[No.135] 生きた宝石〝億鱈(ミリオンダラ)〟
みなさんは〝鱈〟という海魚をよくご存知だろう。でっぷりした体をつくっている白身は、ソテーやムニエルとなって一般家庭の食卓にのぼり、保存がきく干物や燻製になれば、冒険者やハンターたちのご用達。古来から私たち人間の胃袋を満たしてくれている食用魚である。
では、〝億鱈〟はご存知か?
たとえ熟練の漁師であれ、その名を聞き知っている人はいないはず。「知っている」というのなら、あなたは、海洋を専門にするトレジャーハンターか、宝石をコレクションする大富豪なのだろう。
ミリオンダラは、知る人ぞ知る宝石魚。
姿かたちは、わたしたちが見知っている鱈そのものだが、両者の違いは歴然。ふつうのタラが赤みを帯びた鈍色のうろこなのに対し、ミリオンダラのほうは色鮮やかである。胴体の金色を基調とし、尾びれや背びれ、鰓といった突起物は、緑、青、紫……という具合に色分けされていおり、それらすべてが、本物の宝石。純金の体に、エメラルドやサファイアの鰭を持つ、〝生きた宝石〟――それが〝億鱈〟なのである。
宝石魚でも〝全身宝石体〟は珍しく、なかでもミリオンダラは、発見事例がいまだに数えるほどしか報告されていない希少中の希少種ということもあって、一匹の価値は目玉が飛び出るほどに規格外。その名が示す通り、かるく〝億〟単位にのぼる。
――泳ぐ金銀財宝。
そんな夢のまた夢な海魚に、つい先日、偶然にも相まみえた幸運な男がいた。
○
男の名は、イースト(36)。《トゥムハーバ港》に暮らす漁師だ。代々遠洋漁業をおこなう船乗りの家庭に育ったが、船酔いしやすい体質だったため、釣り竿から銛へ漁具をシフトさせた〝潜水漁師〟である。小舟を用いるのは岸から近い海域までで。そこからは命綱をくくりつけた己の身が『釣り針』となり、獲物を求めて海中を泳ぎまわるのだ。
泳ぎは得意だった。しかし、船上から釣り針を垂らすのとは違い、体力の消耗が著しい。限られた活動時間で得られる漁獲量は、通常の漁師に比べて少なくなりがちである。生活していけないというわけではないが、たまには妻に高価なアクセサリーのひとつでも買ってやることができたらいいのに、とイーストは常々思っていた。
今月の11日も、いつものように彼の小舟は漁場に浮かんでいた。
舟べりから一本のびているロープ。その直下にある海中では、水着一枚をはいたイーストが獲物を探し求めて泳いでいる。頭を下に向け、そろえた両足を力強く蹴り、海底まで潜ると、岩場に張りつくようにして物陰をうかがう。さすがは潜水漁師という身のこなし。息継ぎのために海面へ引き返す動きにも無駄がなく素早い。
海上へ頭を出すと、イーストは首をかしげた。
「変だな。魚が一匹も見当たらない」
日によって多い少ないはあれ、魚影を確認できないのは珍しかった。
それから何度か潜って見ても、やはり小魚一匹すら泳いでいない。澄み渡っている水中は、水面から射し込む日の光が、そよ風になびくベールのように揺れているだけで、もぬけの殻というような塩梅なのだ。
奇妙に思いつつも、イーストは別な漁場に向かうことに決め、頭上で楕円の黒影となって見える小舟を目指し、浮上し始める。
声が聞こえてきたのは、その時だった。
「ですぅ~……ですぅ~……」
イーストの耳には、小さな男の子が、水の中でそう繰り返し口ずさんでいるように届いた。岸から近いとはいえ、この漁場まで泳いで来るのは、大人でも辛い距離である。小さな子供が居るわけがない。潜んで居るとするなら、子供の声真似をするような水棲魔物くらいなものだろう……。
一刻もはやく舟に戻らなければ!
