10話:播磨聡介(①)
10・播磨聡介
チャイムの音に目を覚ます。ゆるゆると瞼を上げれば、紫色のTシャツが目に入った。
「気がついた?」
凛とした、聞き慣れた声――それは牧田先輩のものだった。
顔を上げれば、そこが創作部部室こと多目的教室であることがわかる。辺りを見渡すが、僕と牧田先輩以外は誰もいないようだ。僕の隣に座った牧田先輩は長い髪を一つにまとめ、いつもの制服のブラウスの代わりに三年E組のクラスTシャツを着ている。
「……おはようございます?」
「おはよう。ねえ、今何時だと思う?」
牧田先輩がにこりと笑う。彼女の得意な仮面の笑みだ。なんとなく嫌な予感がしつつ、僕は今の状況を整理しようとする。ええと、さっき下校時刻のチャイムが聞こえた。それは僕が「世界の交差」から帰ってきたからだ。ということは――。
「……六時半?」
「うん」
牧田先輩は背筋を伸ばすと僕を見る。その視線で、僕は今牧田先輩に責められているのだと気づいて慌てて座り直した。牧田先輩は机の上にある麦茶入りのマグカップを僕に差し出しながら言う。
「巴くんのことだから、何か事情はあったんだと思うけどね。だけど、『世界の交差』を起こしたら下刻時刻まで目覚めないってわかってるんだから、せめてクーラーを入れるとかすること」
言われた瞬間、僕はマグカップを掴んでいた。そして一気に飲み干す。冷たくてどこか甘い麦茶がぐんぐんと体の内側に沁み込んできて、僕は、体ごと干からびそうになっていたことに今さら気づいた。
そこで思い出す。僕が「世界の交差」を起こしたのは昼前だった。浅野と黒住に教室を追い出され、尚人先輩からチャーハンをもらって、そして突き返して。例の現場を目撃した後そのままこの教室に飛び込んだわけだから、僕は十二時くらいから現在に至るまで、この教室で眠りこけていたことになる。食事も水分も摂らずに。
喉の渇きが満たされると今度はお腹が空いてきて、力が抜けた。牧田先輩は「大丈夫?」と言うとポケットから飴を取り出す。
「今はこれしかないんだけど、よかったら」
僕はありがたく受け取り、包み紙を剝がす。どこにでも売っているフルーツ飴のリンゴ味だ。てっきり赤い色の飴が出てくると思っていたが、意外にも白い粒が出てきて驚く。そういえばリンゴの果肉って白いな。口に入れれば果肉というよりジュースのような味がした。
「……文化祭って、どうなりました?」
おそるおそる訊いてみると、牧田先輩は「もう終わったよ」と答えた。
「文化祭自体は四時に終わったの。ホームルームの方も五時過ぎには終わってるんじゃないかな。巴くんのことは、『熱中症で早退した』って担任の先生に伝えてあるから、心配しないでいいよ」
「佐伯からですか?」
僕の言葉に、牧田先輩が言葉を詰まらせたようだった。少しの無表情の後、しかし彼女は僕を見つめて言う。
「ううん、私から。つみきくんがどうかした?」
「……いえ、別に」
佐伯はあの後、創作部には立ち寄っていないということだろうか。
「私がここに来たのは、尚人くんに教えてもらったからだよ。お昼過ぎだったかな、そろそろ自分のシフトだからってテントの方に向かったら、尚人くんが声をかけてくれたの。『巴くんと会ったんだけど、ちょっと様子がおかしかった。牧田さんは巴くんを見てないか』って」
「それで気づいてくださったんですね」
「そう。念のためここに来てみたら、扉の鍵も開けっぱなしで、クーラーもつけずに床で寝ている巴くんを見つけたの。尚人くんに感謝だね」
「……はい」
「変な人に見つからなくてよかったよ」
そう言って、牧田先輩は呆れたようにため息を吐いた。今回ばかりは、返す言葉が見つからない。僕からすれば鍵をかけるだとかクーラーをつけるだとかの余裕はなかったわけだけど、尚人先輩や牧田先輩の手を煩わせ、いらない心配をかけたことは事実だ。
「すみませんでした、考えなしの行動をして」
牧田先輩は僕の言葉に少しでも満たされたのか、黙って頷く。
「尚人くんにも『巴くんは無事だよ』って伝えておくね。それにしても、どうして急に『世界の交差』を起こしたの? 何か緊急事態だったんでしょ?」
「いや……」
もしかしたら牧田先輩は、さっきの僕の発言からその緊急事態に佐伯が関わっていることを察したかもしれない。だけど僕は詳細を報告するべきではないと思った。僕が見たものや僕がちゃんと考えずに「世界の交差」を起こした理由について、とてもじゃないけど牧田先輩に説明できる気はしなかった。佐伯は牧田先輩のことが好きらしいし、自分が男とキスをしていたことなんて死んでも告げ口されたくないだろう。
「……報告は保留でもいいですか」
僕は佐伯のことが個人的に嫌いだが、そういった嫌がらせをしたいわけではない。牧田先輩は「ふーん」と物足りなそうな顔で言ったが、それ以上追及はしてこなかった。
◇
翌日、僕はいつもより遅く家を出た。体操着に着替えてテントに向かった僕を待っていたのは、紫のハチマキを巻いたモザイクアート班の男子数名だった。
「鏡味遅え!」
「他のやつらはもう入場門に行ってるよ」
「大丈夫か?」
運動着のよく似合う野々上がわざわざ声をかけてくれる。
「……平気だよ」
「そっか。具合が悪くなったら言えよ」
「ほら、お前のハチマキ! 出席番号が書いてあるから、洗って実行委員に返せってさ」
浅野はハチマキを押しつけてくる。確かに端のところに「1―E⑦」と手書きしてあった。僕は辺りを見渡し、佐伯の姿が見当たらないことを確認した。
「佐伯、もう入場門の方に行ってるのかな」
「『みんなを連れていく』って、残りのやつらと一緒に行っちまったよ。さあ、いい加減俺らも行かねーと遅刻扱いになる!」
遅刻は減点対象になるからな! と早足で駆けていくクラスメートの背を追いながら、僕は自分の胸の中に違和感を探す。が、それは見つからなかった。今のところは佐伯の「書き換え」の影響が及んでいないということだろう。
入場門の後ろでは、全校生徒がクラスごとにまとまって列をなしている。僕たちは紫色を目印にしてクラスメートたちを見つけ、ぽつぽつと空いた隙間に身を滑り込ませた。どうやら遅刻は免れたらしい。
うっすらと空を雲が覆っているせいか、昨日に比べて日差しは落ち着いている。じめっとはしているが、秋らしい涼しい風がたまに吹くため過ごしやすそうだった。一部の人間は晴天の運動会じゃなくて残念に思っているかもしれないが、僕はこのくらい曇っているほうが落ち着いた。今日は一日中外にいるわけだし。
「応援旗、持ってきたぞ~!」
その声にクラスメートたちが振り返れば、歓声が上がった。僕たちがなんとか完成させ、ギリギリで提出した旗が立派な竿に通され、ちゃんと応援旗っぽくなっている。応援旗を持ってきた男子は少し離れたところで立ち止まると、1―Eの列に見せびらかすようにして布を広げた。
「めっちゃいいじゃん!」
「他のクラスのより断然よくない⁉」
「優勝できるっしょコレ!」
「お前らさすがに調子よすぎ!」
