[No.40] ケルピーじゃない
――その日は、私とその子の仕事休みがちょうど重なった日で。一緒に海へ行こう、とその子に誘われて海水浴に行ったんです……。
と、物静かに語るのは、服屋で働くエヴリンさん(20)である。
彼女は乗り気ではなかったのだが、同い年の同僚女性に「ねえねえ、行こうよ!」と強く押され、渋々行くことに決めたのだ。同僚女性は、エヴリンさんとは違い、美人で快活な性格の人気者。その子に嫌われてしまうと職場での立場が危うくなりかねないからである。
同僚女性の目的は、泳ぐことではなく、ナンパされることにあったらしい。そして、次々と声をかけてくる男の誘いを断って楽しむのだ。チヤホヤされたいため、自分の美しさをひけらかしたいため、水着姿を見せつける。同僚女性はそういう女だった。
――醜美を対比強調させたいがための素材なんですよ、私は……。
エヴリンさんは卑下して話を続ける。
夕方になり、浜辺にいる人が少なくなると、同僚女性もようやく満足したようで、ふたりは町へ帰ることになった。
「声掛けられすぎて疲れちゃったわ。これだからビーチって嫌よね。あぁ~、帰り歩きたくな~い。どこかに馬でも落ちてないかなぁ~」
ヒヒーンッ。
いななきが聞こえたのは、浜辺から引き返そうと準備していたときだった。
一頭の馬が、砂浜に立っていたのである。
「ラッキー、ほんとに馬が落ちてる! 手綱とかないし、野生の馬? でも人懐っこそうだし、毛並みいいし、飼われてたのが逃げ出したのかな。まあ、どっちだっていいよね。エヴリン、これに乗って帰ろう!」
エヴリンさんは、「待って!」と、馬にまたがろうとする同僚女性の腕を慌ててつかまえて引き止めた。都合よく馬が現れ、変だとは思わないのだろうか。無警戒にも程がある。
「この馬、〝ケルピー〟かもしれないよ……?」
「人を水中に引きずり込んで食べちゃうっていうアレ? 違う違う。だって沼とか湖に出るって話じゃん。でもここは海なんだから。それに後ろ足だってあるし。ケルピーなら下半身が魚の体になってるはずでしょ?」
「けど、やっぱりおかしいよ。乗っちゃダメ。はやくここから離れよう……」
「ええ~、いいじゃん。乗って帰ろうよ~、疲れてるし~」
乗るといってきかない同僚女性を、エヴリンさんは必死で制した。たとえケルピーじゃないにしろ、手綱もない馬に乗るのは危ない。振り落とされて骨折でもしようものなら、職場で「エヴリンが乗れっていうからさ~」などと荒唐無稽な経緯に作り変えられてしまうことになるはずだからだ。
すったもんだをしていると、海側から男性の声が聞こえた。
「俺の馬に何か用?」
浅瀬に立っていたのは、二十歳ほどで背の高い美男子だった。ちょっと長めの茶色い髪の毛が海水で濡れており、まさに水も滴るいい男具合。細身で筋肉質な上半身は裸である。居残っていた海水客のようにも……見えなくはない。
思いがけない美男子の登場に、同僚女性が目の色を変えた。
「あなたの馬だったの? な~んだ、残念。泳ぎ疲れちゃったからこの馬に乗って帰ろうかなと思ってたのにな~」
「あははっ。勝手に連れ帰られたら困るよ。よかったら俺が送っていこうか?」
「ワオッ! 話がすごく早い!」
「ちょ、ちょっと待って……」
エヴリンさんは、舞い上がっている同僚女性の手を引き、「あの人、ぜったいにおかしいよ」と耳打ちをする。しかし、「何言ってんの、超イケメンじゃん、お持ち帰りしなくてどうするの!」と、同僚女性は彼氏がいるにも関わらず、不埒な算段で頭がいっぱいになっていた。
