[No.54] 【実録】釣られた釣り人
十代の兄弟ふたりが釣りをしていた。
糸を垂らしているのは森の中にある湖だけれど、バケツに入っているのは海に生息する魚である。この湖は海岸付近にあり、海は山をひとつ越えた先にあって見えないものの、地下トンネルが通じているため海の魚が釣れるのだ。そして釣り上げられた魚は、兄弟の親が町で営んでいる宿屋の料理としてふるまわれることになる。
「……兄ちゃん、もっと真面目に釣ってよ」
弟のエディー(14)が溜め息をつく。隣で、「釣ってる、釣ってる」とあくび混じりで返事をする兄(16)は、湖岸の岩場に寝そべって竿を足の指で挟んでいた。
やる気がカケラしかない。いつもこうだった。兄は怠惰である。漁獲量のほぼすべてはエディーによるもの。それなのに親には自分のほうが多く釣ったと報告するインチキ野郎。釣果が悪い、と親に叱られるときなんかには、そのあとさらに兄から「お前が不真面目だからだ」と叩かれもする。
……兄弟って、まったく不公平だ。一人っ子が羨ましい。
兄はヤル気のカケラも消滅してしまったらしく、麦わら帽子を顔にのせて寝入ってしまった。エディーは溜め息をくりかえし、湖面に浮かぶウキを見つめる作業に戻った。
「なんだ、まだ一匹しか釣れてないんだ」
と、聞こえてきた声は、兄の小言ではなかった。
エディーが振り返ると、知らぬまに女の人が背後にしゃがんでいた。兄と同じ歳頃のようだ。両膝に手をのせて丸くなり、バケツの中を覗いている。遊泳をしていたのだろうか。暗藍色をしたセミロングの髪は濡れそぼっており、白い肌は露出されていた。
「この平べったい魚はなんていうの?」
「……カレイ。知らないんですか? けっこう知られてるやつだと思うんですけど」
「よく見かけるけど名前は知らなかったよ。へえ、カレイかぁ」
彼女が身を乗り出し、太ももで隠れていた上半身が浮き上がって、ばっちり垣間見えた。その瞬間、エディーが面食らって顔を伏せる。てっきり胸は肩紐のない水着で包まれていると思っていた。でも、何も着ていなかったのだ。
「ねえキミ、釣りは休憩にして、わたしと遊びましょう?」
胸を露わにしている女の人といっしょに遊泳などできるわけがない。
慣れないものを見てしまい、すでに下半身が異常をきたしはじめている。
「……ま、まだ一匹しか釣れてないし、もっと釣らないと親に怒られるから……お、泳ぐのはやめときます。水着も持ってきていないし」
「泳ぐ? 泳がないよ? 遊びっていうのはね、――」
ガガガッ、と岩をこする大きな音に、エディーが反射的に顔を上げた。
女の人の正面にあったバケツが脇にどかされている。
「おっきくなっちゃってるキミのを、ここに入れる遊びなんだから」
と、屈められている内股の肉が、両手で左右にひっぱられた。
エディーには男女にまつわるエトセトラの知識がある。彼女が言っていることの意味する行為はわかった。初対面の人とするような行いではないことも……。断らなければいけないとは思った。しかし目を背けるのも忘れて釘付けになっていた。興味はあったけれど、見るのは初めてだった。見るだけではなくて、できるのだ。血液が下腹部の一点に集中しすぎたのか、頭がくらくらする。彼女が誘ってくる理由など、思考の外にふっとぶ。
……これは日頃の不公平な処遇に対してのご褒美なんだ。
ズボンをおろそうとした時、エディーの目の前が真っ暗闇になった。
「その遊び、俺がやりまーすッ!」
寝ていたはずの兄が、後ろから麦わら帽子で目隠しをしてきたのである。
「やめろよ兄ちゃん! 僕が先に誘われたんだ!」
「お前には見ることすら早いんだよ、マセガキが」
エディーは後方へと放り出されてしまい、入れ替わった兄がデレデレと女の人に近づいていく。
「あんたも俺のほうがいいでしょ、あんなのなんかより。毛も生えかけなんだぜ」
「わたしはどちらでも構わないよ? でもぉ、おいしそうなのは肉付きがいいキミかな」
