと……


 話があるんだけど」




「うん」




母は、


腰を下ろして、蒼太の方を見る。




「高校の進学のことなんだけど……」




一瞬、


母の表情が固くなった。




でもすぐに、


小さく息を吐いて言った。




「蒼太‥‥、心配しなくて、大丈夫」




「……え?」




「お父さんが、言ってたでしょ」




「蒼太には、


 不自由な思いはさせないって」




「責任は取るって」




「だからね。


 蒼太の行きたいところ、


 好きなところに行けばいいの」




「私立でも、県外でも……。


 留学でも‥‥。


 きっと、


 どこに行きたいって言っても、


 お父さんは行かせてくれると思う」




その言葉を聞いて、


蒼太の胸が、少しだけ痛んだ。




「……うん」




一拍置いて、


蒼太は、意を決したように言った。




「埼玉県にある、


 私立蒼陵高校っていうところに、


 行きたいんだ」




「……蒼陵高校」




「そこで、野球をやりたい」




「本気で、やりたいんだ」




その言葉は、


嘘ではなかった。




でも――


全部が、本当でもなかった。




(……半分は、本当)




(本気で野球をやりたい)




(……でも、もう半分は)




蒼太は、


心の中で続ける。




(この家を、出たい)




(ここから、離れたい)




それは、


まだ誰にも言えない気持ちだった。




母は、


しばらく黙ってから、


小さくうなずいた。




「……分かった」




「蒼太が、


 ちゃんと考えて決めたなら。


 お母さん、応援するよ」




その言葉を聞いた瞬間、


蒼太は、


ほんの少しだけ救われた気がした。




この選択が、


逃げなのか、


前進なのか。




そのときは、


まだ分からなかった。




ただ――




それは確かに、


蒼太が初めて


「自分で選んだ道」だった。




* * *


中学三年生 卒業。




蒼太は、


埼玉県にある私立蒼陵高校に、自己推薦で合格した。




監督と担任の先生の力添えもあり、


手続きは驚くほどスムーズに進んだ。




必要書類。


推薦状。


面談。




気づけば、


合格通知は手元にあった。




授業料。


寮費。


遠征費。




高校生活にかかる費用は、


すべて父が負担することになった。




それが当然のように決まり、


蒼太は、その事実を深く考えないようにしていた。




胸の中には、


いくつもの感情が入り混じっていた。




――高校で、野球に打ち込めるという期待。


――家を出られるという、ほっとした気持ち。


――そして、母を置いていくことへの、


  拭えない罪悪感。




どれが本音で、


どれが逃げなのか。




蒼太自身にも、まだ分からなかった。




* * *




高校入学を控えた、ある日。




荷物をまとめるため、


蒼太は家の中を行き来していた。




ボストンバッグ。


ユニフォーム。


スパイク。




少しずつ、


この家から自分のものが減っていく。




玄関で、


母がその様子を見ていた。




「……蒼太」




「……うん?」




「行ってしまうのね」




ぽつりと落とされた言葉は、


責めるでも、引き留めるでもなかった。




ただ、


事実を確認するような声だった。




蒼太は、


一瞬言葉に詰まってから、視線を落とす。




「あ……母さん。


 ‥‥ごめんなさい」




その言葉は、


気づけば口からこぼれていた。




母は、


少し驚いたように目を見開き、


すぐに首を振った。




「……なんで、謝るの?」




「蒼太は、何も悪くない」




「でも……」




「悪いのは、私よ」




母は、


自分に言い聞かせるように続ける。






「私が、ちゃんとしていなかったから」




「もっとちゃんとしていれば、


 お父さんを苦しめることもなかった」




「もっとちゃんとしていれば、


 お父さんが出ていくこともなかった」




「蒼太に、


 こんな思いをさせることもなかった」




「だから……悪いのは、全部、私」




その言葉は、


母自身を責めるための言葉だった。




蒼太は、


胸がぎゅっと締めつけられるのを感じた。




母は、


蒼太の方を見て、


少しだけ、やさしく笑った。




「だからね」




「私のことは、気にしなくていいの」




「蒼太は、向こうで。


 好きな野球を、


 思いっきりやりなさい」




「忙しかったら無理に、


 帰省なんかしなくても大丈夫。


 ちゃんと、


 しっかりやってきなさい」




その言葉は、


背中を押す言葉だった。




でも同時に――


手を離す言葉でもあった。




蒼太は、


何か言おうとして、


結局、うまく言葉を見つけられなかった。




「……わかった」




「母さんも……


 体に気をつけて」




それだけだった。




それ以上、


何も言えなかった。




玄関に立つ蒼太の背中を、


母は、何も言わずに見送った。




その背中が見えなくなるまで、


ずっと。




蒼太は、


振り返らなかった。




振り返ってしまえば、


きっと、前に進めなくなる気がしたから。




この別れが、


正しかったのかどうか。




その答えを、


蒼太はまだ知らない。




ただ――


この日を境に、


彼の人生は、確かに動き出していた。


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