3話:沢村絹子の遺産
そして、部屋の中に。このバッグが残っていたというわけさと教えてくれた。その温泉宿に泊まって、バッグの中身を開けてみると、手紙が入っていて、この手紙を開けることには、多分、私は、あなたを見ることができないでしょうという文章から始まり、彼女の貯金通帳と郵便貯金通帳、合計5冊と銀行の貸金庫の鍵、銀座の金業者の預かり証とダイヤモンド、サファイヤなど宝石類が6点入っていた。
その他、彼女の実印と戸籍謄本が入っていて、そこには、沢村絹子と娘、沢村貞江と、はっきり書いてあった。これを見ると、涙がこみ上げて、ボロボロと泣き始め、暗くて冷たい、炭焼き小屋で1人ぼっちで過ごしていた、母、沢村絹子の姿が頭に浮かび、最後には号泣してしまった。その声を聞いて、御主人が、来て、わかるよ、本当に良い人だったと思い出すように言った。その他、数個のハンコがあり、実印も入っていた。翌日、宿の御主人にお礼を言って、心付けを渡して沢村貞江は、宿を後にして、東京へ戻った。
そして、知り合いの弁護士の所へ行き、母の残したバッグを見せると金2kgと郵便局の定期貯金通帳の合計が98万円だった。弁護士さんが、これは今、出してはいけない、財産税で富裕層の資産は、国にことごとく没取されたと教えてくれた。日本が昔の様に世界で認められる国になってから、現金に換えると良いと言い、今は動かない方が良いと言われた。そして、また、米国に渡り、そのバッグを大事に日本の銀行の貸し金庫にしまって保存した。やがて1951年9月8日にサンフランシスコ講和条約が結ばれた。内容は、第2次世界大戦の戦争状態を終結し、国交を回復するため日本とアメリカ、イギリスなど 48ヵ国との間に締結された条約。
1952年4月28日に発効した。領土処理については,朝鮮の独立承認,台湾,澎湖諸島,千島列島,南樺太,新南群島に対する日本の一切の権利,権原および請求権の放棄,南太平洋旧委任統治諸島をアメリカを単独施政権者とする信託統治のもとにおく旨の協定の承認,琉球,小笠原諸島を信託統治地域とすることの予定およびアメリカによる施政権行使ならびに日本による残存「潜在」 主権の保持などを規定している。賠償については,日本の債務履行能力に限界があることの是認,在外日本資産の差押え,留置,精算あるいは役務賠償の原則の確定,日本の相手締約国に対する請求権の一切の放棄を規定した 。
一方、沢村貞江は、たまに映画の端役として映画に出演して、日本とニュージーランド、オーストラリアと米国を行きする生活をしていた。その後1951年3月に息子の沢村広尾は英国の寄宿舎のある私立の中学校に留学し、一生懸命勉強し、高校を卒業して1957年に、オックスフォード大学経済学部に合格し1961年に卒業した。1961年、卒業後は、スイスのプライベートバンクに就職した。その頃、沢村貞江も45歳になっても、美貌は衰えず、知名度も高く、亭主の敏腕プロデューサー・ジョンソンの力で、毎年、数本のハリウッド映画に出演していた。1962年6月12日に、同じオックスフォード大学に留学していた同じ年の沢村「旧姓麻生」祐未と言う、財閥の娘さんと仲良くなり結婚した。