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第1章 岡谷 蒼太

ここは、


蒼太と青が高校時代、


野球と青春をともにした、私立蒼陵高校。



3月下旬。


蒼太は青は新しい生活の準備をしていた。




蒼太は大学生四年生、


青は、蒼陵高校の保健体育教師となる。




蒼太と青は、


蒼陵高校の職員寄宿舎で生計を共にする。



そう、


これからも生涯を共にするパートナーとして。



* * * * * * * * * *


『青と蒼 ~蒼太編 光と闇~』


第1章 岡谷 蒼太


* * * * * * * * * *



蒼陵高校の職員寄宿舎は、


蒼太が想像していたより、ずっと広かった。




玄関のドアを開けた瞬間、




「……なにこれ。広すぎ」




蒼太は、思わず笑いが漏れる。




間取りは3LDK。


完全にファミリー向けの作りで、


二人暮らしには正直オーバースペックだ。




青は鍵を閉めながら、少し肩をすくめる。




「職員宿舎って言ってもさ、


家族で住む前提だからな」




蒼太はリビングをぐるっと見回す。




「二人で住む部屋じゃないよ、これ!


 子ども二人くらいいてそう」




「……言うな」




青は苦笑したが、どこか嬉しそうだった。




一番奥にある、いちばん広い部屋。


自然な流れで、そこが二人の寝室になった。




ダブルベッドを置いても、


まだ余白が残る。




「ここ、寝室な」




青が言う。




蒼太は迷いなく頷いた。




「うん。ここでいい!


 っていうか、他の選択肢ある?」




「……ないな」




それ以上、話す必要もなかった。


一緒に寝るのは、もう前提だ。




残りの二部屋は、


青の仕事部屋と、蒼太の勉強部屋となった。




青の部屋には、教科書、資料、ノートPC。


プリントやチョークが雑然と置かれている。




蒼太の部屋には、大学の教科書と就活資料。


壁際には、グローブとスパイク。




「ちゃんと部屋分けたの、正解だったね」




蒼太が言うと、


青は少し間を置いて答えた。




「蒼太が勉強する部屋も、必要だろ?」




「ええっと。でも――」




蒼太はリビングの方を見て、笑う。




「たぶん、あまり使わないかなー?」




個室はあっても、


特に理由がなければ、


二人は自然にリビングにいた。



ソファに並んで座って、


スマホを触ったり、テレビを眺めたり。



会話がなくても平気。



蒼太がキッチンに立つと、


いつの間にか青が横にいる。



「それ、火強すぎじゃね?」



「大丈夫だって!


 ……あ、そこ触んっ。普通に熱い」



「分かってるって」



「分かってない顔してたから言った」



「はいはい」



そんなやり取りが、日常だった。




夜になると、


二人は自然に同じ寝室へ向かう。



それぞれの部屋に戻る理由はない。



先にベッドに入るのは、だいたい蒼太。


少し遅れて、青が隣に横になる。




「今日どうだった?」



「まあまあ、青さんは?」



「一年生がさ、元気すぎて」



「それ絶対、青さんに懐いてるやつ」



「……否定できない」



蒼太は小さく笑う。



電気を消すと、


暗闇の中でも、すぐ分かる距離。




蒼太は天井を見ながら、ぼそっと言う。




「部屋、こんなに広いのに」



「ん?」



「結局、いつも同じとこいるよね」



青は少し間を置いて答える。



「……だな」



ファミリータイプの部屋は、


二人には十分すぎるほど広い。




それでも――


二人がいる場所は、いつも一緒だった。



用事がなければリビング。


夜は同じ寝室。



それが当たり前になってるってことが、


一番うれしい。



引っ越してから、


ちょうど一週間ほどが経った。




キッチンには、湯気といい匂いが満ちている。


フライパンの音、鍋の蓋を置く音。


蒼太はエプロン姿で、


少し忙しそうに動いていた。




今日は、やけに手が込んでいる。


下ごしらえも多くて、品数も多い。




新しいキッチンは広くて、動きやすい。


まな板を置いても余裕があって、


振り向けばすぐコンロに手が届く。




(……やっぱり、ここ使いやすいな)




そんなことを思いながら、


最後の仕上げに取りかかった、そのとき。




玄関の方から、音がする。



「ただいま」



蒼太は顔を上げて、すぐに返す。



「青さん。お帰りなさい」



エプロンのまま、少しだけ振り返る。



青はキッチンの方を見て、目を丸くした。



「……すごいな、この料理、どうしたんだ?」



テーブルの上に並んだ皿を見て、


思わず声が弾む。



蒼太は少し照れたように笑った。



「うん。今日、時間あったから作ってみた!