心が警鐘を鳴らしたけれど、それとは逆に、イーストの体は泳ぐ進路を変えてしまっていた。怖いもの見たさというものだろうか、それとも、船乗り漁師たちが武勇伝のように語ってみせる魔物との遭遇話に、ある種の劣等感や憧れのようなものを感じていたためなのか。どうしても自分の目で確かめたくなったのだ。
「ですぅ~……ですぅ~……」
子供じみた声は、近くにあった珊瑚礁から断続的に漂ってきている。いつもはそこを隠れ家にする小魚たちが群れているところだが、横切っていく魚影は確認できない。礁壁に張りついて水流に身を任せる藻類やイソギンチャクが見えるのみ。
……魚の姿がないのは、あの声が原因なのだろうか。
と思いつつ、接近を続けたイーストは、岩礁の底にアーチ状の空洞を見つけた。
ゆっくりと下降し、おそるおそる覗き込み、
「ッ!?」
驚きのあまり、ゴボゴボっと息を吐き出す。
「ですぅ~……ですぅ~……」
と声を出していたのは、子供でなければ魔物でもない、魚だったのである。姿かたちは鱈を彷彿とさせた。だが、そんじょそこらにいるタラなどではない。ゴールドの鱗、エメラルドの鰓、アメジストの背びれ、ブルーサファイアの尾びれ、……。全身を宝石のごとく豪華絢爛に輝かせているのだ。
全身宝石体!?
であることは、わかったが、潜水漁師を20年間続けているイーストでさえ、その魚に〝億鱈〟という名前がつけられていることまでは知らなかった。もちろん、小さな子供が「ですぅ~」と言っているような音を口から出す〝鳴き魚〟であることも、知る由がない。しかし、途方もないような価値がありそうだということは、自分の両目にギラギラぴかぴかと飛び込んでくるまばゆい光で、感じ取っていた。
なにがなんでも捕獲したかったが、驚いてしまったせいで息がもたない。
イーストはいったん海面へ浮上した。
すぐに海中へ引き返すと思いきや、小舟へ向かっていく。
「いよいよ、こいつを使うときがきたぞ!」
船内から取り出したのは、短い筒状の魔道具〝酸素発生装置〟である。筒の内部に仕込まれてある魔法石が酸素を生み出し、口にくわえて吸い込むことで、水中でも呼吸を可能にし、行動時間をぐ~んと延ばせるすぐれもの。
水中戦闘を強いられる局面での使用を想定された軍需物資のため、高級品になっているが、いつかドデカイ獲物と巡り合う日が来たときのために、と、コツコツ貯めていた小遣いをはたいて購入していたものだった。旅商人の口車にのせられて買ったあとからは、妻へのプレゼント資金だったのに……、と冷静になって後悔していた代物でもあったが、これで帳消しにできると、イーストの気持ちは弾んだ。
「シュコー、シュコー」
と、短筒の端から泡を排出させながら、珊瑚礁へ戻っていく。
あたかも、海底に横たわる金の延べ棒のように、ミリオンダラは、アーチの下に留まっていた。下顎が突き出ているちょっと間の抜けた顔つきで、「ですぅ~、ですぅ~」と、ただ繰り返して凝然としている。きょろきょろさせるたびに一等星のような光を放つ目玉は、きめ細やかにカッティングされたダイヤモンド。えぐり出してペンダントにあしらい、妻の首に下げてあげたら、どれほど喜ぶだろうか。
近づいても逃げ出す素振りを見せなかったばかりか、触れても無反応だった。銛は小舟に置いてきており、アーチの背後側へと回ったあと、自由になっている両手で尾びれを掴めば、ひんやりとして硬い金属の感触。ぬめりけなど一切なく、ひっぱることに支障はない。
問題になったのは重量だった。体長60センチほどで、タラとすれば小ぶりなほうなのだが、なにせ宝石の体。生半可な力で引いても、びくともしない。それでも、巨万の富を眼前にした人間の馬鹿力は、ときとして限界以上の働きをする。
「フゴゴゴゴゴゴッ!!」
イーストは筋肉という筋肉を引き締め、大量の気泡を立ち昇らせた。すると海底に固着たようになっていた宝石の塊が、ついに、白い砂を掻き分けるようにして、アーチの外へ出てきたのである。
ひっぱり出されても、ミリオンダラには抵抗する動きがまったく見られない。ぱくぱくさせる口から、あいも変わらずに「ですぅ~、ですぅ~」と幼気な少年の声音を発しているだけ。
イーストは背びれを握りしめて浮かんだ状態で一息ついたあと、ふたたび、
「ブガガガガガガッ!!」
と、空気を大量放出。
海底で重量上げでもしているように、ミリオンダラを両腕で引き上げ、胸元にしっかり抱きかかえた。そして、日頃の素潜り漁で鍛えていた下半身はこの日のためにあったのだとばかりにフル活動させ、海面を目指して浮上していく。
