上、傷だらけのノクターン
3作目、上下2話で完結です。
誤字脱字など何か問題がありましたら、ご一報ください。
わたし、シャーロットにとって、その日はとにかく、ツイてない日だった。朝ごはんの卵焼きを珍しく焦がしたし、抜き打ちでやられたテストは全然できないし、友達とは喧嘩しちゃうし、楽しみにしていた食堂の新作ケーキを2秒で落とした。
その上、何度も通ったことのあるはずの路地で迷って、わたしはとってもふてくされた気分だった。そりゃあ、ここはこの国で2番目に大きい街で、増改築を繰り返してできた歴史を持つから、路地が入り組んでいるのは知っている。大通りは広くてわかりやすいけれど、迷路のような路地に入って帰ってこなかった旅人もいるとかいないとか。
それでも、この町で16年も生きてきたはずなんだけどなあ。わたしは薄暗く細い道の端っこ、石畳の上に腰を下ろして、深いため息をついた。
立ち上がる気力もなくなって、わたしはしばらくじっとそこに座っていた。すると、陽がだんだんと傾いて、薄暗い路地裏にさらに影が迫ってきた。わたしは流石にまずいと思って立ち上がる。治安がいいほうとはいえ、遅くなると危ない。
わたしは帰ろうと思って、迷っていたことを思い出した。右に行くか、左に行くか。わたしはイチかバチか、左に行こうと歩き出した。その瞬間、誰かがわたしの手を掴んだ。
「そっちは行き止まりだよ。」
突然のことにびっくりして振り返ると、金髪碧眼のとんでもない美形がそこにいた。思わず目を細めたわたしとは正反対に、その青年は目を真ん丸にしてこちらを見ている。
「驚いた、クラスメイトがこんなところにいるなんて。」
ああ、そうなのだ。
わたしは気づいていないふりをしたけれど、とっくにばれていたらしい。この目がつぶれるほど整った顔をした男は、わたしのクラスメイトで学校内の超有名人、ルーカス・ミレー。その輝かしい容姿も相まって、またの名を王子という。
「……こんにちは。」
実を言うと、わたしはこの男が少し苦手だ。たぶんわたしと同じ気持ちの人は、けっこういると思う。だって、この人は完璧すぎるから。容姿端麗で、勉強も学校で一番の成績。性格もいい。わたしみたいな平々凡々の人間からすれば、母親のおなかのなかにいるときから出来が違う、雲の上にいるみたいな存在だ。
いっそ突き抜けてしまえば、友達のサラみたいに素直にあこがれることができるのだろう。けれど、わたしはそこまで精神的におとなにはなれなくて、彼の才能に嫉妬して、思うのだ。世知辛いってこういうことかなあ、と。
「どうかしたの?もう暗くなるし、危ないよ。」
ルーカスはにこやかに、わたしに尋ねた。わたしのなけなしのプライドが邪魔して、迷子です、だなんて言いづらい。わたしの煮え切らない態度を見かねたのか、彼は掴んでいたままのわたしの手をくいっと引っ張って、言った。
「大通りまで送るよ。」
そうして慣れたようにわたしの前をすたすた歩き始めた。予想外の行動にとっさに反応できず、わたしの足は勝手に動いて、ルーカスについていってしまう。彼の後ろ姿を見上げながら、こういうところなんだよな、と思う。こういうのをさらっとできてしまうから、王子だの呼ばれるし、わたしは苦手意識を持ってしまうのだ。
「ルーカス……くんは、どうしてあそこにいたの。」
「あそこ、家への近道なんだ。」
「行き止まりだって言っていたのに?」
あのとき、左に行こうとしたわたしを背後から止めたルーカスは、確実にあの道の奥に向かっていた。普通あんな狭い道に玄関は作らないし、勝手口にしても勝手が悪すぎる。わたしは不思議に思って尋ねると、繋いだ手が少し震えた。
「鋭いね、シャーロットさん。」
「何か違う用事があったってこと?」
「うーん、まあね。」
ルーカスは曖昧なことを言って、それからしばらく黙ったままだった。わたしは清廉潔白に思えるルーカスも、言葉を濁したり嘘をつくのだということを知って、少しだけどこかが和らぐのを感じた。
