二 貸し出された男の生存本能
謎の女に絡まれた以外は、いつも通りの一日を過ごした翌朝。うっすら開いた目に入ってくるのは、壁のすき間から突き刺すように延びる日の光だ。
カビの臭いのする狭い部屋。正確に言えば、作業小屋の隅のすき間のような場所で目を覚ます。
特に背が高いわけでもない身体でも、まっすぐ横になれない。それでも慣れればどうということはない。屋根があるだけマシだ。
「おはようございます」
「ああゲン爺の。挨拶だけは立派だねぇ」
「はは」
近所の長屋の婆さんに挨拶して、川で顔を洗う。ついでに汚れた下着も洗っておく。
どこかから流れ着いた放浪民に、街の視線は冷たい。あの婆さんはだいぶマシな方だ。
濡れたままの下着を着直して、坂を登った先の十字路まで歩く。朝の散歩と洒落込んでいるわけもなく、ただそこの屋台が安いだけ。
何が入っているのか判別できない粥をすすって、一息ついた。
「おはようございます」
「………おはよう」
「いったい何を警戒してるの?」
「むしろ警戒しない理由があるか?」
「天下の往来で、昨日会った人とすれ違ったぐらいで警戒するのが当たり前だとでも言うの?」
……………。
相変わらず表情は見えないが、勝ち誇った顔が想像できる。どうやら俺が口喧嘩で勝てる相手ではなさそうだ。
「すれ違っただけの見知らぬ相手に、あんたはいちいち挨拶するのか」
「しないの? 自宅前の石畳の汚物を掃除しているおばさんがいても、貴方はただ無視して避けるだけなのかしら」
「……俺の負けだから、もういいか?」
まるでさっきのやり取りを見ていたかのように、的確に攻め込んでくる。
面倒くさくなって、軽く手を振ってそのまま離れようとした。しかし女はまだ後をついてくる。
「貴方に用があるのよ」
「悪いが俺だって忙しいんだ。これから鍛冶場のゲンさんのとこで…」
「話はつけてるわ。ちゃんと借り賃を払って」
「はぁ?」
思いも寄らない発言に、足が止まった。
借り賃って、ゲンさんに俺を借りたってことなのか? というか、俺はあのオッサンの所有物だったのか? あの汚い寝場所すら、手間賃からさっ引かれているというのに。
「貴方は…、仕事をさぼることだけはないと聞いた」
「含みのある言い方だな」
「見習いですらないのに、それ以上何かの役に立っていた? 腕利きの職人だった? 将来は職人街を背負って立つ若者?」
「イヤミはもう少し何かに包んでくれ」
ああ俺は何の役にも立たないさ。ゲンさんは鍛冶の仕事を教えようとしないし、俺も教わる気はない。その通りだ。
で、なんで名前も知らないヤツにそんなことを指摘されなきゃいけないんだ。ほっといてくれ。
「それで、…要するに俺を一日雇ったってことか?」
「そう」
「拒否できないのか?」
「話を聞いてからでも構わないか…と、貴方なら言うでしょうね」
「……………」
勝手に他人の代弁するなよ…と言いたいが、残念ながらその通りだった。
俺は別にゲンさんの元で働きたいわけじゃない。オッサンが権利を譲って、そして俺に報酬が出るのなら、何がなんでも拒絶する必要はないだろう。
ただし、相変わらず目の前の女は得体が知れないし、何をさせるつもりなのかも分からないのだから、内容によっては拒否する。要するに俺の行動パターンは読まれている。
謎の女は、街路を進んで行く。
海に面したウセンゲンの、港の景色が見える道を歩き、川に着く。小船が行き交う様子を横目に眺めて土手を歩くと、立派な石造りの橋が架かっている。
輪っかを半分に切ったような独特な形の橋は、ウセンゲンの石工たちの自慢の種。もっとも、橋が造られたのは七十年前で、直接工事に関わった者はいないのだが。
猫の鳴き声が空から響いてくる朝の景色を背にして、女は黙って橋を渡った。
橋を渡った先は、街を守る兵士たちが住んでいる。ごちゃごちゃした街並みが一転して、生け垣に囲われた屋敷が並ぶ。俺にとっては、何となく居心地の悪い町だ。何も犯罪は犯してないし、やましいこともないけどな。
やがて兵士街の中心の四つ辻に出る。食堂や店が並んでいるが、どれも俺には縁がない。値段が少し高いのだ。
兵士がみんな高給取りというわけじゃなけれど、それでも生活に困らない程度の金はもらっている。腹を満たして寝るぐらいしかない俺とは違う。
というか、この女はなぜ兵士の町を歩いているんだ? 兵士ってわけはあるまいし。
「着いたわ」
「……………」
「床が抜けたりしそう?」
「い、いや…」
