5話:プラザ合意とルーブル合意1
そして1976年、沢村貞子60歳の時に、プロデューサー、ジョンソンに言って、離婚はしないが、日本で暮らしたいと伝えると、好きにすると良いと言ってくれた。そして1978年に1ドル185円を切った時、昔の貯金通帳を三菱、三井銀行、住友銀行、郵便局に行き、解約手続きを取り、沢村貞子の三菱銀行に全部送金させると、約3千万円となった。その後1980年に金20kgを1200万円で売り、総合計4200万円を手にした。日本に居を構えていた沢村広尾の橫浜の大きな外人住宅の1部屋を借りて、沢村貞江も一緒に住むようになり、お金の管理も全部任せるようになり、彼のプライベートバンクに全額を入れた。
沢村広尾は、オックスフォード時代に仲良くなった、日本の旧財閥のお嬢様の麻生由美さんと一緒に暮らし、2人の男女の子供を設けた。そして沢村広尾は、がっちりとした身体で、足が速いので、YCACのラグビーチームにスカウトされて、特別会員としてメンバー入りした。その後、沢村貞江は、天気の良い日は、歩いて行ける三渓園に行き、散歩するのが日課となり、本牧の間門に住む、日本の有名なプロデューサーや、中華街の有名シェフと仲良くなり、食事やパーティーにも誘われ、YCACの特別会員にも推薦されて入会した。
遠くに出かけるときは、指定したハイヤー会社の運転手さんに連れて行ってもらい、優雅な生活を続けた。1978年4月には、沢村家の長男の沢村良一が聖光学院中学に入学し、翌年4月には、長女の沢村百合は、フェリス女学院中等部に入学した。その後、沢村良一は、聖光学園高校でも優秀な成績で、一橋大学経済学部に合格して、将来は、父の仕事を継ぎたいと考えていた。一方、長女、沢村百合も、猛勉強の末、三田の慶応大学経済学部に合格して、通い始めた。将来はアメリカで新しい商売をしたいと意気込んでいた。
1980年代になると、日本は対米輸出の急増により、世界最大の貿易黒字国となった。 経営の合理化や産業構造の転換を終えた日本は国際競争力を強め、欧米諸国に集中豪雨的と呼ばれる激しい輸出をして、貿易摩擦が深刻化した。1981年にアメリカの大統領に就任したレーガン大統領はアメリカの経済力と軍事力の強化を図ろうとした。それまでのケインズ政策とちがって 「 小さな政府 」 を主張したレーガンは、政府支出の抑制、大幅な減税、規制緩和などのレーガノミックスと呼ばれる政策を行った。しかし、一方で、軍事支出の激増によって財政赤字は拡大し、アメリカは高金利政策をとったのでドル高になりアメリカの輸出競争力を弱めた。1980年代のアメリカは財政赤字と経常収支の赤字が同時に進行する 「 双子の赤字 」 に悩まされ、アメリカ国内では保護主義が台頭し始めた。