わたしはもうちょっと会話を続けてみようという気になった。でも、聞いてほしくなさそうだった、先ほどまでの話を続ける勇気はない。なにかないだろうかと探して、わたしは石畳の上を10歩くらい進んでようやく見つけた。
「ルーカスくんは、やっぱり卒業したら帝都に行くの?」
あと1年半もすれば、わたしたちは学校を卒業する。ほとんどは家業を継ぐか、別の仕事に就いて働き始めるが、まれに帝都にある大学校に進学するものもいる。
帝都はこの国の皇帝陛下もおわす一番の大都市で、こことは比べ物にならないくらいの人が住んでいる。進学を考えたことのないわたしには未知の領域だが、大学校の試験は相当に難しいらしく、毎年の突破率は1割を切るという。どれくらいの人が受けるのか知らないので、分母が多いだけかもしれないが。
「うん、ずっと夢だったんだ。」
「そうなんだ、すごく難しいって聞くけど、ルーカスくんなら楽に入っちゃうんだろうな。」
「それはどうかな。」
ルーカスは首をかしげたけれど、わたしには謙遜にしか見えなくて、きっとすんなり合格してしまうのだろうと思った。それとも、やはり天才にはそれなりの苦悩があって、凡人には理解できないような生きづらさみたいなものも感じているのだろうか。神は人に二物を与えるけれど、苦しみは等しく与えるのかもしれない。
「頑張ってね。……ほら、うちのクラスから合格者が出たら、わたしたちも鼻が高いし。」
頑張れ、なんて応援するには無責任な言葉に今は聞こえて、言い訳のようにつけ加えながら、わたしはそっと目をそらした。
「ありがとう。」
わたしの薄っぺらいセリフにも、ルーカスは怒ったりしなかった。それどころか、笑ってわたしに礼を言った。わたしはなんだか悪いことをしたかのような、居心地の悪さを感じた。そうして視線を彷徨わせると、いつの間にか大通りの直前にいることに気づいた。
「ほら、着いた。」
ルーカスは立ち止まって、わたしを振り返った。そして、ゆっくりとわたしの手を引っ張って、わたしを大通りに導く。わたしは、ルーカスがわたしだけをどこかに押し出そうとしているみたいに思えて、身体をこわばらせた。それを知ってか知らずか、彼は微笑みをたたえたままに、わたしのことを見て目を細めた。
ルーカスに背を押されて、大通りに一歩踏み出した途端、ぶわりと喧騒に包まれた。夕焼けが夜へと変わりだしたこの時間でも、大通りのマーケットは賑わっている。わたしが振り返ると、ルーカスは陽の当たらない路地の影に佇んだままで、こちらに出てこようとはしなかった。
「じゃあ、気をつけて家まで帰って。」
ルーカスが右手を振った。彼の声はとくべつ大きくはなかったのに、ざわめきに飲まれることなく、とてもクリアにわたしまで届いた。わたしは声を張り上げた。
「……ルーカスくんは?」
「俺もうちに帰るよ。」
なぜか、ルーカスは寂しそうに笑った。
さっきまでの騒々しさが嘘のように遠ざかって、わたしたちを静寂が包んだようだった。わたしに背を向けて、もと来た道を戻っていくルーカスを唖然としながら見つめることしかできない。彼の背中が闇に呑まれて見えなくなったころ、ようやく金縛りが解けたように体のこわばりが解けて、それと同時に人のざわめきも戻ってきた。
「どういうことなんだろう。」
会った場所からここまで、住宅地に通じるような道はなかったはずだけれど。わたしが見逃したものでもあったのかもしれない。そういえば、どこに住んでいるのかも、両親が何をしているのかも、噂で聞いたことはなかった気がする。意外に謎の多い男だ、とわたしは思いつつ、人ごみに流されるように、家へ向かって歩き出した。
「ただいま。」
今日はずいぶんと遅くなってしまったから、わたしは足早にカーテンを閉めて、灯りをつけた。蝋燭より何倍も明るいランプは、十数年前に開発されたというガスランプだ。煤を拭き取ったりと、掃除の手間は少し増えたけれど、つまみ一つで明かりをつけられるのはとても便利。大通りには卓用より大きなガス灯が設置されはじめている。夜でも安心して出歩けるようになる日も近いかもしれない。