 新しいキッチンさ、すごく広いし。


 めちゃくちゃ料理しやすいんだよ」



「そうか……」



青は、ゆっくりとキッチンに近づく。



「ありがとう、


帰ってきたら、こんなご馳走が並んでるなんて……」



その声には、素直な嬉しさが滲んでいた。



蒼太は少しだけ視線を落として、ぽつりと言う。


「青さん、


学校始まったばっかりで忙しいでしょ?


だから……僕、こんなことくらいしかできないから」


言い訳みたいで、でも本心だった。



青は一瞬、言葉を探してから、


やさしく笑う。



「十分だよ‥‥、ほんとに、ありがとう」



蒼太は、ほっとしたように息を吐いた。



「……じゃあ、冷める前に、食べよ」



「そうだな。いただこうか」



二人は向かい合って座る。



新しい部屋。


新しい生活。



でも、その真ん中にあるのは、


ごく当たり前の――


一緒に食卓を囲む時間だった。



湯気の立つ料理を前に、


二人は向かい合って座っていた。



箸を動かしながら、青がふと口を開く。



「蒼太……明日から学校だな、


もう、大学四年生か」



蒼太は一瞬きょとんとしてから、


くすっと笑った。



「青さん、それ、完全に父親のセリフだよ」



「え、そうか?」



少し考えてから、苦笑する。



「うん、でもなんか、青さんらしい」



「俺さ、蒼太と一つしか違わないのに」



蒼太は少しだけ視線を上げる。



「僕が、子どもっぽいからだよ」



一拍置いて、話題を変える。



「学校、ちょっと遠くなっちゃったな。


 バスと電車だし……大丈夫か」



蒼太はすぐに頷いた。



「うん、全然大丈夫!僕、乗り物好きだし」



そう言って、少しだけ嬉しそうに続ける。



「それにさ、こんな広い家に引っ越したし。


 家賃も光熱費も、学校負担でしょ」



箸を置いて、青を見る。



「僕の生活、かなり楽になるよ‥‥、


 ほんと……感謝しかない」



青は一瞬、言葉に詰まった。



「……そこまで思わなくていい」



蒼太は首を振る。



「ううん。ちゃんと、思ってる」



少し照れたように、視線を落とす。



「青さん。大好きだよ」



青は、静かに笑った。



「蒼太、俺も好きだよ。


 ……じゃあ、今日は、いっぱい‥‥しよう」



「うん」



静かに夜は更けていく



* * *



朝の光が、カーテンの隙間から差し込んでいた。



蒼太はゆっくりと目を覚まし、


少しだけぼんやりしたまま、


ベッドを降りる。



身支度を整えてから、


ふと思い立ったように、


自室の机へ向かった。



引き出しを開ける。



中に入っているのは――


一枚の、少し厚みのある紙。



『パートナーシップ宣誓証明書』



蒼太はそれを手に取り、


しばらく、じっと眺めた。




(……大丈夫)



胸の奥が、ふっと温かくなる。



(ちゃんと、ここにいる)



引き出しをそっと閉めて、


蒼太は深く息を吸った。



朝のグラウンドは、


すでに活気に満ちていた。




ボールの音。


掛け声。


走る足音。



その中に、見慣れた二人の姿がある。



佐々木コーチと、青。



グラウンドの端で並び、


肩の力を抜いた様子で話している。



仕事の話だろう。


練習の流れ、選手の様子、次の試合。



そんな、ごく普通の会話。



蒼太は少しだけ足を止めて、その光景を見た。



(……いいな)



心の中で、素直に思う。



(野球部、楽しそう)



一瞬、ほんの少しだけ、胸の奥がざわついた。



(青さんと、佐々木コーチ……


 なんか、距離近いような……?)



でも、すぐに首を振る。



(いやいや。


佐々木コーチには、いろいろ助けてもらった


し。感謝しかないよ)



それでも、言葉にならない何かが、


胸の奥に残る。



(……でも、何だろ)



小さなモヤモヤ。



蒼太は、軽く息を吐いた。



(ううん‥‥、気のせい、気のせい)