看板班の女子たちと男子たちは口々に冗談を言いながら盛り上がっている。モザイクアート班の男子たちも便乗してふざけたり、看板班の調子のよさに呆れ笑いをしたりしているが……でも、不思議と悪い雰囲気ではなかった。
「鏡味、あそこ見ろよ」
浅野に肩を叩かれ入場門の向こう側を見ると――運動場の向こう、生徒用のテントが並んでいるその奥のフェンスに、A組からI組までの応援看板がずらりと取りつけられている。その真ん中はちょうど、E組の看板だ。
「遠くから見たら、結構かっこよく見えるだろ」
浅野の言葉に頷く。初めてその全体像を見た僕は、その巨大さと迫力と、想像以上の立派さに驚いてしまった。
「すごいね、遠くから見ると」
「な、遠くから見ると」
そう言って噴き出す浅野につられて僕も笑ってしまいそうになる。僕たちモザイクアート班の男子たちは、あの看板が一番やばかった時のことを知っている。結局僕たちは看板班の応援メンバーとして、ほとんど下書きの状態から進んでいない看板の制作に日替わりで携わった。最後の方なんかはとにかく時間がなくて、細かい隙間や線の乱れはそのままに提出したはずだが、これだけ遠くから見れば一つも気にならなかった。クラスカラーの紫の背景に、赤い瞳の白い竜。右下に達筆風で書かれた「E組紫動」という文字と絵柄との関連性はぶっちゃけ全然ないが、他のクラスもそんな感じだし、それっぽくかっこよくなってるんだからいいんじゃないだろうか。
浅野がいい笑顔で親指を立てるものだから、僕は耐えきれずに笑った。この感じ、もしかしたら昨日、僕のいない間に、クラスメートたちは完成した応援看板を見ていたのかもしれない。浅野が気を利かせてわざわざ僕に共有してくれたのだったらありがたいことだ。
そういえば、と女子の列にいるチカの姿を探す。あの看板のデザインも応援旗のデザインもチカが考えたものだと言っていた。あの内気で目立つことが苦手なチカは、自分の考えた絵が他人から褒められたりかっこいいと騒がれたりすることについてどう思うのだろうと横顔を盗み見ると――チカは、心ここにあらずといった様子でぼうっと遠くの方を見ている。自分の作ったものに対してあれこれ言われることには、何とも思わないのだろうか。しかしどこか浮ついたような、のぼせたような表情が気になって見つめていると、チカが顔を動かした瞬間に目が合ってしまう。あっと僕がそらす前にチカが勢いよく向こうを向いたため、取り残されてしまった。そんなに意識してくれなくてもいいのにさ、なんて思っているとスピーカーから放送が聞こえてきた。
『まもなく、入場行進が始まります。選手の皆さんは所定の位置につき、入場の準備をしてください』
「選手だってさ」
「大げさだな」
からかいつつも楽しそうに笑っているクラスメートに世界平和のようなものを感じながら、僕は何気なく辺りを見渡す。そして、驚いた。
僕の少し後ろの列に、佐伯がいた。あまりに静かで存在感がなかったから、実行委員で呼び出されているとかで、この場にいないかと思っていた。
「佐伯――」
「そこ、動かない! もう始まるよ!」
声をかけようとした瞬間に怒鳴られ、僕はいらっとした。現代社会担当の女性教師だ。あんなに大きな声を出す必要なくない? と思いつつ、僕は自分の位置に立ち直す。どうでもいいやつにかけられたどうでもいい言葉に気を取られる必要はない。それよりも――と佐伯の様子を肩越しに見れば、佐伯は誰とも話すことなく、黙って、入場門の方を見つめていた。
◇
佐伯が僕を避けている、ということにはすぐに気がついた。それに、佐伯の様子がおかしいことも。
運動会が始まると、僕たちは自分の出る種目以外は基本的に自由時間となり、自分のクラスのテントの中で過ごしたりその辺をうろついたりして過ごすことになる。佐伯が運動部でいろんな種目に出るからというのもあるだろうが、佐伯はほとんどE組のテントにいなかった。また、たまに水分補給に帰ってくる時なんかも僕とは目を合わせようとしないし、僕が話しかけようとすると思い出したかのように他のクラスメートの名前を呼んで僕から逃げていく。そんなあからさまな佐伯の態度に僕は苛立った。そりゃあ僕は佐伯の依頼を断ったわけだけど、あんなにも鬱陶しく、そして僕の迷惑も考えずにつるんできた佐伯に急に手のひらを返されると、拍子抜けしてしまう。
自分から話しかけようとしないのはわかるけど、せめて僕が話しかけてやろうとする時くらい応じればいいのに。身勝手で自分の都合しか考えていない佐伯のことだからそれすらもしたくないに違いない――と思いつつ、しょうがないので遠くからその様子を観察していると、僕は佐伯の様子がおかしいことに気づいた。
今日の佐伯、元気がない。「虚ろ」――っていうか。
一見すると、佐伯はほかのクラスメートといつものように、楽しく、当たり障りなく喋っているように見える。けど、やっぱりどこか違う。いつものような遠慮のなさや鼻につくような無邪気さがなくて、どこか落ち着いている。心がどこか遠くにあって、体が置いてけぼりになっているような印象を受けた。彼の黒くて大きな瞳は濁っていてどこを見ているかわからず、誰にも話しかけられなければぼうっと虚空を見つめている。ぐにゃりと曲がった姿勢からは、普段の佐伯にみなぎっている元気だとか歳不相応な若さだとかのエネルギーをまったく感じない。
さすがに様子がおかしいから、僕は佐伯の周りから人が減った時にもう一度声をかけることにした。それなら逃げられないだろう。テントの前の方で膝を抱えている佐伯の背中に声をかけようとすると、しかし、タイミング悪く浅野に声をかけられる。
「長縄始まるってよ。鏡味もだろ? 一緒に行こうぜ」
「いいけど、ちょっと――」
「つみき、いるか?」
背後から聞こえてきた声に僕は飛び上がってしまう。聞き慣れた、低い声。僕が振り返るのと浅野が名前を呼ぶのはほぼ同時だった。
「播磨じゃん!」
浅野が言った瞬間、テントの中にいたクラスメートのテンションが一気に上がった。播磨は涼やかな顔でそこに立っており、僕は心臓をバクバク言わせている。どうしてE組のテントに? いや、いつものように佐伯に会いに来たのか。クラスメートは男子も女子も、突然の播磨の登場に沸き立ち、口々にやっほーとか何しに来たんだとおちょくった。
播磨はそのどれにも反応せず、口元に余裕そうな笑みを浮かべている。目線はまっすぐ佐伯を見つめているのだろう。一体どういうつもりで佐伯を呼びに来たのか勘ぐっていると、僕の視線に気づいた播磨が、僕の方をつと向いて――。
「播磨、来てたの?」
ゆらっ、と佐伯が立ち上がる。播磨の姿を認めると、佐伯は真っ黒な瞳を嬉しそうに細めた。佐伯の甘ったるい声が嫌でも耳にこびりつく。その響きは幼い子どもが親を見つけたかのような響きだった。甘えていて腑抜けていて、それを隠そうともしない。
「ああ。一緒にいろいろ回ろうぜ」
「うん、いいよ。すぐ行くから待っててね」
播磨は佐伯に笑顔で返し、他のすべての人間の反応を無視してテントから離れた。そして呆気に取られているクラスメートたちの間を縫うようにして、佐伯がテントの後ろまでやってくる。運動靴を履いた。
