9話:依頼(③)
◇
――チュンチュンと、鳥の鳴き声が聞こえる。
うっすらと瞼を開いていくと、白、白――足元に散らばる、いくつもの真っ白な本が視界に映り込む。何も書かれていない見開きのページが、大きな窓から入ってくる太陽光を反射して眩しく輝いている。
Lの世界だと認識した瞬間、先ほどの光景がフラッシュバックする。
明るい視界が閉じていく。あの薄暗い倉庫の中を、僕は見ようとする。僕は椅子の上で膝ごと自分の体を抱えた。冷たい汗が出るのに頭の中は熱くて白っぽくなってきて、ぐちゃぐちゃに絡まった思考のせいで何も考えられない。
「巴様」
透きとおった声に呼ばれる。ひょうの声だ。今すぐ縋りたいと思うと同時にそんなことはしたくないと思う。
「巴様、大丈夫ですか」
ひょうの気配が近づいてくる。僕はそれを受け入れることも振り払うこともできない。「助けて」と願ったのはこっちの方なのに、何も言えないどころか何も示せず、ただ俯いて目を閉じていることしかできなかった。心臓の音が気持ち悪い。早くまともに思考がしたい。だけど顔を上げようとするとさっきの光景を――弾かれるような水音を思い出す。
「……ごめん、」
情けない。僕は自分で自分に腹が立った。僕は自分の今の状態を、言葉にしてひょうにちゃんと伝えるべきだ。ひょうは僕の完璧な従者だけど、僕の考えていることは僕が言葉にしないと伝わらない。ただ、言葉にしさえすれば伝わる。そして僕が抱えている問題について、ひょうの視点から意見を述べてくれる。
ひょうは僕の思考の絡まりをほどいて、僕が前向きになるための後押しをしてくれる。僕は何度もそれに助けられてきて、きっと今回もそれを期待したからLの世界に逃げ込んできたんだ。
しかし、早くそうしてもらった方がいいとわかっているのに思考は言葉にならず、声を出すことすらままならない。それをもどかしいと思うと同時にひょうに対して申し訳なくなる。きっとひょうは椅子の上に縮こまって顔を伏せて何にも話さない僕に困り果てているのだろう。早く何か言わないと。しかし渦巻く思考に手を伸ばそうとするだけで悪寒が走る。僕は焦る。僕の作り出してしまっている無意味な時間がどれだけひょうの自由を奪っているのかわからない。
ふわっと、優しい香りが広がる。
思わず顔を上げ、その眩しさにひるんだ。
「とりあえず、お茶にしませんか」
僕の目の前で、淡い色の髪の束が揺れる。
ひょうは隣に立っていた。桜の花びらのように薄ピンク色をした髪は、幻獣の尾のように風のない室内でもゆらめいている。いつも通り制服に白い無地のエプロンをつけて、優雅な所作でガラスのティーポットを傾けていた。香りの出処はそこだった。ひょうは白いソーサーに白いカップ――正確に言えば、白い陶器の茶碗――を乗せて、黄金色の液体をなみなみと注いでいる。
「カモミールとビターオレンジのブレンドです。どちらも、心に安らぎを与える効果があるんですよ」
ひょうに室内でお茶を淹れてもらうのは初めてかもしれない。どこにも行かない甘い湯気が、冷たい空気をあたためていく。
「安らぎ?」
「ええ。多少苦みがあるかもしれませんが、どうぞ」
「……大丈夫」
テーブルの上の茶碗を両手で包み込み、香りを吸い込む。リンゴを煮詰めたような甘い香りだ。そして、口をつけた。
香りの割に、ハーブティーはそんなに甘くない。しかしひょうが言うほど苦くもない。不思議な味だ、ともう一口飲めば、そのあたたかな飲み物はさらさらと僕の混乱を洗い流していくようだった。
「おいしい……」
「ありがとうございます」
つぼみがほころぶような笑顔でひょうは応じた。僕はそれに不覚にも安堵してしまう。
ここに逃げてきて、よかった。きっとひょうなら僕のことを助けてくれる。
しかし僕は、自分がひょうにかけた言葉を思い出す。
この世界は僕にとってただの「慰め」で、現実逃避でしかない。
ひょうに優しくしてもらうことは、僕にとって、何の解決にもならない。