自分にそう言い聞かせて、


視線をグラウンドに戻す。



そのとき。



蒼太に気づいた青が、こちらを見る。



蒼太は、ぱっと表情を明るくして、


手を振った。




青は一瞬驚いた顔をしてから、


すぐに走ってくる。



「蒼太!」



少し息を切らしながら、笑う。



「学校、頑張れよ!いってらっしゃい」



蒼太は、その顔を見て、自然と笑った。



「うん、いってきます」



その一言で、


胸の中のモヤモヤは、少しだけ遠のいた。



朝練の音が、


今度はちゃんと、


いつもの距離で聞こえていた。



* * *



バスに乗り込み駅に向かう



流れる景色を眺めながら


蒼太の胸の奥で、何かがふっとほどけた。



――ああ。



記憶が、静かに引き戻される。



高校一年の春。


まだ何も失っていなかった頃。




* * * * * * *


* * * * * * *




蒼太、高校一年生、入寮した直後。


寮の部屋の中は、少しだけ騒がしかった。




四人分の笑い声が、


狭い寮室に心地よく響いている。




「なあ岡谷、そのゲームずるしてね?」


「いやいや、今のは完全に実力だって」


「うわー、絶対後で泣くやつじゃん」




床に座り込み、


菓子袋を囲んで、コントローラーを回す。




蒼太はクッションにもたれながら、


楽しそうに笑っていた。




「ほら、だから言ったじゃん。


 次、僕がやるから見ててよ」




声は明るく、よく通る。


自然と輪の中心にいて、


誰かを置いていくことも、


置いていかれることもなかった。




寮生活は、思っていたよりずっと楽しかった。




最初は不安もあった。


知らない土地、知らない仲間、


厳しい上下関係。




それでも蒼太は、


人と打ち解けるのが早かった。




挨拶も、冗談も、距離の詰め方も。


無意識のうちに空気を読んで、


場を和ませることができた。




「岡谷ってさ、すぐ馴染むよな」


「わかる。なんか最初からいた感じする」




そんな言葉を向けられて、


蒼太は照れくさそうに笑った。




(……まあ、嫌いじゃないし。こういうの)




一人でいるより、


誰かと一緒に笑っている方が好きだった。




あの頃はまだ、


“誰かの隣にいなければ不安になる自分”に、


気づいていなかった。




ただ、楽しくて。


ただ、居場所があって。




それで、十分だと思っていた。





消灯前の寮室。




ベッドに腰掛けたり、床に座ったりしながら、


同期たちが思い思いにくつろいでいた。




「なあ岡谷、今日の投球練習どうだった?」




「ん? まあ、普通だよ」




「普通って顔じゃねーだろ。


 佐伯先輩と組んでたよな?


 なんか、いい感じだったじゃん」




蒼太は一瞬だけ視線を逸らし、


それから少し照れたように笑った。




「……うん。


 ちゃんと受けてもらえた」




「フォーク投げられるって、すごくね?


 正直びっくりしたんだけど」




「な。あの落ち方、えぐかったぞ」




「前のチームじゃ、


 あんまり投げさせてもらえなかったからさ」




軽く肩をすくめて言うが、


胸の奥では、確かな手応えが残っていた。




――拒否されなかった。


――怖がられなかった。




それだけで、少し救われた気がした。




「てかさ、佐々木コーチって優しいよな」




「うん。


 なんか明るくて、頼りがいある感じ」




「ちゃんと話聞いてくれるしな」




「怒るときは怒るけど、理不尽じゃないし」




少し間を置いて、


別の同期が思い出したように口を開いた。




「てかさ……佐々木コーチ、


普通にすごい人だよな」



「ん?」



「高校のとき、甲子園エースだったらしいぜ」



「え、マジで!?」



一気に空気が変わる。



「しかも準優勝だってよ。


 決勝まで投げ切ったらしい」



「うわ、それガチじゃん……」



「じゃあプロ行けたんじゃね?」



「どうなんだろうな。


 でも、プロ志願しなかったらしいぜ」




蒼太は、


少し驚いたように目を見開いた。




(……そんなすごい人なんだ)