「佐伯、」
佐伯は僕を無視して風のように去っていく。播磨の向かった方向だ。「佐伯、どうしたんだ?」と浅野が怪訝な顔をした。
「ちょっと変? って、気のせいかもしれないけど……」
「いいから行くよ。長縄が始まるんでしょ」
「そうだな……」
僕と浅野、そして長縄に出場する他のクラスメートたちは入場門へと移動する。佐伯について言及するやつがいたかどうかはわからないが、とにかく僕の頭には、先ほど播磨が僕に見せた「笑顔」が、焼きついて離れなかった。
播磨が佐伯に何かした。佐伯は播磨に「抑え込まれている」――。
長縄は一瞬で終わった。入場門やグラウンドで待つ時間の方が長いんだからどうかと思う。僕は退場門を出るとすぐに例の二人の姿を探した。視界に入れば「嫌な感じ」がするはずだ――ときょろきょろしているうち、視界の隅に彼らが映る。
そこで初めて気づく。「嫌な感じ」がなくなっている? 視界に播磨が映っているというのに、昨日までみたいに視線や意識が無理やりそちらに行ってしまう感じがない。もしかしたら佐伯が「書き換え」の内容を変えるか、文言を消すかしたのかもしれない。本当に都合のいいやつだ、と思うとやはり腹が立つ。僕は頭に巻いていたハチマキを取ってズボンのポケットに押し込んだ。
二人はグラウンドを出て、渡り廊下の方にある購買の方に歩いている。播磨が佐伯の肩をしっかりと抱いていて、まるで寒い日に身を寄せ合って歩くカップルのようだった。まだ暑さの残る九月だって言うのに。
「佐伯!」
佐伯の背中に呼びかける。緩慢な動作で同時に振り返った二人は、冷えた瞳で僕の姿を認めると、あからさまに拒絶のオーラを出した。
「……鏡味、何か用?」
「佐伯、保健室に連れて行ってよ。昨日倒れてからずっと頭が痛くて。保健室に行く時は、実行委員と一緒に行かなくちゃいけないんでしょ」
我ながら上手な噓を吐くことができたと思う。しかし佐伯の反応は鈍かった。
「そうだけど……あとで、僕から先生に言っておくよ。一人で行ってきていいよ。ここから近いし」
佐伯は抑揚なく言葉を発する。そして、隣にいる播磨は一言も喋らない。ただ播磨は佐伯の顔をじっと見て、口も開かずに「何か」を伝えているかのようだ。
「でも……後で怒られたくないしさ。佐伯だってそうでしょ? 実行委員の責任になっちゃうんだよ」
「それは……そうだけど……」
佐伯が歯切れの悪い返事をしたところで、僕は大げさにふらついてみせる。
「うっ……」
「鏡味?」
佐伯が僕に注目した瞬間を狙い、口元を手で押さえる。
「あと……気分も悪くて。ごめんけど、ついてきてほしいんだ」
よろめきながら距離を詰め、佐伯の腕をできるだけ弱々しく、頼りなく伸ばす。佐伯は迷っている様子だったが、僕が苦しそうに俯いていると案の定払いのけはしない。
しかし最後は力強く掴んだ。ビクリと体を震わせる佐伯に素早くアイコンタクトをする。あんたと二人で話がしたい。
「頼むよ、実行委員。ついてきてよ」
「でも……」
「行ってこいよ、つみき」
黙っていた播磨が急に口を開く。僕も驚いたが、佐伯も驚いたようだった。
「いいの? 播磨……」
「これもお前の仕事だろ。いいぜ、俺は待ってるからさ」
播磨は肩を組んだまま佐伯に笑いかけた。佐伯はまだ迷っている様子だったが、思考の整理がつく前に強く腕を引いた。連れ出すなら今しかない。
「佐伯、来て」
播磨から強引に佐伯を引き剝がし、念のため保健室のある方向に歩いて行く。佐伯の足取りは重く、僕は佐伯の腕を引く手に力を入れなくてはいけなかった。
一回だけ、あくまでも自然に振り返って播磨の様子を見たが、播磨は本当にその場から動かず、「待っている」ようだった。
きっと播磨には、僕の下手な演技がすべて佐伯の連れ出すための噓だとバレているだろう。とにかくこのまま保健室に向かったところで仮病はバレてしまうし、播磨に見つかってしまう。僕は校舎には入らず、外廊下を歩いて技術棟へと向かった。
技術棟は家庭科室や情報コンピューター室などが入っている、本校舎の隣にある新しめの建物だ。僕はその一階にあるトイレが目に留まる。僕たちが土足のまま入れそうで、かつ播磨の邪魔なく話すことができるのはあそこしかないと思った。技術棟の一階は芸術棟と同じく下足と上靴の区別が曖昧になっており、その外付けのトイレに関しては下足で入ってもいいことになっている。外扉はないが、個室に入れば鍵をかけて話すことができるだろう。
「……鏡味、」
本校舎を通り過ぎても何も文句を言わなかった佐伯がようやく口を開く。トイレの中には幸い誰もいないようだ。
「文句があるなら言ってみなよ。鍵がかかるところの方がいいんじゃないの?」
視線で促せば、佐伯は自分から個室の一つに入った。僕は佐伯が抵抗しなかったことを意外に思いながらも、辺りに誰もいないことを確認して同じ個室に侵入する。
後ろ手で鍵をすると、ガシャンと鉄の音が響き渡った。
男二人で入る個室というのは想像以上に窮屈だ。今は体操着だからギリギリ許せるが、埃で汚れた水色の壁に寄りかかり、特有の臭気の中、他人と向かい合わせになるというのはなかなかに不快だった。
先に入っていた佐伯は、トイレの蓋を閉めて壁の一つに寄りかかっている。どうやら僕の様子を窺っているようだったがあえて僕は何も言わなかった。こういう、佐伯みたいに自分が大好きで自分のことで精いっぱいな自己中心的なやつはこちらでそいつが思いっきり語るための場を用意して「お好きに話していいんですよ」という顔をしてやるだけでいいのだ。そうすれば、そいつは自分の都合のいいように勝手に解釈して、聞きたくもない身の上話を話し始める。僕はそれを待った。佐伯のことなんて簡単で、単純で稚拙で反吐が出そうだ。馬鹿な佐伯はさっそく「鏡味は、」と口火を切った。
「どうして、僕を連れてきたの。気分が悪いからじゃないんでしょ?」
「そうだよ。なんでかわかんない?」
佐伯は押し黙る。それでも僕はしぶとく待つ。少なくとも、播磨がいないこの場であれば言えることもあるはずだ。僕のやるべきことは、馬鹿で愚鈍な佐伯が口を割るように場を整えてやること。そして、断片的な情報から佐伯と播磨のことを知っていくことだ。僕が「特別」なやつらに関わっていく方法というのはそれでしかない。
なんでも話していいんだよ、と声をかけようとした瞬間に、佐伯の唇が動く。僕は身構えた。しかし、佐伯の口から出てきた言葉は、僕が予想できそうでできなかった、ありえない言葉だった。
「鏡味には関係がない。僕から話すことなんて、なんにもないよ」
「……は?」
「関係ない」って、今さら何を言っているんだ? 頭に血が上る、のを、すんでのところで抑え込む。こいつ、僕のことを馬鹿にしているのか? さんざんそっちの都合で巻き込んでおいて、「運命」を変える力で僕のことを乗っ取っておいて、「関係ない」? 「話すことなんてない」? そんなわけないだろ。