女の人が指を差したのは、体格で勝っていた、兄だった。
……そんな、ひどい、ひどすぎる、あんまりだ。
「なんだよ、まだ一匹しか釣れてないのかよ。ヤってる間にちゃんと釣っとけよ」
兄はその場で女の人の胸を鷲掴みにして押し倒すと、ズボンを下ろして尻を出す。
もう見ていられずに、エディーは這いつくばらせていた体を湖へと向けた。怒りや妬ましさや情けなさで、局部に溜まっていた血が頭へ逆流していく。うしろから、「俺もじつは初めてなんだよ、穴ってどこ?」「もっと下だよ下」と、聞こえてくるふたりのやり取りに拳を岩の地面に打ちつけ、下唇を噛んで顔を振ると、
妙な物が目についた。
暗藍色のゴムロープが一本、湖岸から水中に潜っているのだ。今しがたまではなかったもである。水際からそのロープがどこまで延びているのか辿っていくと、交わろうとしているふたりの場所に行き着く。仰臥している女の人の首裏に繋がっているようだ。
「いっただっきまーすッ!」
兄がわざとエディーに聞かせつける大声を上げ、蛙の脚のごとく開かれている白い股の間に、ぐいっと尻を押しつけた。その直後、――
「は~い、かかった」
「イッテェーッ!! ……ぬ、抜けねぇ、抜けねぇぞッ!」
兄が激しい痛みにあえいだ。圧力が悶絶級に凄まじいのだろうか。引き抜こうとしているようだが、できないらしい。腰を押しつけた状態でガクガクと全身を震わせている。
女の人は何食わぬ様子で、涼しげに股開きっぱなし。上半身だけを起こしている。両手は体を支えるために後方の地面につけられていた。彼女の顔がにやけ笑い、状況がわからずに唖然とするエディーへ向けられる。
「キミは残念だけどリリースだね。一回で釣れるのは一匹までなんだよ」
そう言うと、兄の体に両手両足を絡ませて抱き込む。
重なり合ったふたりの体が水際に向ってズルズル動き出した。
女の人の首裏に接続されたロープが、水の中へ巻き取られているのだ。
「おい、エディー! なに突っ立ってやがんだ! 俺を助けろ!」
尻丸出しの兄が裸の女に乗っかって岩肌をなすすべなく引きずられていく。
エディーは恐怖のあまり神経がおかしくなってしまったのだろう。
腹を抱えて笑いながら見送った。
どぼんっ!
湖中に潜ったふたりを岩場の上から覗き込む。
水面下には魔物の姿があった。3メートルはあるだろうか。カレイに似た扁平な体形をしていて、イボイボに覆われた暗藍色の巨体魚だ。
ゴムロープの出処は、その巨体魚の頭頂部だった。巻き取られているのではなく頭に向って縮んでいるらしい。蛙のように広く大きい口が開けられており、近くまで引き寄せられてきた女の人が、その口腔の奥深くへ兄を放り込んだ。バクンっ、と分厚い唇が閉ざされ、人の顔ほどはある黒々とした目玉が見える。
頭上では、ロープ状だったものが固くなっていき、棒状の突起に変わった。湖面から突き出したそれは、さながら釣竿だ。先端に取り付いている女の人は、瞼を閉ざしている。糸が切れてだらんと脱力した操り人形のようになっていた。白かった肌が首裏から暗藍色に侵食されていく。
〝女の人〟は、人ではなかったのである。疑似餌ならぬ〝疑似人間〟。たんに突起の一部だったのだ。本体の巨体魚が、仄暗い水の底からルアーとして操り、誘引し、地上から人が魚を釣るように、水中から魚が人を釣っていたのである。
釣竿突起が湖面上で左右に振られ、頭の先から爪先まで暗藍色に染まった疑似人間が、セミロングの髪をなびかせながら、ぷらんぷらんと揺れる。
やはりエディーは恐怖のあまり神経がおかしくなってしまったのだろう。
兄を捕食して沈みゆく憎っくき魔物に、もろ手を振って叫んでいた。
「ありがとうございましたーーーーーーっ!」
◯
深淵を覗くとき、深淵もまたこちらを覗いている――。
この巨体魚魔物の名は、〝エスカ・イリシウム〟。
挿し込んだらさようなら。
首裏にロープの付いた人っぽいものにはくれぐれも御用心。
魚は口にかかって釣られるが、男は口にかけられて釣られるのだ。