[No.37] 【ノンフィクション・ホラーノベル】 マーメードの心臓
漁を終えた夫・カリム(32)が浜岸にある家に帰ってくると、いつもこの時間には家にいるはずの妻・ゾーイ(30)の姿がどこにも見当たらなかった。心配になって名前を呼んでみれば、「こっちよ、こっち」と屋外から妻の声が返ってきて、ひとまず安心する。しかし、――
「ゾーイ? どこだい?」
玄関から外へ出てみても、姿が見えない。遊泳しているのかと思い、浜辺の方を眺めていると、「どこを見てるの? こっちだってば」とおかしそうに笑う声が、母屋脇に建つ作業小屋から聞こえてくる。ゾーイは閉じかかった木扉の後ろに隠れるようにし、作業小屋の中から頭だけを覗かせていたのだ。年甲斐もなくかくれんぼの真似事だろうか……。
「そこでなにしてる。埃っぽいとか、魚臭いとかいって、いつもは作業小屋には入りたがらないだろう」
「今日はすごいもの拾って来ちゃったんだよね」
ゾーイの趣味は浜辺の散策だった。カリムが漁へ出ているときに、彼女は浜をぶらつき、流れ着いたものを拾い歩いているのだ。気に入ったものは部屋に飾ったり身につけたりして、要らないものは漁村を訪れた行商人に売ったりする。漁師の妻らしからぬ素行ぶりだが、意外に、彼女が見つけた物が自らの賃金より高く売れることもあるので、カリムは好き勝手やらせているのだった。
「何を見つけたんだい? またお金に替えられそうな物?」
「いーえー、お金には到底替えられないですよー」
作業小屋へ近づいて行くと、もったいぶった様子で口にしたゾーイが木扉を押し開ける。隠れていた彼女の体があらわとなり、カリムは途端に血相を変えた。
妻が着ている白いワンピースが、真っ赤に染まっているのだ。
血であることは、漂ってくる生暖かく生臭い匂いでわかる。
「どうしたんだ、その血は!?」
「大丈夫、あたしの血じゃないって。キャーキャーピーピーうるさかったからさ、今ちょうどシメちゃったところだったんだよね」
けろりとしたゾーイの顔には、よく見ると小さな血痕が点々としている。真っ赤に染まった右手には、鮮血を滴らせる包丁が握られていた。そして、その切っ先が作業小屋の奥へと向けられる。
少女がひとり、死んでいた。
漁網の入った木箱に背をあずけ座った姿勢。長い金色巻き毛の頭がぐったり垂れ下がったまま動かない。赤々とした血は喉元から流れているのだろう。裸体に赤いエプロンを着せたような状態だった。表情は窺えないもののまだ十代のように思われる。
「……おまえ、人を殺したのか?」
「人聞き悪いこと言わないでよ。あの下半身が見えてないわけ?」
言われてカリムが気づく。少女の下半身は人の足ではなかった。腰から下が魚の胴体になっているのだ。血で赤く染まってはいるが、付着していない部分は、水色の丸い鱗がそろった肌である。末端は大きな尾ビレの形状をしていた。
「……〝マーメード〟」
「そっ。人じゃないの。今日はなんとなく砂浜の先の磯まで行って見たんだよね。そしたらこの〝人魚〟が岩場に腰掛けて、櫛で髪なんかとかしてたの。で、後ろからこっそり近づいて、手頃な岩でガツンと頭を叩いたあと、頑張って引きずって持ち帰ったのです」
「……どうして……どうしてこんな馬鹿な真似をしたんだ!」
カリムの血の気がより一層引く。
動揺と憤りを隠せないのには訳があった。
ふたりが暮らすこの地では、マーメードは〝災難を招く存在〟として忌み嫌われている。姿を見せれば嵐が来るとも、船が難破する前兆だとも伝えられているのだ。それを殺してしまったりしたら、どんな事になるか想像もつかない。
「そんな話は年寄りどもの迷信なんだって。マーメードが居るってことは聞いてたけどさ、ここに嫁いで来て十年目でようやく見つけたんだし。これを逃したら今後いつに出遭えて、心臓を手に入れられるかわからないじゃない」
「……まさか、あの話を信じてるのか?」
「歳をとらずに、800年ってすごくなーい?」
実は村には別な言い伝えもある。
人魚の心臓を喰らった者は、不老となり、800年といわれるほど、永遠に相当するような寿命を生きることができるというものである。さらにその際には、心臓の持ち主だったマーメードの見た目の若さまで、容姿が若返る、とも伝えられているには伝えられている。
「この子は人でいうところの、十七、八だよね。最高でしょ? またあの頃のあたしを抱けちゃうんだから。それも、勃たなくなるまでずーっと」
「ふざけるな! 迷信なのはその不老不死話の方だぞ! ……これはもう俺たちだけの問題じゃない。村長に相談しに行ってくる」
しかし、作業小屋の外へ出ようとするカリムの前に、「待って待って」とゾーイが立ち塞がった。血みどろの包丁を手にしたままなので、危なっかしくて避けられない。
「……そこをどくんだ、ゾーイ」