佐伯の顔を見れば、そもそも佐伯は僕のことなんて見ていなかった。今朝からまったく変わらない、暗くて濁った瞳で俯いている。肌には汗が浮いていて、佐伯がその腕を強く抱けば体操服にできるしわの影がいっそう濃くなった。僕はその姿に播磨の影を見る。そうだ、これは播磨の指示かもしれない。
「ねえ、播磨になんて言われたの?」
僕がかまをかけると、佐伯はビクッと体を震わせる。図星のようだ。
「別に、何にも言われてないよ。これは僕の意思だ」
「いーや違うね。君は播磨に、例えば『鏡味には何も話すな』みたいな感じで口止めされてるんじゃないの? それで、君は『ただその通りにしている』――」
「だから、播磨は何にも言ってない‼」
取り繕うだけにしては悲痛すぎる響きが個室の空気を震わせる。佐伯は壁に体をぶつけながら頭を抱えた。顔は青ざめていて今にも泣き出しそうなのに、同時に場違いとしか思えない愛想笑いを浮かべている。
「播磨は関係ない、これは僕が決めたんだ……僕が決めたことなんだ。僕が勝手に……」
頭を掻き毟り、しきりに頬や首を触りながら、佐伯はうわごとのように「僕が決めた」と繰り返す。その胸の底をざらざらと舐め取るような甘ったるい声に僕は身の毛がよだった。
……こいつに、僕ができることなんてあるのだろうか? 僕は何のためにこいつの話を聞こうと思ったんだっけ。それはもともとこいつが僕に対して、「話を聞いてほしい」と言ってきたからだ。僕はこいつの「道具」になるのはごめんだと思って拒絶した。だけど、そこを曲げて、話だけでも聞いてやろうと思ったんだ。
しかし、その仕打ちがこれだ。播磨の命令か何だか知らないけれど、佐伯は僕のことを拒絶している。僕に見向きもしないで、何か苦しみのようなものに浸っている。自分の世界に入っている。
話をする気もない、僕の話を聞くつもりもないやつに他人である僕ができることなんてあるのだろうか。何かをしてやる義理なんてあるのだろうか。どうせ見返りもない、ていうかそもそも「関係がない」。それなのに僕が、佐伯が拒絶しているにもかかわらず興味本位で関わろうとするのは、いつの間にか僕が「悪」ということになっていないだろうか。それなら佐伯の言うとおり、僕は関係ないからって、こいつをここに残して去った方がいいんじゃないだろうか。
「……鏡味って、わけわかんないね」
その声に、思考がぐるりとかき混ぜられる。
「……何が?」
佐伯の顔を見れば、その暗く濁った瞳で僕を睨んでいた。
「だって『助けて』って言ったら『嫌だ』って言うし、『話したくない』って言っても話させるつもりなんだよね。どうして? めちゃくちゃじゃん。ひどいよ」
佐伯は僕を責めている。まるで恨んでいるかのような言い草だ。「どうして」? 知らないよ。そんなの、僕があんたに訊きたいよ。
「もういいんだよ! これは僕の問題なんだから。僕は気が変わったんだ。もう大丈夫だよ。ごめんね。鏡味は何にも関係ない。自分で考えて、何とかするから。じゃあね、行っていいんだよ」
吐き出される言葉は支離滅裂で、その一方で叫び出しそうに顔を引きつらせている。声色は怒っているはずなのに甘ったるい。まともに話そうとしていかれてる。佐伯の昏迷が狭い個室の空気を満たして、僕までおかしくなりそうだった。でも僕の足は動かない。耐えようとしていた。佐伯のことがわかりそうな気がした。いや、僕は佐伯のこういうところをよく知っている。腹立たしく思って見捨てた。だけど何かができそうな気がした。
「どっかに行ってよ! 一体どうしたいわけ? 君の暇つぶしのために、馬鹿にしたいのかなあ……!」
佐伯も僕も汗が止まらない。吐き出すように叫んだ佐伯の姿を目に焼きつける。
「もしそうなんだったら、君は――」
「……わかった」
言った瞬間に、汗の粒が頬を滑り落ちていくのがわかった。
「僕は、君にとって『最低』で、『迷惑』だね」
佐伯は動きを止める。急に泣き出しそうな顔になって、だけど僕のことを鼻で笑った。
「そうだよ。迷惑なんだ、だから」
「それはそっちも同じだろ」
そう言い放つと、時が止まったかのように静かになる。僕は怒っていた。佐伯のことがムカつくし、心の底から気に入らない。こいつと一緒にいると腹が立ってくる。
「よく、そんなことを言えるよね。最初に、こっちの迷惑も考えずに関わってきたのはそっちでしょ?」
「それは、だから、『もういい』って言ってるんだよ」
佐伯の言葉はいちいち癪に障るが、この場では無視する。
「だから僕は、君が僕の気持ちを無視して迷惑をかけてきたように、君の気持ちを無視して君たちに関わる」
僕は佐伯の方を向いた。込み上げてくる苛立ちを押さえつけ、冷静になろうと努める。
「僕はね、君のことなんか本当に心から興味がないしどうっでもいいよ。君が幸せだろうが不幸だろうがどうでもいい。僕は君にとって『関係ない』人間なんだよ。それでいて、君からしたら『迷惑』なんだよね? 君が助けてほしい時に僕は助けないし、君が距離を置きたいと思ったときに接触してくる。それが身勝手に映るんだろ。それを『迷惑』に感じているは、言っておくけど僕だって同じだからね! 僕からしたら、君なんて本当に自分勝手で訳がわからないから!」
「じゃあ……関わらなけりゃいいじゃんか!」
佐伯が弱々しく反撃する。怯えを隠せないようだった。
「鏡味は僕のことが嫌いなんだろ! じゃあなんで僕に関わろうとするんだよ。僕に興味がないんじゃ、ないの……」
「だから、君のことなんてまったく興味はないんだってば」
繰り返し言うと、僕の心は落ち着いてくる。逆に佐伯は顔色を悪くしてふらつき始めた。
「……『きみって本当に理解できない』」
佐伯が顔を上げるのと、僕が笑いかけてやるのが同時だった。これは、完全に「僕のペース」なんじゃないだろうか。
「何度でも言うけど、僕は君のことなんてどうでもいいと思っているし、個人的に言えばかなり嫌いな方だよ。他のクラスメートよりもね。だから別に優しくしてやろうとも、君のことを助けてやりたいとも思っていない。君が今不幸なんだったら全然不幸のままでいいよ」
「……鏡味」
「でも、『それは置いておいて』」
可能な限り、「自分」を、「感情」を殺す。それは僕にとって冷静になることであり――この場においては、「道具」になることだった。
「君が本当に苦しそうにしているから……『世界の交差』のことで誰にも言えずに悩んでいるのなら、僕は君の話を聞くよ。それは君のことが好きだからとか、君を助けたいからとかじゃない。君はそこを一緒くたにしたがるみたいだけど、僕は君と違ってそんなことはない。ただ君が、君の事実を語って整理するための『道具』になるだけだ」
僕にとって「わかった」ことは、僕と佐伯が、まったく別の理屈で動いているということだ。佐伯はきっと、僕が佐伯の思い通りに動いてくれないことに苛立っている。そしてもちろん、僕も佐伯が意味不明な言動をするからムカついている。それは、お互いがお互いにとって「わからずや」だから――相手の理屈を理解できないからじゃないか?
