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1話:花魁の失敗

 沢村絹子1893年生、別名、絹千代太夫と呼ばれ吉原の遊郭の花魁の中でも最高位の「呼出し」まで上り詰めた絶世の美女だった。第一次世界大戦の影響により、その参戦国でありながら本土が戦争の圏外にあった日本の商品輸出が急増したため発生した空前の好景気、大戦景気、または、大正バブルと呼ばれる日本の景気の良い時代だった。そんな時に船成金が登場した。船成金とは、第一次世界大戦中、民間の船舶は軍用として徴発されたため大戦の長期化により船舶不足が深刻化した。これにより海上運賃と船価が暴騰し船主や商船会社は巨利をあげ船成金を生んだ。老朽化した船でさえ引く手あまたの状態であり、大戦前1トンあたり3円ほどであった船舶のチャーター料金は1917年には40円以上に跳ね上がった。


 船の建造価格もトンあたり50円くらいから最高1000円近くまで上昇した。ちなみに、日本郵船会社は、1914年の純益484万円が1918年には8631万円に達し、同年下半期には11割もの配当をした。11割配当というのは、1株1000円の株の3月と9月の決算時に、年4%の高配当株の場合3月と9月に2%ずつ、年間4%となる。下期だけで110%したとすると、1000円の株で1100円の配当を出したことになり、もし、1万株を1000万円で保有しているとしたら1100万円の配当金が出たと言うことになる。仮に上半期も同じだけ配当したと仮定すると年間2200万円の配当したことになり、にわかに、想像もできないバブル状態だった。


 その船成金の筆頭といわれた茨城県出身で1880年生まれの内田信也が沢村絹子の御ひいき筋だった。わかりやすく言えば、パトロンだった。そのため着物も超一流で艶やかで、それに負けないぐらいの絶世の美女だった。もちろん、お金は使い放題であったことは言うまでもない。内田は1915年から20年の絶頂期、毎週のように、沢村絹子を指名して浮名を流した。しかし1918年5月に沢村絹子が体調を崩し医者にかかると子供を宿したことがわかり既に妊娠5ヶ月で手の施しようがなく1918年11月20日に、密かに橫浜の産婦人科病院で長女、沢村貞江を産んで、自分の付き人の女性に手伝わせて子供に乳を与えて育てた。


 そして1919年10月まで所用と言うことで吉原遊郭から姿を消した。この情報は、もちろん、内田信也に走らされており多額の手切れ金を渡し自分の子供である事を伏せるように言われた。1919年10月に、花魁として再起したものの以前の艶っぽさ、色っぽさ、美貌は衰えて、かなり年をとったように見え身体も肉付きが良くなり、とても花魁として、ひいき筋になってくれる人がいなくなり1919年12月に花魁の看板を剥ぎ取られ吉原遊郭に姿を見せなくなった。


 その後、人目を避けるように熱海に温泉に住み1人娘の沢村貞江を育てていたが新聞記者に見つかり栃木県の鬼怒川温泉の山深い山荘に逃げて息を潜めるようにして生活した。1923年9月1日昼前の関東大震災の時、鬼怒川でも大きな揺れを感じたが、大きな被害はなく、宿も無事だったが、東京、橫浜、熱海は、大きな被害で、東京、橫浜は火の海になり、多くの人命が失われたと知らされた。この時、沢村は、熱海から移り住んだのを神のご加護だと考えて、キリストに感謝した。

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