わたしはブナのチェストの上にある、写真立ての横にランプを置いた。
「ただいま、父さん、母さん。」
ひとつは、二人の若い男女が写った白黒写真。わたしが生まれる前の両親だ。
そしてもうひとつは、それより年を取った二人と、母さんに抱きかかえられた幼いころのわたしの写真。
母さんは、この写真を撮ったすぐ後に、流行り病で亡くなった。父さんも、わたしが学校に入学した頃、突然息を引き取った。わたしは父さんが母さんに会いに行ったんだと、本気で思っている。父さんは母さんをとてもあいしていたし、母さんが亡くなった後はいつもどこか寂しそうだった。わたしはまだ肌寒い春の日、父さんのただ眠ったような顔を見ても、あまり驚かなかった。父さんはわたしの入学式を見て、安心したように笑っていたから。
わたしは朝ごはんの残りのスープを温めて、チキンのバターソテーと一緒に晩ごはんにした。お風呂を沸かして、湯船にゆっくりつかると、ようやく一日が終わる、そう思える。
わたしは浴槽のふちに頭を預けながら、今日は長い一日だったな、とルーカスのことを思い浮かべた。そして、はたと気づく。
「お礼を言うのを忘れた……。」
別れ際、ルーカスの雰囲気に圧倒されて、ありがとうのひとことも言っていない。不運の連続にささくれ立っていた心も、ごはんとお風呂でだいぶ和らいできた今、わたしは猛烈に反省し始めていた。
ただのクラスメイトにしては、言いたくなさそうなことを聞いちゃったかも。ていうか、会ったときの態度、さすがに失礼すぎた。道案内をしてもらったのにお礼もないなんて、いくら苦手意識を持っていたって人間としてどうかと思う。
「明日、ちゃんと謝ろう。」
菓子折りでも持って、お礼を言おう。
わたしは鼻先まで湯につかって、ぽこぽこ気泡をつくりながら決心した。
「いない……。」
わたしはルーカスを探して校内を彷徨っていた。人目のあるところでは話しかけづらくて、放課後にさっと謝罪とお礼とともにお菓子を渡そうと思っていた。しかし、当の本人がいない。仕方ないので、ルーカスの動向に(わたしよりは)詳しいサラに尋ねると、いつも授業が終わってすぐに姿が見えなくなるという。尋ねた理由を根掘り葉掘り聞き出される前に、わたしはまたねとサラに手を振って学校を出た。
さて、困った。わたしは渡すつもりだったお菓子を鞄にしまいながら、当てもなく歩き出した。ルーカスのいそうな場所なんて、わかるはずもない。けれど、明日まで引き延ばすのも気が引ける。悶々と歩いていると、気づけば昨日、ルーカスと別れた大通りと路地の境にいた。
わたしは一瞬躊躇して、それから空がまだ明るいのを確認してから路地に入った。昨日ルーカスと一緒に通った道順なら覚えている。それを逆にたどれば、あの場所まで戻れるはずだ。そこにいなければ、今日はあきらめて、明日渡そう。周りに冷やかされるのを覚悟して。
しばらく進むと、昨日わたしが座り込んでいた場所に出た。そこにはルーカスの姿は当然なく、わたしはこくりとつばを飲み込み、さらに奥へと歩みを進めた。
まだ真昼なのに薄暗く、わたしの足取りは無意識に早くなった。どれくらい歩いたのか、体感ではものすごく長い時間が過ぎて、わたしはようやく足を止めた。昨日、ルーカスが言った通り、そこは行き止まりになっていた。どこかの家のものだろうか、越えられそうにない塀で三方を囲まれている。見上げたレンガの壁から視線を下げると、地べたに座り込んだルーカスがいた。片膝を立てて、それを支えに分厚い本を読んでいるらしい。前髪が伏せられた目元に影を落としている。路地裏にいる彼は、やはり教室にいるときとは違って見えた。
「あの、ルーカスくん。」
ためらいながら声をかけると、ルーカスは顔を上げた。すると、さっきまで彼を包んでいた重く尖った空気がいくらか柔らかくなった気がした。こちらを見てにこりと微笑む彼は、どちらかというと学校にいるときに近い。