僕は、佐伯の理屈を理解しようと思わない。ていうか、佐伯が大事にしている「みんなのため」とか「誰かの役に立ちたい」なんて思想が本能的に合わないし、そこから発生する思想のすべてと佐伯特有の愚鈍さと頑固さが気に入らない。でもその気に入らなさは僕の個人的な感情であって、佐伯の生き様に文句を言う権利は僕にはない。
また、佐伯の「正しさ」の理屈は僕の「正しさ」の理屈の網からは無駄なものや意味のないものとしてすり抜けていく。僕の理屈からしたら、佐伯は「正しい」人間じゃなくて、「正しさ」のわからない馬鹿なやつということになるが、きっと、佐伯は佐伯で僕とは違う「正しさ」の理屈を持っている。やはりここでも僕は佐伯の理屈に文句を言うことはできない。だって、僕の理屈は僕だけの理屈であるように、佐伯の作った理屈は佐伯だけのものであるはずだから。その領域を侵害された時、僕たちはそいつを不快に思ったり、嫌ったりしていい。そういうわけで、僕たちはきっとお互いのことを不快に思い、嫌い合っている。それは道理に合っている。違う理屈を持ち、違う時間を生きてきた僕たちがわかり合えないのは当然だ。
だけど――佐伯が混乱していることは、わかる。佐伯の考えは僕の理屈から外れているけれど、佐伯が目の前で支離滅裂な言動を繰り返し、パニックになっていることはわかる。こんなことになる前に、僕に助けを求めてきたことを知っている。佐伯は一人ではどうすることもできなくなって、誰かに助けを求めたいんじゃないか。それが今の、佐伯の「事実」なんじゃないか。
「僕には、君を『助ける』ことはできないかもしれない。君の思い通りには、きっと動けない。僕は君と考え方があまりにも違うから」
「……うん、」
頷いた佐伯の方を見て、僕は絶望しそうになる。佐伯はまだ混乱していて、僕に怯えていて、ただ、「僕を落ち着けるため」だけに頷こうとしている。瞬間、頭に血が上って僕は佐伯の肩を掴んでいた。
「鏡味、」
「佐伯、そういうとこ、やめたほうがいいよ」
佐伯がビクリと体を震わせる。本当に腹立たしくて、殴ってやろうかと思った。しかし我慢する。
「わからないならわからないって言ってよ。いい加減に頷こうとしないで。僕は、別に自分の意見が『正しい』と思ってるわけじゃないんだ。一緒に考えてほしいから言ってるんだよ」
そう言いながら、胸の奥の凝り固まったところが急に温度を上げて、融けていくような感覚に襲われる。熱くて、切なくて、つい言葉に感情がこもってしまう。
「僕は、君が君自身についてしっかり考えるための、話し相手みたいなものになれたらそれでいいんだ。……『君』に、考えてほしいんだ」
「『僕が、僕自身について考える』……」
佐伯はそう繰り返して……そして、体から力を抜いた。掴んだ肩越しに、佐伯の緊張がほどけたことがわかる。僕は手を離した。
「そう。だから、僕のことなんて気にせずに、君の考えを聞かせてよ。別に、よく見せようとかしなくていいよ。どうせ僕は君のことが嫌いなんだから、君がどんなやつだろうと失望したりしないよ」
「……鏡味」
佐伯に呼ばれて、顔を上げる。そこには、なぜか少し笑っている佐伯がいた。
「……何?」
「鏡味って、優しいよね?」
佐伯の言葉に、思わず「は?」と言ってしまう。皮肉だろうか、それともからかっているんだろうか。それともまた何か勘違いをしているんじゃないか、そもそもまた理解不足で思考停止をしているんじゃないだろうかと佐伯の顔を窺えば、佐伯は急に、気が抜けたように笑い出した。
「何? 気味が悪いんだけど」
「違うんだよ。きっと、鏡味にそんなつもりはないんだよね」
佐伯は呼吸を整えて、そして真面目な顔を作る。汗に濡れて、そして少し顔色は悪かったけれど瞳には力がみなぎっていた。その表情は、僕に縋るでもなく拒絶するでもなく、もっとありのままの佐伯のように見えた。
「ありがとう。僕の話を聞くって、言ってくれて」
目を細めた佐伯は、照れくさそうに、でも穏やかな声色で僕に言った。その笑顔は、いつもクラスで見せているような貼りついた笑顔ではなく、もっとやわらかくて、優しい笑顔だった。不覚にも少しだけ、胸を打たれてしまう。
「……だから、『君を助ける』とか『君の味方になる』とは言ってないよ。その辺は――」
「わかってるよ。いや……もしかしたら、わかっていないのかもしれないや。だって、鏡味にそう言ってもらえるだけで嬉しいんだから……」
佐伯は大きく息を吐くと、僕を見つめる。
「僕の話、聞いてもらえるんだったら聞いてもらいたい。思ったことがあったら言ってほしい。どんなことでも大丈夫……鏡味なら」
そのまっすぐな視線に、僕はつい視線をそらした。文句を言うのはいくらでもできるのに、こういう時はどんな言葉で返せばいいのかまったくわからなかった。
◇
眉目秀麗、成績優秀、スポーツ万能でコミュ力もある完璧超人の播磨聡介は、佐伯が彼と「友達」になった頃からすでに、その才能の片鱗を見せていた。
佐伯が播磨と話すようになったのは、彼らが小学生になり、同じバスケットボールクラブのメンバーになってから。小さい頃から体を動かすことが好きだった佐伯は、小学校に上がるのと同じタイミングでバスケクラブに入った。毎週土曜日、朝八時からの練習には一年生から六年生まで十五人ほどの男子が来ていた。クラブやメンバーの雰囲気はよく、高学年の生徒が自分より年下のメンバーの面倒を見ている様子はまるで兄弟のようだった。
一人っ子だった佐伯は、うたぎなどの従兄弟はいるものの、歳も離れているし親戚の集まり等がなければあまり会うこともなかったため、クラブのメンバーのことを兄弟のように慕っていた。また生来の人懐っこさによって、佐伯はすぐにチームに馴染み、年上のメンバーに可愛がられるようになった。
そして佐伯がチームに入った時、一緒のタイミングで入会したのが播磨だった。
