ディゴ 寂しがりや、ちょっと乱暴なアライグマ
東の森の、外れの方。
木を引っ掻き、そこに体当たりをし、噛み付いている動物がいました。
「——!」
最早声にならない声を出し、息が切れているにもかかわらず、何度も何度も木に向かっていきます。
どしんっ! と木に体当たりを一撃喰らわせた後、その動物——アライグマはようやく攻撃をやめました。息は切れていて、ぜえぜえ、はあはあ、といっています。肩で呼吸をし、息が落ち着くまで彼は待ちました。
「——はあっ。こんなんじゃダメだ。ダメなんだ」
アライグマ——ディゴはボソリと呟きます。
「それにしても……さっき会った人間は、変なやつだったな。怒ることも泣くこともなく、仕返しするわけでもなく、笑ってんだもんな。けっ、調子が狂っちまう」
ディゴは、少し前に森の中で出会った人間のことを思い出しました。
あの人間は、何もかもを分かっているかのようだった。
初めてだった。
俺に罪を認める言葉をかけてきたのは……いや、でも、やっぱり俺は……!
ディゴは嫌でも思い出しました。
まだこの森に住んでいなかった頃。
全てが変わってしまった日のことを。
あの頃、俺は弱虫だった。
ある日、突然巣にもくもくと煙が入ってきた。
あれは、熱かった。
みんなは逃げろっていって、煙が入ってくる出入り口の反対にある出入り口から逃げた。
俺も最初はそうしようとした。怖かったから。
でも、その出入り口から入ってくる光を見たとき、おかしいって思った。
だって俺が住んでいた巣には、出入り口は一つしかなかったんだ。
なのに突然現れた二つ目の出入り口。
それに気づいたら、突然、外が怖くなった。
俺はだから巣に隠れ続けた。
——気付いたら、煙は無くなっていた。
そして、仲間の笑い声が響いていた森には、人間の笑い声が響いていた。
これで全部だな。
きっといい毛皮になるぞ。
ああ、こんなにたくさん捕まえられたしな。
ただただ、人間が怖かった。
何を言っているのか、理解が追いつかなかった。
だから巣の中で、震えていた。
人間の声が消えるまで、隠れていた。
人間がいなくなった後、出ていったら。
——森は、静かだった。
誰も、いなかった。
誰もいなくて、寂しかった。
寂しくて。寂しくて。
これで全部だな。
きっといい毛皮になるぞ。
ああ、こんなにたくさん捕まえられたしな。
ようやく、人間の言葉の意味が分かった。
人間は、仲間をみんな捕まえていったんだ。
そしてきっと、殺してしまう。
人間が、許せなかった。
その日からだった。
俺が暴れるようになったのは……。
でも、他の動物は傷つけなかった。
憎いのは人間だけだから。
いつか人間に出会ったら、みんなの仇を討ってやる。
そのためだけに、木を相手に特訓してるんだ。
いつかみんなの仇を討った、その後には。
きっと……きっと、みんなに会いに行くんだ。
ディゴがそんなことを考えた、その時。
ディゴから藍色のオーラが滲み出し、逆さまのアーチを作りました。そのおわんのような形の一番底の部分は、ちょうどディゴの頭の上にありました。
「……なんだこりゃ。けっ、今の俺の気持ちみてえじゃねえかよ」
ディゴはそのアーチの正体に気付きました。
それは『寂しさの藍のアーチ』だったのです。
「まっ、今の俺を動かしているのは……憎しみと寂しさだけだからな。そして、俺の憎しみの原点は寂しさだ。それぐらいしかこのアーチの正体が思いつかねえ」
そう。
死を覚悟するほどの、強い人間への憎しみが、そして、仲間を失った寂しさが。
その強い感情だけが、彼を暴れさせるのでした。
その感情は、たとえ新たな仲間が出来たとしても、消えるものでも、薄まるものでもなかったのです。
だからこそ、ついさっき森で出会った人間に言われた言葉が、彼を揺らしたのです。
『——やはり、痛いですね。でも……それだけのことを私たちはした、そういうことですよね』
その女の人は、木に寄りかかって昼寝をしていました。なのでディゴはチャンスだとばかりにすぐに飛びかかり、引っ掻いたりしたのですが。
でも彼女は怒りもせず、泣きもせず、何もせずに、静かに罪を認めました。
ただ、それだけでした。
「……あの人間も、俺と同じかも知れねぇな」
ぽつり、とディゴは呟きます。
「独りの寂しさを知っているから、俺の寂しさも受け止めてくれたのかも知れねぇ」
女の人はその後、静かにその場を去りました。
穏やかに微笑んだ表情のまま。
でも、ディゴは今、ようやく気付きました。
その微笑が隠していた色に。
その微笑を浮かべていた女の人のその目は、今ディゴの頭の上に浮かんでいる、逆さまのアーチと同じ、藍色を孕んでいたのでした。
ちなみに。
その女の人とディゴが出会った時のことや、女の人の過去については、また別のお話。