グラウンドで見ていた、


あの気さくなコーチの姿と、


甲子園のマウンドが結びつかない。




「……なんかさ」




誰かがぽつりと呟く。




「そういう人が、


今ここでコーチやってんのって、


ちょっと不思議じゃね?」




「分かる。


もっと上の世界にいそうな感じするよな」




蒼太は、何も言わなかった。




ただ――



胸の中に、


小さな尊敬と、


言葉にできない感情が混ざる。



蒼太はうなずきながら、


天井を見上げる。




「……ほんと、この学校選んでよかったと思う」




「わかる。


 寮の規則も思ってたよりゆるいしさ」




「自由時間もちゃんとあるし」




「みんな、それぞれ楽しんでるよな」




部屋に、穏やかな笑い声が広がる。




蒼太はその輪の中で、


自然に笑っていた。




ここには居場所がある。


そう、疑いもしなかった。




――この頃はまだ、


「誰かに必要とされること」が、


こんなにも自分を縛るものになるなんて、


思いもしなかった。




その直後。




同期の一人が、


急に声のトーンを落とした。




「……なあ、岡谷」




さっきまでの笑いが、ふっと止まる。




「ん?」




同期は一度、周囲を見回してから、


少しだけ深刻な顔をした。




「俺さ……佐々木コーチの噂、


知ってるんだけど」




「え? なにそれ」




「あ、いや……俺が直接聞いたわけじゃないんだ」




一瞬、言い淀んでから続ける。




「親戚がさ、岩槻に住んでて。


 そこから聞いた話なんだけど……」




部屋の空気が、わずかに張りつめる。




「……で?」




「佐々木コーチ、高校のとき


 男の恋人がいたらしいぜ」




一瞬の沈黙。




「……え?」




「マジで?」




「うん。当時、結構噂になってたみたいでさ」




「え、でも……隠してたとかじゃなく?」




「それがさ、


 本人たち、わりと堂々としてたらしい」




「……強ぇな、佐々木コーチ」




冗談めかした声だったが、


どこか本気の驚きが混じっていた。




「で、終わり?」




「いや、それだけじゃなくて……」




一拍置く。




「岩槻の、でっかい公園あるだろ。


 あそこで――修羅場があったらしい」




「修羅場?」




「男、三人で」




「……え?」




「詳しくは分かんないけど、


なんか、かなり派手な喧嘩になってたって」




部屋の中に、


笑いとも戸惑いともつかない空気が流れる。




「映画かよ……」




蒼太は、黙ったまま話を聞いていた。




佐々木コーチの、


いつも明るくて、頼りがいのある姿。




さっきまで語っていたそのイメージと、


今聞いた噂が、頭の中でうまく噛み合わない。




(……そんな過去が、あるんだ)




胸の奥に、


言葉にできないざらついた感覚が残る。




それは、


怖さでも、嫌悪でもなく――


ただの「知ってしまった」という感触だった。



「え、佐々木コーチがそんなって……


正直、信じられねえんだけど」




「だよな。佐々木コーチって独身じゃん?


なんかさ、


子どもいても不思議じゃない感じだよな」


 


「性格もいいし、イケメンだしさ。


 ……なんか、もったいなくね?」




その瞬間、


他の同期が眉をひそめた。




「おい、それ偏見だぞ。


 今の言い方、普通にヤバいからな」




「え、そうか?


 そんなつもりじゃなかったんだけど……」




「今の時代、それ言ったら即アウトだから。


 気をつけろよ」




部屋の空気が、ほんの少しだけ重くなる。




誰かが笑って誤魔化そうとしたが、


蒼太はそのやりとりを、黙って聞いていた。




――その声が、遠くなる。




代わりに、


今日の投球練習の光景が、頭の中に浮かんだ。




マウンドから放ったフォーク。


落ちきる直前の、あの軌道。




そして――


それを、迷いなく構え、


一発で止めた青の姿。




ミットに収まる、乾いた音。




(……あ)




胸の奥が、強く脈打つ。




ドキン。


ドキン、ドキン。




(なんだ……これ)




心臓の音が、やけにうるさい。




理由は分からない。


でも、確かに――


何かが、はっきりと揺れた。




蒼太は、突然立ち上がった。




「……あ、ごめん。


 ちょっと、トイレ」




言い終わるより早く、


部屋を飛び出す。




バタバタと、足音だけが廊下に響いた。




「え、どうしたんだよ岡谷」




「急だな……」




残された部屋に、


小さな沈黙が落ちる。




「……まあ、あれだろ」




「?」




「岡谷には、


 まだ刺激が強すぎたんだろ」




誰も、はっきりとは否定しなかった。






トイレの個室に入り、


蒼太は扉を閉めた。




カチャリ、と小さな音。




その瞬間、


胸の奥で暴れていた鼓動が、


さらに大きくなった。




ドクン。


ドクン、ドクン。




(……なに、これ)




息を整えようとしても、


うまくいかない。




手を胸に当てる。


心臓が、はっきり分かるほど脈打っている。




(どうしたんだろう、僕……)




目を閉じても、


頭の中は静まらなかった。




浮かんでくるのは――


青の顔。




真剣な横顔。


ミットを構える姿。


フォークを、迷いなく受け止めたあの瞬間。




青の声。


青の背中。


青の存在、そのもの。




考えるのをやめようとしても、


思考が、全部そこに引き戻される。




(……離れない)