短筒を噛み砕こうとしているように歯茎をむき出しにし、股関節を熱く軋ませながら猛然とバタ足を繰り出す。少しでも力を抜けば一気に海底へ沈んでいくことは自明のこと。だから海面に頭を出すまでは、一瞬たりとも休めない。
海面に近づけば近づくほど、ミリオンダラの体は桜花爛漫に光を反射させる。
その照り返しが活力になった。
「プハッ!」
と、海面を割って、イーストが頭を飛び出させる。片手で舟べりをつかむと、くわえていた酸素発生装置を惜しげもなく口から吐き出した。海の中にゆらゆら沈んでいくが構わない。その高価な魔道具を好きなだけ買えてしまうであろう宝石魚を、胸に抱いているのだから。
「一攫千金、とったどー!!」
黄金の下顎をつかみ、ミリオンダラの全身を、ひき上げる。
幸運は、そこで尽いえた。
「……で……すぅ~…………」
弱々しく発した黄金の下顎が、黒く濁る。それだけではない。ミリオンダラの体を形成した色とりどりの宝石が、たちどころに輝きを失っていく。ルビーの髭も、オレンジトルマリンの胸びれも、イエロートパーズの尻びれも、あらゆる部位が、酸化した鉄のように黒ずみ、あちらこちらに亀裂が走る。
イーストは、絶対にやってはならないことを、やってしまったのだ。
〝生きた宝石〟でいられるのは、海の中だけなのである。海水から引き上げ、空気に触れた瞬間、かれらの命は儚く尽きることになり。その死体はただの〝石ころ〟に変わってしまう。捕獲に際しては海水ごと引き上げ、売買は水槽入りで行われ、その後も水槽での『所持』が必至。身につけることができない鑑賞専門の宝石魚――それが、ミリオンダラなのだ。
掲げた腕から、数億の価値が、無数の石ころになって、ボロボロ崩れていく。
まだかろうじてダイヤモンドの輝きを放っていた目玉が取れ落ちたところで、茫然自失になっていたイーストは我に返り、せめてこのダイヤだけは妻に!、と、両手を伸ばし、水底へ沈む前にキャッチすることができた。
しかし、開いた手のひらの上にあったのは、輝きを失い、完全な不透明に変わり果てた、いびつなだけの丸い――
「小石ですぅ~」
と、イーストはつぶやき、深い深い深~い溜め息をついた。
○
逃した魚は大きい――いや、死なした魚は超絶ド級。
こうして潜水漁師の男・イーストは、不意に転がり込んできた億万長者へのチャンスを海の藻屑に変えてしまったわけである。
が、この話には、遥かなる大海のような広い心のオチがつく。
○
家路についたイーストは、今日の出来事を妻には黙っていようと思っていた。しかし、精根尽き果てて溜め息ばかり繰り返すさまを不思議がられ、「何があったの?」としつこく問い詰められもしたため、捨てるに捨てられず漁場から持ち帰ってきていた小石を取り出して、一部始終を語って聞かせたのだった。
成金への切符を自分の手で破き捨てたような結果である。
一体何をやっているんだ!、と怒られ、呆れられるのが当然と思った。
でも、話を聞き終えた妻の反応は違った。
「アハハッ、イヒヒッ」
と、腹を抱えての大笑い。
拍子抜けしたイーストが、「……怒らないのか?」と自分から尋ねれば、
「怒ったところで、これがダイヤモンドの目玉に戻るわけでもないでしょう?」と手のひらの上で小石を転がす。「海から出したら石に変わる宝石魚なんて、わたしも聞いたこと無いしさ。初めから石になることが決まってたようなものだよ。しょうがないって。ギルドの寄り合いで、話の種にでもしたらいいんじゃない? 武勇伝みたいなのが欲しいとか言ってたでしょ。ちょうどいいのがひとつできて、儲けたな、くらいに考えておけば?」
もやもやしていた暗鬱とした気分が、妻の言葉でスパッと消し飛んだ。
「でも、武勇伝はこれっきりにしてよ。変な声に誘われて行ってさ、そこにいたのがもし魔物だったら。わたしは今頃、未亡人になってたんですぅ~。――わかる? 一攫千金だ、億万長者だ、とかは別にいいから。毎日無事に帰ってきてよね」
イーストの目には妻がキラキラ輝いて見えていた。
ミリオンダラなど足元にも及ばない輝きだ。
「この小石はおもしろいから記念に、ペンダントにしてもらっちゃおうかな」
明日もいつものように海に出て、いつものように漁をして、いつものように帰ってこよう――と、イーストは、小石を挟んでピースをして見せてくる妻の姿に、ゆるぎのない誓いを立てたそうである。