4話:日本の戦後・復興
1963年に、東京でのオリンピック開催が決まり、東京、日本全体の復興の足音が聞こえてきた。そして1964年の東京オリンピックを契機に、東海道新幹線開通や日本の特需が起こりの高度成長期となった。東京や大都会では、建設ラッシュがはじまり、すさまじい勢いで大きなビルや工場ができてきた。沢村家には、1964年5月4日に長男の沢村良一が誕生した。続いて1966年9月19日に長女の沢村百合が誕生した。
そして、沢村祐未は専業主婦として家事を中心に仕事をして、空いた時間で、旦那さんの沢村広尾の日本語と英語の相互翻訳の仕事を手伝った。そして1968年には、国民総生産・GDPが世界2位の西ドイツを抜いて、アメリカに続き、日本が世界第2位となった。1970年の大阪万博で、更に成長スピードが上がった。その後の新幹線開通で更にそのピッチが上がり、1972年3月15日には、東京から大阪までの新幹線が山陽新幹線ができ、大阪から博多まで延びた。
1971年8月15日にニクソン・ショック別名ドル・ショックが発表された。中身は、米ドル紙幣と金との兌換一時停止を宣言し、ブレトン・ウッズ体制の終結を告げた新しい経済政策の事。これにより、円は切り上げられてドルが切り下がりアメリカの輸出がしやすくなった。ニクソン大統領は、1971年の金とドル交換停止の理由ひとつは日本人につけをまわすためであり、1969年の沖縄返還交渉で、佐藤首相が約束した日米繊維問題での誠意ある行動、すなわち繊維製品の輸出を包括規制する約束を実行しなかったことで日本の首相にわざと恥をかかせたとした発言をしている。
この1971年夏頃にニクソン大統領が日本に対して相当怒っていたことは当時の駐米日本大使館審議官の岡崎久彦も読売新聞紙上でも述べていた。前月の中国訪問の電撃発表ショックとあわせて、外交と経済の分野で、それまでには無かった新しい基軸でアメリカは動くことを内外に示すことになった。アメリカがソ連と中国との緊張緩和を図ろうとしたのは欧州やアジアの双方で封じ込め政策を遂行していくための費用をもはや負担しきれないことを認めたからである。ニクソンドクトリン、沖縄返還、戦略兵器削減、ベトナム戦争停止、輸入制限、新経済政策などは、いずれもアメリカが相対的衰退の時代に入り、アジアでの軍事的関与を削減するに際して「秩序ある移行」を確実にするためであった。1972年6月11日の日本列島改造論が田中角栄によって書かれ。話題を呼んでバブルを一層あおる結果となり、地価高騰に拍車がかかった。
つまり、こんな前から米国の衰退がはじまったと考えると、感慨深いものがある。その後1972年から円ドルレートが360円が1972年に300円、1973年には260円まで急上昇した。沢村貞子も57歳になり、老後は、日本で過ごしたいと考えるようになった。息子の沢村広尾は、スイスのプライベートバンクで実力を発揮して、日本にもしばしば来て、富裕層に対しての特別な待遇を与える準備を始めていた。そして1975年に、日本で初のプラベートバンク事業を密かに開始した。日本にある海外資本の金融機関とタイアップして、日本人富裕層にファンド、投資信託、外国国債、社債、ヘッジファンドを販売する業務だった。