20話:悪夢の東日本大震災
そして中央高速に乗り、最初に諏訪湖を左に見て、走り、上り坂を登り、中央高速最高地点から下り坂になり、しばらくすると、韮崎へ、そこから甲府盆地には入り、盆地を抜けると、桃で有名な御坂、ワインで有名な勝沼を抜けた。その後、笹子トンネルの長いトンネルを抜け、15時半に、談合坂サービスエリアで、トイレ休憩とお茶して、ゆっくりして、運転を替た。そして八王子インターチェンジで降りて16号線を南下し18時過ぎに本牧の家に帰ってきた。数日後の2010年10月に200万豪ドルが年8%、10年で80%の金利が付き、360万豪ドルになり、そのまま普通預金に預け、豪ドル高になったら日本円に替えようと考えた。
その後、12月24日、恒例のクリスマスパーティを開き、淀川夫妻が魚の刺身をもって参加してくれた。その時、沢村広尾がインフルエンザは大丈夫でしたかと聞くと、いえ、かかりましたと言い、最初、奥さんがかかり次に旦那がかかったが、数日で、峠を越して治癒したと教えてくれた。その後、中華料理、ステーキ、魚の刺身を食べて、今年あった話などをして、酒が回り、調子が良くなると淀川さんの演歌から始まり女性の歌声、多くの洋楽、フォークと多くの歌が飛び出した。孫達も覚えた童謡を可愛く歌ってくれ、みんなに喜ばれた。そして、楽しいお酒を飲んで、今年も泊まって、翌日の朝、来年も宜しくと言って、帰って行った。
やがて、2011年があけた。2011年も、年初から、インフルエンザに注意して、余り外出はせずに、家で温まって過ごした。沢村広尾も70歳代に入っても、日頃から家の近くの三渓園へ行き、散歩する日が多く、元気で過ごしていた。やがて、寒さが和らぐ3月を迎えた。しかし2011年3月11日14時47分に突如、揺れ始め、直ぐに収まるかと思いきや、ますます揺れがひどく、家から外に出てくる人の姿が見えるほどの大きな揺れに見舞われた。非常用ラジオを聞くと、東北の太平洋で、過去、世界最大のモーメントマグニチュード 9.0と言う、とてつもない巨大地震で、東北地方では壊滅的な被害と、その後の大津波で大変なことになっている
と放送していた。
しばらくしてテレビが映り、大きな津波と流されてくる家や人の姿が見えて、鳥肌が立つほどの恐ろしさを感じた。家の女達は、泣き出す者もいて、落ち着くようになだめた。家の近くの事務所で仕事していた長男の沢村良一も秘書さんとともに、実家に帰ってきた。実家の食器棚は、既に自動的に
内ロックがかかるようになっていて、食器が散乱することはなく、本棚の本が落ちてきた程度で済んだ。その夜は、沢村良一の秘書さんも、沢村家に泊まってもらい、夕食を取って、2つの風呂があるので、入ってもらった。孫達も、近くの幼稚園に迎えに行き、連れて帰ってきた。
その晩、テレビを見て被害の大きさに、みな口数も少なく眠れぬ夜を過ごした。それでも0時までには、床について休んだ。翌朝になると、福島第一原子力発電所の冷却ポンプの電源喪失で、原子炉が溶け落ち、建屋が爆発するシーンがニュースで移り、憂鬱な気分になった。その後、日本中の原子力発電所が運転停止となり、節電のため、深夜の放送が取りやめになり、各地で、計画停電という形で節電をした。2011年は、東日本大震災で年末まで、冴えない気分で1年を過ごすことになった。こんな気分では、クリスマスパーティーもやる気分ではなく、今年は取りやめた。やがて、最悪の2011年が過ぎて、2012年を迎えた。