[No.26] 母と散歩中の幼児 〝カエル〟に丸呑みにされる
ぽかぽかとした暖かな陽が射し、散歩日和だった。
家事に一段落をつけた母親は気分転換をしようと、家からほど近いところにある池へ散歩に出かけた。片手には三歳になった息子の小さな手を引き連れていた。
池では睡蓮が見頃になっていた。水面に咲く桃色や白色の花は、姑のいびりに疲れた母親を癒やした。息子の方は花自体には興味を持たなかったが、小石を拾い集め、円形の葉っぱに投げのせるという遊びを考案して、彼は彼なりに楽しんでいた。ほかに見物人がいなかったこともあり、母親は咎めようとはせず、「水際に近づいちゃだめよ」と注意するにとどめ、微笑ましくその様子を見守っていた。
ぽちゃん、とこんっ、ぽちゃんっ、とこんっ。
と、小気味よく続いていた小石を放る音が、ふいに鳴り止んだ。
「ゲーゲ、ゲーゲがいる」
息子は池に向って指を差していた。
母親がその先を目をで追うと、緑色のカエルが一匹、水面に頭を出している。
「ほんとだ、ゲーゲがいるねぇ。……」
言ったあと、母親は顔をしかめた。
顔を覗かせているのは、カエルには違いなかった。でも大きさがおかしい。色合いはアマガエルと変わらないが、睡蓮の葉を水中から押し上げ、頭に乗せているほどに巨大なのだ。カエルまでの距離は離れているにもかかわらず、黄色い目の中にある横線を一本引いたような瞳孔までがはっきり確認できる。頭の大きさだけでも、犬の体ほどはあった。
……あれは魔の物だ。
母親がそう思うがはやいか、巨大ガエルが動いた。頭を水面に出したまま尋常ではない速度で水中を泳ぎ、こちらに迫り出したのだ。すぐに浮き上がってきた背中にはコウモリのような翼があった。それを羽ばたかせ、さらに速度を増し、水切りをするかのように飛び跳ねてくる。
狙われているのは息子だ。
「坊や、危ない!」
とっさに手をつかみ、池から離れるべく駆け出す。
だが、数歩走ったところで息子の重さが、ぐんと増した。
ふりかえった母親が声無く叫ぶ。
巨大ガエルが息子を丸呑みにしていた。息子の姿は、母親の手をにぎる片腕の肘から先だけが、ガマ口から出ているのみ。他はまるまるカエルの胴体の中におさまっていた。膨らんだ白い腹がもぞもぞと動く。内側から押しやられた表皮が小さな手のひらのかたどり、ついで、息子の苦しそうな表情が白い皮膚に浮き彫りになる。
「ママー! ママー!」
腹の中から聞こえる息子のくぐもった悲鳴。
「坊や! 坊や!」
母親は両手でしっかり息子の手をにぎり、引っ張り出そうとした。しかしカエルは無表情の面構えで固く口を閉ざしている。落ちていた木の枝を拾ってこじ開けようとするが、表皮の油でつるつると滑る。叩いても同様に滑ってしまう。目つぶしを狙ったが、黄色い瞼が閉じられ、ぬらぬらした球体を撫でるだけで効果がない。
巨大ガエルの下半身には後ろ足がなかった。おたまじゃくしじみた尻尾の形状になっている。その尻尾をゆらゆらと揺らし、陸から池のなかへ戻りはじめた。
母親は引きずられながらも決して手は離さずに抵抗を続けた。手の中で息子の力が抜けてくるが伝わっていた。まだ何分とたっていないのに、ママと叫ぶ声が途絶えた。腹の中で動く様子も見られない。一刻も早く助けなければ、と懸命に力を込める。
巨大ガエルが水中へと消える間際だった。
間一髪のところで、口の中からズルリと息子が引き出された。
「坊や……っ!?」
その姿を見た母親は絶叫した。
息子の頭は、どくろに変わっていたのだ。頭だけではない。飲み込まれていた部分すべてが白骨化している。衣服は見る影もなかった。肋骨がロウソクのように溶けかけている。肉体が残っているのは、母親が手を握っていた片腕の肘から先のみだった。
◯
この母子が遭遇したのは、〝ウォーター・リーパー〟という魔物である。沼地や池に潜み、口に入り腹におさまるサイズのものならなんでも喰らう。ひとたび飲み込まれたら最期、超強力な溶解液により、ものの数十秒で、命が溶け切ってしまうのである。
昔は一つ所に棲んでいるとされていたが、実は違う。雨の日にコウモリのような翼で長距離飛行をして、棲み処を移すことがある。沼や池があれば、どこにでも居るおそれがあるのだ。そしてこの世界には、沼や池はごまんとある。
自分の息子や娘の身には起こらないなどとは、ゆめゆめ思うなかれ。