胸が、苦しい。




でも、それは嫌な苦しさじゃなかった。




怖くて、


でも、どこか温かくて。




蒼太は、ゆっくりと息を吐いた。




――ああ。




そうか。




(……僕は)




喉が、かすかに鳴る。




(僕は、佐伯先輩のことが――)




言葉にした瞬間、


胸のざわめきが、はっきりと形を持った。




(……好きなんだ)




逃げ場のない、


疑いようのない感情。




個室の中で、


蒼太は一人、立ち尽くしていた。




それは、


何かを失う始まりであり、


同時に――


初めて“自分の心に嘘をつけなくなった瞬間”だった。




* * * * * * * *



* * * * * * * *



バスは上尾駅に到着する




(‥‥高校時代‥‥懐かしいな、


 さっ、電車のらなきゃ!)




* * *




大学講義室。




講義室のざわついた空気の中、


蒼太は友人たちと並んで座っていた。




「なあ、就活どうよ?」




「俺?うーん、まだインターン先で迷ってる」




蒼太はハッと顔を上げる。


(……えっ!?インターン?)




友人達は話を続ける。




「俺はもうインターンいってるぜ!


 できたら、そこで内定もらいたいし」




その言葉が、


やけに自然に聞こえた。




「……みんな、インターン行くんだ」




「おぅ。


大手入るなら、インターンはほぼ必須だろ」




軽い調子で続く。




「岡谷は?どこ行くんだ?」




蒼太は、


一瞬、言葉に詰まった。




「……まだ、決めてなくて」




「え、そうなん?」




一拍。




「それ、ちょっと遅くないか?」




その一言が、


胸の奥に、すとんと落ちた。




(…えっ‥…遅い?)




「あ……ごめん。


 ちょっと、用事思い出した」




蒼太は立ち上がり、


視線を合わせないまま席を離れる。




友人たちの声が、


背中で遠ざかっていく。




廊下に出た瞬間、


胸の奥が、じわりと重くなった。




(……インターン?


 僕だけ、取り残されてる?)




分からなかった。


そもそも、


そこまで考えていなかった。




歩く足取りが、


自然と速くなる。




蒼太は、そのまま


就職課のある校舎へ向かった。




答えを探すというより――


この不安から、


逃げ場を求めるように。






蒼太は、就職活動を


どこか「なんとなく」で続けていた。




自分のやりたいこと。


自分の夢。




考えれば考えるほど、


何が正解なのか分からなくなる。




(みんな、どうやって決めてるんだろう)




だから蒼太は、


とりあえず――という言葉を繰り返した。




とりあえず、合同説明会に行く。


とりあえず、企業の話を聞く。


とりあえず、エントリーシートを書く。




志望動機の欄には、


無難な言葉を並べる。




「人の役に立ちたい」


「成長できる環境で働きたい」




どれも嘘じゃない。


でも、どれも自分だけの言葉じゃなかった。




結果は、思った通りだった。




書類で落ちる。


一次で止まる。


連絡が来ないまま、期限だけが過ぎていく。




それでも蒼太は、


特に落ち込むこともなかった。




(……あ、やっぱりな)




心のどこかで、


最初から分かっていたような気がしていた。




うまくいかない理由を、


真剣に考えることもしなかった。




気に留めないふりをして、


傷つかない距離を保っていた。




(本気でやってないんだから、


 ダメでも仕方ない)




そうやって、


自分に言い訳をしながら。




蒼太はまだ、


「自分の人生を選ぶ覚悟」を


持てずにいた。




* * *




蒼太は校舎の一角、


就職課の窓口へと向かった。




ガラス越しに見えたのは、


見覚えのある横顔。




「……あ」




窓口に座っていたのは、


松本さんだった。




去年、


蒼太が奨学金のことで悩んでいたとき、


何度も話を聞いてくれた職員。




親身で、


決して急かさず、


「一緒に考えましょう」と言ってくれた人。




――その松本さんが、


四月から学生課から就職課へ異動になったと、


少し前に聞いていた。




蒼太は順番を待ち、


カウンターの前に立つ。




「……松本さん」




「おや、岡谷くん。


 久しぶりですね」




松本の柔らかく微笑むその表情に、


胸の緊張が、少しだけほどけた。




「岡谷くん、四年生ですね。


 就職活動、どうですか?」




蒼太は、


一瞬、言葉に詰まる。




(……どう、なんだろう)