テーブルの上に茶碗を置く。手が震えてとてもじゃないけどソーサーに置けない。体の芯から鉛に変わっていくような重たさに蝕まれ、僕はまた不安と混乱に陥っているのだとわかった。
「……ぐ、」
僕を呼ぶ、ひょうの声が遠くに聞こえる。僕がひょうのことを信じることができないからだ。これは弱さなんだろうか。それとも僕が身勝手なんだろうか。僕はひょうの優しさを、自分にとって都合のいいまやかしだと思ってしまう。
「――巴様、こちらを見てください」
美しくて、力強い声に引き戻される。
顔を上げれば、僕の前で跪いているひょうと目が合った。
透明で、薄く水色がかかったビー玉のような瞳が、世界中のあらゆる時間帯の光を集めたみたいにきらきらと煌めいている。
こちらを覗き込む眼差しは、どこまでも透明だ。あたたかくてつめたい。厳かにゆるんでいる。公平で、広がっていて、何も語らない。
……僕は急に、自分が何を考えていたかを忘れてしまう。
「いかがですか?」
そう言って、ひょうは少し首を傾けた。その動作に夢から覚めたような心地がした。
「……君、今何かした?」
「そうですね」
ひょうの言葉に僕は驚く。
「何をしたの?」
ひょうは、うーんと唸って困っているようだった。どうしてそれはわからないんだと追及しかけた時、ひょうは思いついたように言った。
「これも、『ヒント』かもしれませんね?」
「『ヒント』?」
「巴様の〈助けて〉という願いを叶えるために、必要なことかもしれないと思ったんです」
ひょうは僕の手を優しく取った。その手は冷たく、さらさらと乾いている。
「……不思議だよ」
口から「言葉」がこぼれ落ちる。ようやく、思っていることが言葉となって外に出て行く感覚にほっとする。ひょうはその穏やかな瞳のまま、僕に「不思議とは?」と聞き返した。
「僕は、たとえ君からであっても、今は誰にも触られたくないんじゃないかと思っていた。だけど、大丈夫みたい。それに、さっきまでは混乱していたのに……心が落ち着いている。だんだん、はっきりとしてきた」
ひょうのひんやりとした手を握りながら、僕は話す。その冷たさが、僕の思考の絡まりをほぐしていくようだった。
その最中、僕は思いついたことを口にする。
「前もこんなことなかった?」
「え?」
「ほら、学校の屋上で、君が僕を見つめた時だよ」
確か、「仁」と二度目の邂逅を果たした時だった。その時僕たちは、仁を前にして視線を交わし合った。僕にとって、それは一種のコミュニケーションのつもりだったが、ひょうに見つめられた瞬間、僕は「今まで考えていたことのすべてを瞬間的に忘れていた」。
もしかしたらまったく別の事象なのかもしれない。だけど、その感覚が似ていた。思考を強制的にリセットされる感じと、意識に大きな空白が生まれる感じが。
「どういう理屈? 君、わかってやってる?」
「さあ……」
ひょうは本当にわかっていないような顔で考えている。っていうか、何かを知っているのにごまかすのであればそれは僕との約束を破っていることになる。僕に疑いの目を向けられていると気づいたひょうは、こちらを向くと気楽そうに微笑んだ。
「今回に関してはなんとなくそうなるだろうと思ってやりましたが、理屈はわからないですね。まあ、巴様のお力になれたのであれば結果オーライでしょう!」
「……はあ」
実際、ひょうの言うとおりである。僕はだいぶ平静を取り戻すことができたのだから。しかし、相変わらず緊張感のない話し方に僕は呆れてため息を吐いた。ちょっとだけ気が抜ける……そして、明瞭になった頭で考えないといけなかった。
これで、ひょうに〈助けて〉もらうという願いは果たされたのだろうか。何にも解決はしていないけど、一件落着、「結果オーライ」だ。またあの思考に戻れば僕は混乱してしまう。それなら意識に蓋をする方がいいのかもしれない。
すると、ひょうの冷たい両手が僕の手を包んだ。
「巴様が今考えておられること、よければ私に話してくださいませんか?」
ひょうは、そのしずかな瞳で僕を見つめていた。
