6話:プラザ合意とルーブル合意2
1985年、ニューヨークのプラザホテルでG5「日・米・英・仏・西独」先進5ヵ国蔵相・中央銀行総裁会議」が開かれた。会議の内容は、ドル高を是正するため、日本・アメリカ・ドイツの通貨当局がドル売りの協調介入し円高ドル安にしようとする事で合意した。プラザ合意後の影響は大きく、急激な円高ドル安が進行し、1ドル=240円台だった為替レートは、1年後には 1ドル=120円台まで円高となった。円高を利用した海外直接投資が増大し、資本収支は大幅な赤字となった。 この時期、日本企業によるアメリカの企業や不動産の買収が盛んに行われ、日本の直接投資は1999年までは巨額であった。
急激な円高は日本企業を直撃し、円高によって日本製品の国際競争力は低下したので、輸出主導型で成長してきた日本経済は1986年に円高不況に陥った。企業の中には円高の影響を回避するために、生産拠点を労働力の安い東アジアに移したり、貿易摩擦を回避するために現地生産を進めた。外国で生産した工業製品の逆輸入やOEM生産「相手先ブランドによる供給 」が増加した。 これにより、国内では製造業が衰弱化する産業の空洞化が起きた。エネルギー・原材料に代わり、製品輸入が増大した。 特に、アジアNIESからの安価な製品輸入の増大により、日本の貿易構造は大きな変動期を迎えた。
日本政府は中曽根首相の私的諮問機関の報告書・1986年の前川レポートで提唱された内需拡大の方針に沿って、公共投資の拡大、輸入の拡大、貿易黒字の縮小をめざす内需主導型経済への転換を進めた。しかし、この政策が効きすぎて、ドル安が過度に進行して、物価が急騰し始めた。そのため過度のドル安是正のために、フランスのルーブルでG7「 日・米・英・仏・西独・イタリア・カナダ」先進7ヵ国蔵相・中央銀行総裁会議」が開かれ、G7諸国は貿易黒字国の協調利下げと、アメリカの利上げを決めドル安を止めようと合意した。
日銀は金融緩和政策に踏みきり、公定歩合を下げ、1987年には過去最低の2.5%とした。こうして為替相場が安定し、この低金利政策「日銀は公定歩合を7回にわたって引き下げ 」によって生じた余剰資金が株式や土地投機へと向かい、内需主導型の空前のバブル「1986年~1991年 」が発生した。1987年から景気は再び上向きに転じ、平成景気がスタートした。しかし結果的には、ドイツが協調利下げから抜けたことにより、ルーブル合意も失敗に終わった。そして日本はバブルへまっしぐらに突き進むことになった。