「正直……


 まだ、ちゃんと定まってなくて」




松本は、


ペンを置き、うなずいた。




「大丈夫ですよ。


 そういう学生さん、多いです」




急かすでも、


決めつけるでもない。




蒼太は、


今の自分の状況を、少しずつ話し始めた。




・エントリーはしていること


・説明会には参加していること


・でも、「これだ」と思えるものが見つからないこと




そして、


言葉を選びながら、こう付け加えた。




「……将来のことを考えると、


 どうしても、


 誰かの隣を基準に考えてしまって」




松本は、


一瞬だけ考えるように視線を落とし、


それから、優しく言った。




「岡谷くんは、


 とても人を大切にできる人ですね」




その一言に、


胸の奥が、わずかに揺れた。




「でも――


 “自分がどう生きたいか”も、


 同じくらい大事ですよ」




蒼太は、


小さくうなずく。




(……分かってる。


 分かってる、つもりなんだけど)




就職課の静かな空間で、


蒼太は再び、


自分自身の進路と向き合い始めていた。




就職課の窓口。


松本は、パソコン画面から視線を上げて、


蒼太を見た。




「岡谷くん。就職活動、


あまりうまくいっていないみたいだけど……」



責める口調ではない。


事実を、静かに確認する声だった。




「岡谷くん自身の希望って、


 何かありますか?」




蒼太は、少しだけ考え込む。




(……希望)




「あ、そうだ……。


 えっと、はい……そうですね」




言葉を探しながら、


ゆっくりと続ける。




「とりあえず……


 今、住んでいるところからは、


 あまり移動したくなくて」




松本は、メモを取りながらうなずく。




「そこから通える範囲、というか……


 生活があまり変わらない場所がいいなって」




現実的な理由。


青と離れて暮らすことはできない。


でも、それは蒼太にとって大事な条件だった。




「あと……」




一拍置く。




「やっぱり、野球が好きなので」




その言葉だけは、


少しだけはっきりしていた。




「スポーツメーカーとか、


 野球に関わる仕事……


 そういう会社は、いいかなって」




言い終えてから、


自分でも少し照れたように付け足す。




「最近、ちょっと思ってるだけなんですけど」




松本は、


顔を上げて微笑んだ。




「いいと思いますよ。


“好き”を軸に考えるのは、とても大切です」




その言葉に、


蒼太の胸が、わずかに軽くなった。




まだ夢と呼べるほど、


はっきりしたものじゃない。




それでも――


初めて、自分の口から出た


「自分のための希望」だった。




松本さんは、少し考えるようにうなずいた。




「そうか……スポーツメーカーですか」




キーボードを軽く叩きながら、


画面に目を落とす。




「確かに、都内には


大手のスポーツメーカー、本社も多いですね」




一度、言葉を区切る。




「ただ――


 そういった会社の総合職になると、


 まず全国転勤は、ほぼ確実にあります」




蒼太は、黙って聞いていた。




「特に若いうちは、


 地方に配属されて、


 いろいろな現場を経験させる、


 そういう企業姿勢が強いですからね」




頭では分かっていた現実。


でも、改めて言葉にされると、


胸の奥が少しだけ重くなる。




松本は、


蒼太の表情を確認するように視線を上げた。




「もし岡谷くんが、


 地元からあまり動きたくない、


 生活の拠点を変えたくない、


 という気持ちが強いのであれば……」




一呼吸置いて、続ける。




「埼玉に本社がある中堅規模の会社を、


まず探してみるのが現実的かもしれませんね」




「転勤が少ない、あるいは


範囲が限られている企業もありますし」




蒼太は、


ゆっくりとうなずいた。




(……やっぱり、そうだよな)




理屈としては、納得できる。


でも、その選択が意味するものも、


蒼太は分かっていた。




――守っているのは、


地元か。


生活か。


それとも……青との距離か。




松本は、


優しく、しかしはっきりとした声で言った。




「岡谷くん。


 “動かない”という選択も、


 立派な選択です」




「ただ、それが


 何を大事にした結果なのかは、


 一度、整理してみましょう」




その言葉が、


静かに胸に残った。



蒼太は、少し迷ってから口を開いた。




「あ……あと……」




松本が視線を向ける。




「僕、エントリーシートが、うまく書けなくて」




「そうですか」




「自己アピールとか、志望動機とか……


 そのあたりが、どうしても言葉にならないんです」




一度、言葉を切る。




「なんか……


 自分でも、


 自分のことが、


 まだよく分かってない気がして」




弱音のようなその言葉は、


蒼太にとって、精一杯の正直だった。




松本は、すぐには答えず、


少し考えるようにうなずいた。




「……そうですね」




そして、穏やかな声で続ける。




「それでしたら、まず岡谷くん」




「子どもの頃の自分が、


 どんなことを考えていたのか。


 どんな気持ちで過ごしていたのか」




「ご自身の育ちや、


 これまでの歩みを、


 一度、思い出してみてはどうでしょう」




蒼太は、黙って耳を傾ける。




「その過程で、


 今まで自分が


 どういう思いで選択してきたのか」




「何を大切にしてきたのか。


 そして――


 将来、どうなりたいのか」




「そういった気持ちが、


 少しずつ整理できると思いますよ」




蒼太の胸の奥で、


何かが、静かに動いた。




(……子どもの頃)




