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2話:隠遁生活と娘の進学

 その後も、隠遁生活を続け、1930年、12歳には、娘を橫浜のフェリス女学院中等部に入学させ、橫浜の家と鬼怒川を行き来する生活をしていた。1934年、フェリス女学園高校時代に、沢村貞江が、登校途中で、松竹の関係者にスカウトされて、松竹のニューフェイスとして映画に出る事となった。これには母の沢村絹子も喜んでいた。数本の映画で有名になった1936年に米国から来日したスティーブ監督が、沢村貞江を見て一目惚れしロサンゼルスへ連れて行き、将来、ハリウッドの女優として売り出そうと考えた。


 1936年冬にに沢村絹子をハリウッドデビューし、その翌年、3本の映画に出演した。その当時1937年、奥さんのサマンサと離婚調停中で1938年3月、離婚が成立した。すると直ぐ、スティーブ監督は、沢村貞江を自分の奥さんとして結婚式を挙げた。その後、2本の映画に主演女優として出演させ、米国の永住権を与えた。やがて、1938年9月に沢村貞江は男の身ごもり、1939年3月10日出産。沢村広尾と名付けた。沢村広尾は、よく食べる子で、太っていた。それを見て、小さい頃からトレーナーをつけて、筋力トレーニング、スポーツをやらせて、運動神経の良さを発揮した。


 しかし、沢村貞江が妊娠中に、スティーブ監督は、新しい、グラマーなケイティと恋仲になり沢村貞江の家に戻らなくなった。困った沢村貞江は知り合いの日系人俳優の紹介で敏腕弁護士ジョーンズと知り合い、スティーブ監督との離婚訴訟を依頼して、勝訴して、慰謝料として株券を含む3百万ドルの慰謝料と、息子の養育料22年分、4万千ドルを勝ち取り、弁護士費用を10万ドルを支払った。同じ年に同じ年齢のプロデューサー、ジョンソンと再婚した。やがて、日米開戦の時も沢村貞江は、日系人社会と関係を持っておらず通称サワーとして名前が知られ、米国人として扱われた。


 1945年9月に終戦となった。その頃、沢村絹子は52歳で、栄養失調から結核にかかり、1946年3月に、人知れず、結核にかかり、亡くなった。その情報は、娘の沢村貞江には知らされてなくて、何も知らなかった。母の消息が知れず、終戦を迎えて、母の沢村絹子を心配して、以前、数回訪れた鬼怒川の宿を訪ねて見ようと考え、1947年10月に混んでいる列車に乗って、鬼怒川へ着き、鬼怒川の駅前のタクシー会社に掛け合い、鬼怒川温泉まで言ってもらうことにして、覚えのある所を走ってもらい、母が住んでいたと思われる宿を訪ねるた。


 すると、宿の主人が、驚いた様に。絹子さんの娘さんじゃねーかと話しかけて、大事なものを預かっていると言い、何冊もの書類の入ったバッグを持って来て渡した。そして、あなたの、お母さんは、約2年前に体調を崩し血を吐いた。多分、結核だろうと考えて里から離れた住み焼き小屋に布団と大きなヤカンをもって、連れて行った。そして毎日のように食べ物を持って行ったが1945年の11月の頃から食事が残るようになり1946年には食べても胃が受けつけず吐いてしまうといい、そのうち声をかけても小さな声がしていたのが1946年3月に声がしなくなり村の医者と看護婦を連れて行ったら亡くなっていて村のお寺に弔ってもらったと教えてくれた。

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