「怒らないでよ。心臓はちゃんと半分個にするってば」
「いいから包丁をこっちに渡せ!」
「はぁ……わかった」
ドスっ。
ゾーイは包丁を渡すことなく、夫の腹に刺し込んだ。
カリムが腹を抑え、苦痛にうめきながらその場に崩れ落ちる。
「……な……んで……」
「言うこと聞いてればよかったのにねー。やっぱり半分個はなし。若返ったら、こんな魚臭いところとも、三十過ぎた意固地なおっさんともバイバイ。街に出てあたしの体に見合う、もっと若くていい男探すよ。ごめんねぇー」
包丁の腹でぺちぺちと夫の頬をたたくと、ゾーイは人魚の亡骸のもとへ向う。
解体が始まった。
腹部を縦横の十字に裂き、心臓を取るのに余計な臓器を次々引き出していく。
地面に伏しているカリムは吐き気をもよおした。マーメードの内臓を目にしたからではない。ふだん自分に任せっきりで魚の解体も嫌がる妻が、楽しそうな笑みを浮かべながら腸をズルズルとひっぱている。その姿に嫌悪とおぞましさを覚えたのだ。
「心臓ってこんなに綺麗なのね」
ゾーイが目を細めてうっとりと見つめる手のひらには、摘出された心臓が握られていた。「いただきまーす」とかぶりつく直前にカリムは目を閉じる。直視していられなかった。暗転した先から、ぐじゅぐじゅと咀嚼する水っぽい音が聞こえる。〝グール〟が人肉を貪っているときの音はきっとこんな音なのだろうか……。
「おーっ、キタキタ! 体が火照ってきた! ほらほら、最期に見ておきなって、自分の妻がピッチピチの十代に戻るさまを!」
カリムが目を開けると、妻が血染めのワンピースを脱ぎ捨たところだった。
心臓はすでに影も形もなくなっている。
「カサカサでザラついたお肌に潤いが戻るのね!」と、手首から肩先が撫でつけられ、赤い絵の具が指で伸ばされるように引かれる。「たるんできたお腹もバイバイ!」と、脇腹に付いてきていた贅肉をつまんで離し戻す。「ココも薄くなるよ。膜まで戻っちゃったりしてね。そういえば人魚って付いてるのかな?」と、下品な戯言とともに、むしられた陰毛が息で吹き飛ばされる。
カリムは変化など起こるはずがないと思っていた。
しかし、それは目に見えて起こったのだ。
ゾーイが「なんか暑ーい」というとおり、肌表面に浮き出ていた無数の汗玉が、そこかしこで膨張し、大きな透明の水泡となって、ぱちんぱちんと弾けていく。
「でも……ちょっと暑すぎなんじゃない?」
体からは幾本もの蒸気が立ち昇っていた。水泡の弾ける速度がみるみるうちに激しさを増し、あたかも洗剤で体を擦っているかのような白味まで帯び、裸出されている肌を包み上げはじめる。
「ああ、熱い、熱い……なにこれ……どうなってるの?」
ぽとりっ。
と、左腕の肘から先が急に落ちた。そして床の上で、白く泡立つ前腕がじょじょに小さくなり、完全に形を消す。傷口の肘からは血は出ずにブクブクとした泡が爆ぜ続けている。
「いやーッ! カリム、助けて!」
一歩踏み出した体が、がくんと落ちる。出した右足の膝から下が細やかなアブクと化して、空中に飛散してしまったからだ。そのうちに下半身がまるまると崩れてしまい、ゾーイはまだ形状を保った泡まみれの右手だけで、戸口で倒れる夫のもと目指して這いずる。
カリムは恐怖のあまり声も出せず、瞬きすることもできず、地獄絵図を見ていた。
「熱いよぉ……熱いよぉ……」
そう繰り返されるだけになった妻の声が、うがいをしているようにガラガラとした音だけに変わり、顔全体も泡に覆われていく。差し伸ばされた右腕が虚空で分解して、ぼたぼたと垂れた白い泡が床にシミを作ると、上半身はまもなく倒れて崩壊した。縮みゆく泡の塊から最後に残った目玉がひとつ、カリムの前まで転がってくる。それもシュワシュワと音を立ててすぐに蒸発する。
悪い夢を見ているかのようだった。
だが、妻に刺された腹の痛みが現実だと語っている。
「ゾーイ! ゾーイ! ああ……なんてことだ……」
やっとの思いで発して這いずるも、時すでに遅し。
泣きながら床を叩く以外に何ができようか……。
ぴたんっ
ぴたんっ
ぴたんっ。
と、鳴るその音は、カリムが床を叩く音に混ざってきたものだった。
床に擦りつけていた額を、カリムはゆっくり上げていく。
動いていたのは、マーメードの尾ビレである。
さらに視線を上に移す。
腸が飛び出た腹部を越え、
血まみれの胸を越え、
緑色の瞳とぶつかった。
生きていようはずがない。
でも、――
金色の巻毛頭を上げたマーメードが、こちらを見て薄ら笑っているのだ。
「〝歳をとらなくなる〟という意味が、これでわかったかしら?」
(完)
※この小説のラストシーン(マーメードが尾ヒレを動かすところ最後まで)は創作である。しかし、それ以外はすべて、致命傷に至らず生還した夫・カリムによって語られた事実に基づくストーリーである。なお、この漁村は現在、廃村となってしまっている。