思い浮かぶのは、


寮の部屋で笑っていた自分。


フォークを受け止めてもらえた、あの日。


そして――


青の背中を、初めて“特別”だと感じた瞬間。




「急いで答えを出す必要はありません」




「でも、自分の過去を振り返ることは、


未来を選ぶための、


大事な材料になりますから」




蒼太は、


ゆっくりとうなずいた。




(……逃げてきたのかもしれない)




自分のことを、


ちゃんと見つめることから。




就職課の静かな空間で、


蒼太は初めて、


“自分自身の物語”を思い出す準備を始めていた。




* * *




大学を出て、


蒼太は駅へ向かい、電車に乗った。




揺れる車内。


窓の外を流れていく街並みをぼんやりと眺めながら、


視線は自然と、先頭車両の方へ向かう。




運転席のガラス越しに見える、車掌の横顔。




規則正しく、淡々と。


毎日同じようでいて、


確実に「自分の仕事」をこなしている姿。




その背中を見つめながら、


蒼太は、松本に言われた言葉を思い出していた。




――子どもの頃の自分。


――これまで、何を大切にして生きてきたか。




(……自分のことを知るには、


 まず、過去と向き合う、か)




簡単そうで、


一番避けてきたことかもしれない。




蒼太は、軽く息を吐いた。




(うーん……)




考え込みかけた、そのとき。




(……あ)




ふと、思い出す。




(そうだ。


 今日は――青さんの入学式だ)




青が、新しい立場で、


新しい一歩を踏み出す日。




急に、胸の奥があたたかくなる。




(今日は、何かお祝いしなくちゃ)




頭の中で、次々と考えが浮かぶ。




(よし。今日は料理しよう)




(ケーキ、買って。


 ちょっとごちそう、作って)




完璧じゃなくていい。


豪華じゃなくていい。




ただ、


「おめでとう」を伝えたい。




気づけば、


蒼太の足取りは少し軽くなっていた。




胸の中に、


小さな期待が灯る。




(……帰ったら、


 青さん、どんな顔するかな)




電車は、


寮の最寄り駅へと近づいていく。




悩みは、まだ消えていない。


答えも、見つかっていない。




それでも今は――


心が、ほんの少しだけ弾んでいた。




* * *




宿舎の部屋。




キッチンから、


小さな鼻歌が流れていた。




蒼太はエプロン姿で、


フライパンを揺らしながら手を動かしている。


火加減を気にし、味見をして、


また鼻歌。




――コン。




玄関のドアが開く音。




「ただいま」




「あ、青さん!