当時、播磨はほかの一年生よりも少しだけ背が高く、中学年の生徒のように見えた。播磨は歳の割にしっかりしていて、誰にも見ることのできない物事の本質を見抜くような鋭い目つきをしていた。ツンと澄ました印象、利口そうな雰囲気、それでいて先輩たちと同じかそれ以上にバスケが上手い播磨のことを、最初佐伯は苦手に思ったらしい。それは、「こいつは嫌味なやつだなあ」とかではなく、「すごすぎてちょっと怖いなあ」くらいの意味で。
ただ、播磨はチームのメンバー全員とすぐに打ち解けた。第一印象は近寄りがたい雰囲気を与える播磨だったが、彼は当時から頭の回転が速くて面白く、さらに不思議な愛嬌があって人に可愛がられた。それは佐伯とはまた違う可愛がられ方で、播磨はチームの中で唯一「播磨」と呼び捨てにされ、いじられていた。
しかしやはり、一部のメンバーは播磨と自分たちとの間にある形容しがたい「隔たり」のようなものは拭えなかったと言う。それは誰かが播磨に直接言っていたとか、播磨のいないところで話題になったことがあるわけではない。佐伯は、メンバーの播磨に対する言動や表情から、何となくそれを感じ取っていた。
「播磨はすごい」、「播磨はほかの人とは少し違う」。そんな感覚を抱えながら、しかし口に出すことも深く考えることもなく、クラブのメンバーは練習に明け暮れた。ふざけたり、笑ったりしながら一年間を過ごした。
そして春になる。頼りにしていた六年生が卒業し、五年生のメンバーの中から次のリーダーを決める頃、播磨はチームメイトたちにこんなことを告げた。
「四月から、おれのいとこが入るから。よろしくな」
「つみきくん、」
他のチームメイトよりも、少し高くて穏やかな声に呼ばれる。くるりと振り返れば、いつも目線の少し下にその男子はいた。佐伯はつい笑顔になって、「おはよ!」と声をかける。
「帆波。今日は播磨といっしょじゃないの?」
「お兄さんは、ちょっとだけチコクだって」
「めずらしー! いつも早く来るのにねえ」
「うん……」
憂えるような瞳で遠くを見つめるその少年こそが播磨の「いとこ」、「金重帆波」だった。
二年生になった佐伯の、一つ下の後輩。パサパサとした暗めの茶髪に。棒のようにほそっこくて頼りない手足。当時身長の低い方だった佐伯よりも一回り体が小さく、内気そうで穏やかな雰囲気の帆波を、佐伯はとても気に入っていた。
その四月、佐伯たちのチームに入会した新一年生はたまたま帆波だけだった。バスケの上手い播磨から「よろしく」と言われていた帆波はクラブに入会する前からメンバーの注目を集めていたが、実際のところ、帆波はまったくの初心者ではないものの播磨のように特別バスケが上手いというわけではなかった。帆波はバスケをするにしては競争心が弱そうで、動きもどこかとろとろとして、ゆっくりとした話し方をする。メンバーの中には期待外れでがっかりする人もいたようだが、佐伯はその平和で穏やかな感じ、そして控えめな性格がめずらしくて好きでよくかまっていた。佐伯にとって帆波は初めての、そして唯一の後輩だった。
「帆波、先に練習してまってる? ドリブル、見たげよっか」
「うん」
帆波は小さい歩幅で近づいてきて、佐伯の後ろにぴたりとつく。佐伯は「いこっ」と言うと、帆波のひんやりとした手を取り、体育倉庫の方に歩いて行った。
「ボールはね、ここのを使うんだよ。いちばんにきたら、いちばんにきた人がそとに出すの」
背伸びをしてドアについているスイッチを押すと、パチンと小気味のいい音がする。するとふわっと白い光が広がり、薄暗かった空間が明るくなった。帆波は初めて体育倉庫に入ったのだろうか、明るくなった室内を興味深そうに見渡している。「すごい」という声が遅れて出てきて、佐伯はそのゆっくりさが面白いなあと思った。きょろきょろとしていた帆波の目は、バスケットボールの入った大きなかごを見つける。
「おもそうだね」
カート式のかごにはバスケットボールがごろごろと、そしてぎっしりと詰まっている。たしかに小柄な帆波からすれば、とても重たそうに見えるだろう。
「だいじょうぶだよ。いつも、一人でうごかしてるんだ」
「え、すごいね!」
「へへ……。帆波も、たぶんはこべるよ」
「ほんと? はこびたい!」
帆波は飛び跳ねると小走りで近づいてきて、レバーを持った佐伯の隣に並んだ。
どこか浮かれているような、いつになく嬉しそうな顔の帆波は、佐伯の顔を見上げると、にこっ! と笑顔を作った。
そのとびきりの笑顔に、佐伯は、慌てて笑顔を返す。だけどそうしながら、胸の中に小さな引っかかりを感じていた。帆波はおとなしいけど表情豊かで、よく笑う。だから決して、そんなはずはないのに、佐伯は帆波の笑顔を「初めて」見たような気がした。
「せーぇのっ!」
「帆波、」
元気よくかけ声をかけた帆波の後ろから、聞き慣れた声が聞こえた。
「あれ、」
「あ、……お、」
お兄さん、と帆波が言う前に、播磨は音もなく帆波の隣に並んで、レバーを握る帆波の手に自分の手を重ねた。
「急に引っぱったら、あぶないぞ」
「あ……うん。ごめんなさい」
帆波は手を引っ込めようとする。そんな帆波の手をぽんぽんと優しく叩いて、播磨は帆波に向かって笑いかけた。
優しくて、いたわるような笑み。その笑顔は、隣にいた佐伯の目にも映った。
「おれも一緒にするから。それならいいぜ」
ほら、こけないように気をつけて。そう言って帆波の隣にぴったりとついた播磨は、思い出したように佐伯の方を向くと、「つみき」と佐伯の名前を呼んだ。
「あっ……何?」
佐伯は我に返った。いつの間にか、ぼうっと二人の様子を見ていたようだ。手に持っていたレバーを握り直し、今自分が見たものは何だったのだろうかと思う。どうしても気になって播磨の顔を覗き込めば、播磨はさっきとはまったく違う顔をしていた。播磨は涼やかに、そして利口そうに笑うと、きっぱりと言った。
「帆波から目をはなさないでくれ。もし、帆波と仲良くしたいと思うんだったら、絶対に」
「――その時は、播磨の言葉の意味はまったくわからなかったよ。ただ、播磨がすごく真剣で、本気なのはわかった……。播磨は笑っていたけれど、言い方はちょっと怖かった」