「こんな奥まで来るなんて、今日はどうしたの?」
「昨日はお礼も言わずに別れてしまったから。あと、ちょっと嫌味な態度だったかもと思って、お詫び。」
わたしは鞄からお菓子の包みを取り出して、ルーカスに差し出した。
「ごめんなさい、助けてくれてありがとう。」
「そのために、わざわざこんなところまで?」
「ええ、まあ。いると確信はしてなかったけれど。」
「君、けっこう変わった人なんだね。ありがたくいただくよ。」
ルーカスは包みを受け取って、開けていい、とわたしをうかがった。うなずいて返すと、彼はするりと紐をほどいて、中をのぞき込む。わたしのところまで、バターの香りが漂ってきた。
「甘いものが苦手な人でも食べられそうなものを選んだつもりだけど……大丈夫?」
「うん、たいていのものはおいしく食べられるたちだから。ありがとう。」
思った以上に嬉しそうな笑顔を見て、甘いものが好きなのかと思ったとき、ぐう、と大きな音が鳴った。わたしではない。間違いなければ、目の前のルーカスから聞こえてきたような。
「……おなか、空いてるの?」
「そう、なんだ。恥ずかしいんだけど。」
ルーカスは言葉の通り、恥ずかしそうにうつむいてしまった。わたしは思わず手を差し出して、言ってしまった。
「うちに来る?おなかが空いているなら、お菓子じゃなくてちゃんとしたご飯を食べなきゃ。」
よく考えたわけでもなく、とっさに言った後はわたしもルーカスもびっくりした顔をしていた。お互いの間抜け顔に同時にぷっと噴き出して、おなかを抱えて笑った。笑いの波も収まったころ、わたしがもう一度手を差し出すと、ルーカスは少し迷って、でもわたしの手を取り、しっかりと握った。
「お言葉に甘えるよ。」
それが、わたしとルーカスの始まりだった。
「昔、あそこにうちがあったんだ。」
家に帰る途中で、ルーカスがぽつりと言った。
わたしは黙ったまま、ただ言葉を聞いていた。
「よくある話だけど、俺の両親は6年前に死んだ。それまでは家族3人であの場所にあった家に住んでいた。だけど、空き家になった途端に区画整理でなくなって、ただの行き止まりになってしまった。」
親を亡くした子どもというのは、そう珍しいものでもなかった。一度伝染病でも流行れば、子どもを亡くした親と、親を亡くした子どもがあふれかえってしまう。帰るべき場所がただの行き止まりに、あんな寂しい場所になってしまうなんて、どんな心地がするだろう。わたしは想像して胸が苦しくなった。
「今は遠縁の親戚の家に間借りしているんだ。仲が悪いわけじゃないけど、うまくいっているとも言い難くて。あの人たちにとって、所詮俺は他人の子どもだし、もう可愛いとか言う歳でもないしね。息が詰まると、あそこに行くんだ。あの静けさが落ち着くから。」
「食べるものにも困るくらいなの?」
「毎回ご馳走してもらうのもなんか気まずくて。両親もそれなりの額は残してくれているけど、帝都に行けば、学費以外にもいろいろと入用だろう?その時までなるべく手を付けないようにしてる。それで、女の子にたかるなんて、本末転倒で情けないけど。」
自虐的に笑うルーカスを横目で見ながら、わたしは必死に言葉を探した。
「笑われるようなことでは、ないと思う。うまく言えないけれど、わたしはあなたを、その、未来のことをちゃんと考えて、頑張って……努力している人だと思う。だから、それを自分で認めてあげてもいいんじゃない?」
ルーカスが黙ってしまったので、わたしも何も言わずに歩き続けた。
しばらくして、昨日わたしたちが別れたT字路に出た。不意につないだ手に力が込められて、彼はありがとう、とだけ言った。わたしは気恥ずかしさを誤魔化すように握り返した。
「ほら、うちに帰りましょう。」
わたしは先に大通りに出てから、ルーカスの手を引っ張った。噴水のように沸き上がった喧騒が、今度はわたしたち二人を包んだ。
1、2作目ともども、評価、感想、ブックマーク、本当にありがとうございます。これからも面白いものをお届けできるよう、精進します。