 お帰りなさい」




振り向いた蒼太の声は、


いつもより少し弾んでいた。




靴を脱ぎながら、


青は部屋の中を見渡す。




「……なんだこれ。


 すごいな、この料理」




テーブルいっぱいに並んだ皿。


湯気の立つ料理の匂い。




「お、ケーキまであるじゃん。


 しかも丸ごとワンホール」




思わず笑ってしまう。




「どうしたんだよ、蒼太」




蒼太は、


少し照れたように視線を逸らしながら答えた。




「だって……


 今日、青さんの入学式だし」




「お祝い、したくって」




そう言って、


胸の前で軽く手を握る。




「あ、料理は……


これ、角石さんに教わったレシピで。


うまくできてるか、ちょっと不安だけど……」




青は、しばらく言葉を失ったまま、


料理と蒼太を交互に見ていた。




そして、


少し照れたように頭をかく。




「……」




「ありがとう。


こんなにしてくれるなんて、思ってなかった」




「正直、すげえ嬉しいよ」




その一言に、


蒼太の胸が、ふっと温かくなる。




「よかった……」




「よし。


じゃあ、手洗ってくる。一緒に食おう」




「うん」



二人の間に、


穏やかな空気が流れる。



悩みも、不安も、


この瞬間だけは部屋の外に置いて――



テーブルの上には、


蒼太なりの「おめでとう」と、


確かな光が並んでいた。



食卓を挟んで、


二人は向かい合って座っていた。



湯気の立つ料理。


箸の音が、心地よく響く。



「青さん。


 今日の入学式、どうだった?」




青は一口食べてから、


少し照れたように笑った。




「うん。


入学式でさ、壇上に上がって挨拶したんだよ」




「めちゃくちゃ緊張した。


 正直、声震えてたと思う」




「え、青さんが?」




くすっと笑ってから、


すぐに真面目な表情になる。




「でも、青さんなら大丈夫」




「面倒見もいいし、


 ちゃんと一人ひとり見てくれるし……


 きっと、いい先生になるよ」




青は、少し驚いたように目を瞬かせた。




「……ありがとう」




「あ、担任にはなれた?」




その問いに、


青は首を振る。




「いや。


 採用されたばっかりだから、


 さすがに担任はまだ無理だな」




一拍置いて、


少しだけ誇らしそうに続ける。




「でもさ、


 一年生の副担任にはなったよ」




「……え」




蒼太の顔が、ぱっと明るくなる。




「すごい!」




「そうか?」




「一年生って、不安も多いだろうし……


 青さんが副担任なら、


 きっと心強いと思うよ」




青は照れ隠しのように、


箸を動かしながら言った。




「まだまだ手探りだけどな」




「それでも……


 ちゃんと、生徒のこと考えてる先生になるよ」




その言葉は、


取り繕いのない本心だった。




青は、


蒼太を見て、


少しだけ目を細める。




「……蒼太がそう言ってくれるなら、


 頑張れる気がする」




その一言で、


蒼太の胸が、また小さく跳ねた。




(……やっぱり)




この人の隣にいたい。


そう思ってしまう自分を、


まだ、否定できずにいた。



* * *




食事のあと。




テーブルの上は片づけられ、


部屋には、


テレビの音もない静けさが戻っていた。




それから、部屋の中。




青は袖をまくり、


慣れた手つきで洗い物を片づけていく。


水の音が、規則正しく響く。




青はソファに腰を下ろし、


スマホを置いて、蒼太の方を見る。




「……蒼太。


 就職活動は、どうだ?」




その問いかけは、


何気ない一言のはずだった。




蒼太は一瞬、言葉を探してから、


ゆっくりと口を開く。




「考えてみたんだけど……」




少し間を置く。




「僕、好きなことって、


 やっぱり野球なんだよね」




青は黙って、続きを待つ。




「だから……


 野球に関する仕事が、


 いいかなって」




それは、本心だった




「……」



蒼太は、


視線を外しながら続ける。



「スポーツ用品のメーカーとか……


 キャッチャー防具を作ってる会社も、


 ちょっと気になってるっていうか」



一発で止めてくれた、


あのミットを思い出す。



「……そっか」



短い返事。



少しだけ、


間が空いた。



「……頑張れ」



それだけだった。



励ましの言葉のはずなのに、


蒼太の胸に、


小さな違和感が残る。



(……あれ?


もっと言ってくれると思ってたのに)




期待していた言葉が、


何だったのか、自分でも分からない。




もっと何か、


聞いてほしかったのか。


否定してほしかったのか。




それとも――


青の言葉で、


自分の進む道を


肯定してほしかったのか。




蒼太は、


小さくうなずいた。



「……うん」



二人の間に、


穏やかで、


ほんの少しだけ冷たい沈黙が流れる。



蒼太はテーブルの上で、


ノートパソコンを開いた。




検索窓に打ち込む文字。




――「埼玉 本社 企業」


――「埼玉 中堅企業 採用」




次々と表示される企業名。


ホームページを開いては、


そっと閉じる。




(……うーん)




どれも、悪くはない。


でも、胸が動かない。




(なんだろう……


 ピンとこない)




事業内容を読んでも、


働くイメージが浮かばない。




(自分のやりたいこと……)




考えれば考えるほど、


輪郭がぼやけていく。




(まだ、よく分からないな)




キーボードの上で、


指が止まる。




青が洗い物を終え、


キッチンを拭いている音が聞こえる。




その背中を、


無意識に目で追ってしまう。




(……どうしたら、いいんだろう)




誰かの隣にいることで、


安心してしまう自分。




でも、それだけで


生きていっていいのかという不安。




蒼太は、


そっと画面を閉じた。




答えは、まだ見えない。


夢と呼べるものも、見つからない。




それでも、


この静かな夜は、


確かに続いていく。




――探すことをやめなければ、


いつか、何かに辿り着く。




蒼太はそう、


自分に言い聞かせるように、


小さく息を吐いた。





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