「なにをこそこそ話てるんだい?」
「連れがね、その馬がケルピーだって怖がっちゃって~」
違う。今となっては不審なのは美男子の方だった。なぜなら彼は、『海藻』を腰に巻きつけただけの姿だったからである。不審と言わずに何と言えよう。でも同僚女性は、「きっと海パンが流されちゃっただけだって」と、有りそうで有りえない解釈を盾に耳を貸さない。
「あははっ。この馬は乗っても平気さ」
美男子は馬の上に飛び乗ってみせた。足を大きく広げてまたいだことにより、腰を覆っていた昆布のような海藻がめくれ、一瞬、股間がむき出しになる。それを目の当たりにした同僚女性は興奮し、「今の見た!? 馬並みだったよ!」とエヴリンの肩を叩く。
エヴリンさんの不安は大きすぎるイチモツで余計に駆られ、懸命に同僚女性を説き伏せようとした。しかし最後には、「もういいよ、ドブスは引っ込んでなね~」と心無い言葉を浴びせかけられ、突き飛ばされてしまった。
引き上げられた同僚女性が、美男子の後ろに腰を下ろす。腕を腰にまわし、セパレートタイプの水着胸を、彼の背に節操なく密着させた。
「ねえ、あなたのお名前は?」
「俺たちはアハ・イシュケっていうんだ」
「アハイシュケ? 変な名前ね。それに『たち』ってなに~?」
「すぐに馬から下りて!」
砂地に倒れているエヴリンさんは叫んだ。〝アハ・イシュケ〟という名を聞いて思い出したのだ、海にもケルピーのような馬の魔物が潜んでいることを……。
同僚女性は、やれやれと頭を振る。
「あの子、自分がモテないからって嫉妬してるのよ。はやく行きましょう」
「そうだね。俺もすぐ食べたくなってきた」
「ワオッ! わたしたち馬が合いそうね!」
「じゃあ、行くよ」
と、美男子が馬を進めたのは、陸地とは反対だった。
「あれ? そっちは海だよ」
「そうだね。海だ」
言う間に、馬の蹄はさざなみを踏みつけていく。
「ちょっと何してるの? 戻りなって」
「なぜだい? 今からオマエを食べるんだから海の中へ行くに決まってるだろう」
「……え?」
振り返った美男子の顔が変形した。鼻や口が長く突き出していき、両目は左右に離れ、耳が頭の上へと移動していく。馬面になったのだ。
悲鳴を上げた同僚女性は、密着させていた体をのけぞらせようとした。でも、鎖骨周辺の皮膚が、馬面に変貌した男の背にぴったり癒着して取れなくなっている。両手を背に当てて必死で剥がそうとすると、胸は剥がせたが水着だけはなぜか男の背中に貼り付いて残った。そして、今度は押しつけた手のひらが癒着してしまったのだ。お尻を浮かそうとすれば、馬の背中にも内股の肉がくっついてしまい、引き剥がせない。
「こいつは楽な女だったな。だまくらかすまでもない」
そう喋ったのは、馬面男ではなく、元から馬だった方だ。
同僚女性の悲鳴は、すぐに海中へと潜り込んでしまった。
――翌朝、肝臓だけが浜に打ち上がったみたいです……。
エヴリンさんと同僚女性が出遭ってしまったのは、アハ・イシュケという魔物で間違いない。やつらは姿を人の男に似せることができ、人語も操ることができる。その背中は、あたかも人間の肉を吸い付ける磁石のようになっていて、一度またがれば逃れることは困難。水中に引きずり込まれて食べられた人間は、骨までも喰らわれるが、肝臓だけは残されるのである。
人間狩りの成功率をあげるため、二頭が組んだ合同作戦だったのだろう。魔物は単体で出てくるとは限らない。馬と変質者の組み合わせには要注意である。
――ザマァ見ろって感じですよね……。
帰り際、エヴリンさんはそう言って、ニヤッと笑ってみせた。