蓋を閉めた便座の上に腰を下ろし、両手の指を絡ませたりほどいたりしながら、佐伯は記憶を辿るように話す。僕が壁にもたれると、佐伯のつむじをちょうど見下ろすような形になった。「ちょっといい?」と念のため聞くと、佐伯が少し顔を上げて「いいよ」と言う。
「それ、今の君と播磨みたいだね。上手く言えないけど……播磨は、帆波を守っていたのかな」
僕の言葉に、佐伯は俯いたまま答えない。僕は自分の言葉を続ける。
「でも、その時は『帆波』が守られていたわけだ。君じゃなくて」
「……帆波は、血の病気だったんだ」
目を伏せたままで佐伯は呟く。聞き返していいのかわからず、僕が黙っていると佐伯は少し息を吐いた。ガス抜きをするみたいに。
「詳しいことは僕も知らないんだけどね。生まれつき、血液の中の血小板が少ないんだって。血小板が少ないから、怪我をすると、傷がなかなかふさがらない。ちょっとの擦り傷でも大量出血につながるし、治し方もよくわかってなくて、大変な病気なんだ」
佐伯は「僕が中一の時に教えてもらったんだよ」とつけ足す。播磨にだろうか、帆波にだろうか。僕はその様子を想像しようとして、ある違和感に気づく。
「中一? 遅くない? それまでずっと知らなかったの?」
佐伯は苦い顔で頷く。「遅いよね」と自嘲気味に言って、いじっていた両手を固く組んだ。
「僕は知らなかったよ。帆波とは小学二年生の時に出会っているし、その後もずーっと仲良くしていたと思う。だけど、教えてもらえなかったし、気づくことすらできなかった。播磨が帆波を『守っていた』から」
「『守っていた』って、どんなふうに」
「帆波がけがをしないように、そして、『帆波が病気である』ことを誰にも悟られないように」
「どうして?」
僕の問いに、佐伯が顔を上げる。
「客観的なことを言うね。播磨は当時小学生だったんでしょ。自分より年下で、動きもどんくさい他人がけがをしないように守るとか、無理だよ。さすがに誰かは気づいてたんじゃない? そうじゃなくても、誰かに協力を頼まないといけないんじゃないかな。本当に『帆波にけがをさせたくない』のであれば、さ」
「……たぶん、誰も気づいていなかったと思う」
佐伯はどこか悔しそうな声で言う。「本当に? 君の勘違いじゃなくて?」と軽く煽ってみるが、ぶんぶんと首を横に振った。どうやら信じた方がいいらしい。
「播磨は本当に小さい頃から帆波と一緒に遊んでたんだって。でも帆波が小学校に上がる時、帆波の両親が、帆波を他の子と同じように小学校に通わせても大丈夫だろうかって話しているのを偶然聞いたらしくて……その時、播磨は帆波が病気だってことを知ったそうだよ」
――おじさんおばさん、それ、おれにも聞かせて。
「帆波の両親は播磨の勢いに押されて、そこでだいたいのことを話したらしい。播磨の両親も――播磨のお父さんが帆波のお父さんの弟だったのだけど――帆波の病気のことは聞かされてなかったんだって。播磨はそれでもぐいぐい聞いて、病気のことを聞き出して、帆波が小学校に上がったときのことを考えた。小学生になったらもっと激しい運動をしたり、けんかをしたりするだろう。僕たちにとっては当たり前のじゃれ合いが、思わぬけがにつながって、帆波の命に関わるかもしれない。帆波の両親はそれを心配していて、播磨もそのことをわかっていた。でもね、それでも播磨は、帆波を小学校に行かせたいって言ったそうだよ」
――帆波は『ふつう』に学校に行きたいって言ってた。それを、おれはかなえたい。
「播磨は帆波が『お兄さんと一緒の学校に行けたらいいな』って言うのを聞いていた。そして播磨も『そうなってほしい』と心から思っていた。だから播磨は帆波の両親に、帆波を小学校に入学させるように、普通の学級に入れるように説得したんだ。『自分がずっとついて見いるから、安心して任せてほしい』って」
「……それ、小学一年生の話?」
「そう、播磨が小学一年生の時の話」
佐伯は感嘆のため息をついた。トイレにはまだ誰も入ってくる気配はなかった。
「本当に、すごいよね……。実際播磨は、自分が小学校にいる間、帆波を守り抜いてみせた。帆波が危なくないようにいつも隣についてやって、そして、ちょっと危険な場面になったらすかさずフォローしてた。僕と帆波が倉庫からボールを出そうとした時、注意をしに来たのもそれだったんだよね。帆波にけががないように気を配って、それでもけがをした時には急いで、でも誰にも怪しませないように保健室に連れて行って……。結局、帆波のクラスメートもクラブのみんなも、僕でさえも……帆波が血の病気を患っているなんて、ちっとも思っていなかった」
懐かしむような眼差しをして、佐伯は言葉を紡ぐ。その瞳に僕は映らない。それでも追いかけるように言葉の続きを待った。
「もしかしたらずっと播磨に隠されたままでいることだってできたかもしれない。でも……いつかは知ったんだと思う。播磨が四六時中、ずーっと帆波の隣にいることなんてできるわけないんだから」
静かな瞳に違う色がゆらめいたかと思うと、佐伯が顔を強張らせる。
「何か、あったの?」
「……僕らが中一の時、帆波が救急車で運ばれたんだよ」
どきりとする。佐伯は僕にかまわず続けた。
「その時は、大事には至らなかったけどね。でも、びっくりしたよ。家に帰ったら親がバタバタしてるんだもの。『どうしたの』って聞いたら『帆波が入院するかも』って言うから、家族全員で大学病院まで行ったんだ。病院に着いて指定された病室に入ったら、ベッドの上で寝ている帆波と、帆波の家族と、播磨がいた。播磨は帆波の隣に立って、じっと帆波を見つめていたなあ」
結局佐伯は小学六年生でクラブを卒業するまでずっと帆波と仲がよかったから、佐伯の家族と帆波の家族も自然と仲がよくなり、家族ぐるみで付き合いがあった。だから帆波の家族は帆波の長期入院について知らせるとともに、佐伯たち一家に帆波のことを説明したという。帆波は生まれつき血の病気を患っていること。それはとても治療が難しい病気であること。もしかしたら、このまま一生治らないかもしれないということ。
「……だから俺が、見てやらなきゃいけなかったのに」