結局、その兵士町の路地の一つに入って、屋敷を眺めながら通り抜けた先。木立に囲まれた礼拝堂があって、そのさらに向こうにぽつんと一軒家が建っていた。
あぜ道と田畑に囲まれた一軒家は、農作業の小屋という佇まいではなく、しっかりとした造りだ。木造二階建て、周囲には色とりどりの花が咲いていて、何というか逆に反応に困ってしまう。
もう少し胡散臭ければ、断わる口実にもなったのになぁ。
「入って」
「…お邪魔します」
「礼儀正しいのね」
「いや、これぐらい普通だろ」
花に囲まれた短い通路の先、思ったよりかなり分厚い扉を開けて中に入った。
そこには椅子とテーブルが置かれた部屋。奥には廊下があり、壁で仕切られて扉のついた部屋も別にあるようだ。大きなテーブルは、俺が間借りしている部屋の広さぐらいある。あ、それは間借りしてる部屋が狭いんだった。
女は手にしていた荷物を置くと、そのまま奥へ向かう。仕方なく俺も後をついて行く。
すると左手に炊事場があって、裏口に出た。
「川が流れているのか」
「鍛冶小屋みたい?」
「あ、まぁ…」
鍛冶にも石工にも水は欠かせないから、どの工場にも水路はあった。それと同じだと言うなら、確かにそうなんだろう。
と言っても、この女が職人に見えるかと言われれば、どう考えても無理だ。討伐者にも見えないので、結局謎が深まる一方。
「それで、俺は何をすればいい?」
「そうね。炊事を手伝ってほしい」
「そんな仕事なのか?」
「食事を提供するのよ。誰かさんに」
………さっきから腹が鳴っていた。たぶん聞こえたんだろうな。
炊事場に行くと、立派な竈がある。そして炊事道具と…、布袋に入った穀物。はっきり言って、ずいぶん立派だ。兵士町の屋敷とも遜色ないはず。
やがて飯が炊ける香りが漂いはじめ、俺はもう竈の前から動けなくなった。何だよこの匂いは。
「たいしたものはないけど、食べて」
「……食べていいのか?」
「毒は入ってない。餌付けされると警戒するなら、好きにすればいい」
「あ、ありがたく頂戴する」
餌付けはそりゃあ考えたさ。しかし炊きたてのメシを目の前に、食べないわけないだろう。
そのまま箸をとって、一口放り込む。
………。
…………。
「人間の餌付けって簡単なのね」
「そうだな」
「その開き直り、大したものだわ」
記憶が飛ぶ勢いで、俺は食べた。ただのメシを。何の添え物もない、何も混ざっていないただの米を俺は貪った。
生存本能。
この先よほどの無茶な仕事を与えられようが、それもまた仕方ない。自分で口にすると情けなくて涙も出てくるけど、そんなことは最早どうでもいいのだ。だって、もう泣いていたから。どうぞ好きんだけ馬鹿にしてくれ。
結局、さんざんおかわりして、炊いた米がほぼなくなった。軽い疲労感と眠気に襲われる。こんな幸せがあっていいのか……。
「まさか無駄飯喰らいに雇われたと思ってる?」
「申し訳ない」
「素直ね」
「既に完全敗北したと認識している」
食事が終わって、表の部屋のテーブルへ。向かい合って座る。
向かい合って、今さらのように思い出す。謎の女は未だに謎の女だ。
「せめて自己紹介はしたい。俺はカズヤという。もう知っているか?」
「貴方を借り受ける時に、名前は聞いたわ。私はナツミ」
「ナツミ…、初耳だ」
「初めて名乗ったつもりだけど」
一応、忘れているだけの知人の可能性も考えていたが、完全に消えた。
俺の知り合いなんて数えるほどしかいないし、元からないに等しい可能性だったが。
それから、しばらく無言のまま。
正直言って、距離感が分からない。
ナツミという名前は知った。そして彼女の自宅にいて、食事までごちそうになった。それはまるで親しい友人のようでもあるけれど、目の前の女は相変わらず顔を隠したまま。家の中でもフードを被ったままなのだ。
「ところで、これだけど」
「……………」
「貴方が関わっているでしょ」
「さぁな」
ナツミが懐から取りだしてテーブルに置いたのは、懐中時計だった。
何のことはない、昨日の朝、討伐者組合に納入したもの。運び込んだのが俺だったというだけなら、あの場にいた彼女が知っていても不思議ではない。
しかし。
これは違う。
運び屋として関わったことを聞いているのではない。
「バネと歯車で正確に時を刻む道具。それを実現したのは、この町の職人の力」
「その通りだ」
「では、そのように作ればいいと教えたのは誰?」
「自分たちで考えたんじゃないか」
「貴方」
「…………」
なるほど。そういう用件だったのか。
謎の女の謎は少し減った。その代わりに警戒度合いが増す。
俺の望む平穏な日々は、まだ遠いのかも知れないな。