安らかな寝息を立てる帆波を見つめたまま、中学一年生の播磨は呟いた。学生服を着た播磨は容姿も雰囲気もさらに大人っぽくなっていた。ちょうど声変わりが始まっていたため、その声は喉風邪をひいているかのようにかすれていた。
「聡介くんのせいじゃないからね。帆波がたまたま、友達のけんかを止めようとしてけがしちゃっただけだから」
帆波の母親が帆波の担任から聞いたという、事の経緯はこうだった。図工の時間、クラスのみんなで卒業制作を作っている時に男子たちのけんかが始まった。次第にけんかがエスカレートして、そのうちの一人がカッターナイフを持ち出した。帆波は危ないからと、けんかの仲裁に入った。そこで誤って、男子の持ったカッターナイフに刺されてしまった。
「……犯人は、帆波の手に刺さったカッターナイフを無理やり引き抜いた」
播磨は帆波の母親の声なんてまるで聞こえていないかのように言った。その声には播磨が「犯人」と呼んだ帆波のクラスメートへの怒りが滲んでいた。
「無理やり引き抜いたせいで傷が広がったんだ。そして大量出血で帆波は意識を失った。あともう少し遅かったら昏睡状態になっていたかもしれない――」
「とりあえずは帆波が無事だってわかったから、帆波の両親はお医者さんと話をするために病室に残って、僕と僕の両親と播磨で病室を出た。僕の両親は播磨を車で家まで送って行くって言ったけど、播磨は断った」
できることならずっと帆波の隣にいて、一緒にお医者さんの話を聞きたかっただろうね、と佐伯は困ったような顔で笑った。
「だけどいくら播磨が大人っぽいって言っても、播磨は中学生だったから。それに、帆波が大変だって聞いてすぐさま飛んできたのか……だいぶ疲れてるみたいだったから、僕が無理やりうちの車に連れ込んだんだ。そしたら観念したみたいで、おとなしく座っててくれたよ。しかも『つみきの家に行きたい』って言ってくれて」
「嬉しかったの?」
話しぶりから伝わる嬉しさのようなものを、つい指摘してしまう。
「そうだね、嬉しかったよ。ちょっとだけだけど、播磨が僕を頼りにしてくれたような気がしたから」
今度は、どこか疲れたように佐伯が笑った。僕はその真意を図りかねて――そうしているうちに、佐伯は真剣な顔に戻った。
「……播磨が僕の部屋に来るのは初めてじゃなかった。だけど僕と播磨の二人きりだったのはあれが初めてだったと思う。播磨は僕の部屋に入って、いつもの座布団に胡坐をかいた。ローテーブルに頬杖を突いて、お茶も飲まずに、黙って何かを考えている播磨の眼差しには噓がなくて……誰も知らない、『本物の播磨』を見てしまっているようで、どきっとしたことを覚えているよ」
佐伯の口調にはいつもの幼さが滲んでいるものの、まるで深く内省をする時のように落ち着き払っていた。僕はその声に、素直に耳を傾けることができる。
「僕は、初めてそこで確かめた。『播磨が帆波につきっきりだったのは、帆波の病気のことを知っていたからなんだね』って。播磨は頷いて、『そうだ』って言った。それからどういう話をしたかはちゃんと覚えてないけど、僕は初めて、播磨の気持ちをそのまま、はっきり聞いた。播磨は、帆波のことが世界で一番大好きなんだって……。両親よりも兄貴よりも、他のどんな人よりも帆波のことが大事で、守りたいって言ってた。『だから自分が情けない』って、本当に悔しそうにしていた。『どうしてそんなに大事なの』って聞いたら、『俺には帆波しかいないから』って言った……のが、印象的だったなあ。それがどういう意味なのかっていうのはわからなかったけど。とにかく僕は、『播磨には帆波が必要なんだ』って思った……」
佐伯は手のひらをぎゅっと組んだ。そして急に顔を上げたかと思うと、不安げに僕を見つめる。
「鏡味、僕の話退屈じゃない?」
「……へ?」
どうしてそこで僕のことが気になるんだ。話の流れをぶった切るような確認に戸惑いつつも、聞かれたら答えなくてはいけない。
「別に、退屈も何もないよ。聞くって言ったのはこっちなんだから」
「そう? ならいいんだけど……」
佐伯はそう言うと、再び視線を前に戻した。僕は佐伯の話の続きを待つ。……しかし、なかなか始まらない。
何か言いづらいことでもあるのだろうかと佐伯の顔を覗き込めば、佐伯はにやついていた。
「……何ニヤニヤしてんの?」
呆れた声を出せば、佐伯は大げさにのけ反る。
「いや、違くて! ごめんね、真面目な話をしてるのに……なんか、鏡味がちゃんと話を聞いてくれるのが嬉しいっていうか、すっごく話しやすいから嬉しいなーと思って……」
佐伯はまごまごしながら「へへ」と笑った。こいつ、いい加減なことを言いやがって。返答する側のことを一切考慮していない言葉に何と答えたらいいのかわからず、代わりに顔が火照るのを感じる。
「くだらないこと言ってたら出て行くよ。そろそろ誰かが来るかもしれないし、君なんて出番があるんじゃないの」
「あ……待って!」
佐伯が僕の腕を掴む。力は強くて、そして想像以上に冷えている。……緊張しているのかもしれない。
「僕の出番ならまだだから。もうちょっと聞いてほしいんだ、お願い」
「……わかったよ」
僕は佐伯の手をはらう。佐伯が心配しなくても、ここから出て行くつもりはない。
「いいけど、場所を変えてもいいんだよ。ここじゃ狭いし臭いでしょ」
「ううん、今からする話は鏡味以外に聞かれたくないから……。鏡味がよかったら、まだここでいい?」
佐伯の確認には、こちらへの気遣いと同時にわずかな強制が込められていた。それは佐伯の感じている不安や恐怖から来ているのだろう。懇願するように見つめる佐伯の瞳には、先ほどまでは消えかけていた黒いもやのようなものが蘇っているようだ。
「別にいいよ。……播磨と帆波の話だったよね」
そう投げてやれば、佐伯は安心したように話し始める。
「うん。そしてここからは、僕の話にもなるかな」
佐伯はそう言い、苦しそうに息を詰まらせた。胸の辺りをぐしゃりと掴んで呼吸を整えると――決意したように言う。
「この夏、僕たちは『世界の交差』によって『運命』を変えた。そのせいで僕たちは……ずっと、おかしくなってるんだ」