僕は――悩んでしまう。その選択をするためにはいろいろな要素について考え、吟味する必要があるから。だけど、ひょうが美しい声で引き留めた。
「上手く言葉にできないのなら、その理由から聞かせてほしいです。話すのをためらうようなことならば、どうして貴方がためらっているのか教えてくださいませんか。話の筋が通らなくても構いません。貴方が今感じていることを、聞かせてくださいませんか」
「……何のために?」
僕は思わず訊いていた。ひょうは迷わずに答えた。
「貴方を楽にしたいから。『正しい』とか『正しくない』とかはいったん脇に置いておいて、貴方が思っていることを聞かせてほしいんです」
ひょうは微笑んで、そして手を離した。
「正しい」とか「正しくない」とかはいったん置いておく。それが、僕が楽になることに繫がる……のか。
「楽になることって、『正しい』とか『正しくない』とかに関係がないのかな……?」
そう問うと、ひょうは微笑んだままで立ち上がった。
「それはどうでしょう」
僕の隣に立ったひょうは、黄金の液体が入ったティーポットを揺らした。甘い香りが再び室内に広がって、僕はその広がりとともに視野が広がっていくのを感じる。隣に置かれたテーブル、飲みかけのハーブティー。部屋は床に置かれたたくさんの本で散らかっており、ガラス戸から差し込む陽光は、もしかして少しだけ角度が変わっただろうか。
「貴方は『他人から優しくしてもらったり、慰めてもらったりすることっていうのがまったく意味のないこと』と仰いましたね。私はそのように貴方が思われることについて否定する気はありません」
「うん」
「ただ、今、『貴方が苦しんでいる』という事実は『確かに存在する』ように見えています」
僕はひょうの顔を見た。ひょうは頷く。
「貴方はそれらの『慰め』が、事態の『改善』にはならないと仰いました。確かに『解決』ではないかもしれませんが、私は、苦しみが少しでも和らぐのであれば、それも一つの『解放』かと思います」
「『解放』……」
「貴方が感じる苦しみは、確かに存在する事実です」
ひょうは力強く言った。そのことこそが、それが事実であることの裏打ちであるように感じた。
「正しいとか正しくないとか、意味があるとかないとかを考えるより前に、その事実は存在しているはずです。私はそこに、必ずしも理屈を通す必要はないと思います。だから私は貴方の感じていることを、ありのまま聞かせてほしいです。……その後、私が巴様にできることは何もないかもしれませんが」
ひょうは困ったような顔で笑った。その言葉でようやく、決心がついた。
僕の苦しみについて話すことなんて、他人にとってはまったく意味のないことだ。なんなら僕にとっても意味がない。解決しない問題について考えることも、心を悩ませて不安になることも時間の浪費にすぎない。それを他人の前でするなんてもってのほかだ。僕は解決しない問題に他人を付き合わせたくない。時間を奪いたくない。後で罪悪感に苛まれるくらいだったら最初からそうしない方がいい。どう考えたって、僕が僕自身で苦しみを抱えたほうがいい。
だけど、僕が苦しいと感じることは確かだ。
「……今からするのは、本当に『意味のない』話だよ」
僕は改めて茶碗を手に取った。一気に飲み干せば、すっかり冷めたそれが僕の言葉の余分な熱を取ってくれる。
「僕は君に相談したいことがある。冷静な君に、聞いてもらいたいことがあって……でも、それを話すためには僕の苦手なことについて話さないといけない。それが嫌で、どう伝えたらいいのかわからなくて、我慢した方がいいのかもしれないと思って頭の中が混乱してしまった。……僕は、『性的なもの』が苦手だ」
それらを一息に言う。僕は、再びパニックになってしまわないか……しばらく待ってみるも、うっすらとした嫌悪感に包まれるだけで、まだ大丈夫そうだ。
「……『性的なもの』」
ひょうが、その美しい声で復唱する。ガラス細工のように美しい造形をしたひょうはきょとんとしていた。やはりと言うべきか、その瞬間にあらゆる意味での罪悪感が僕に押し寄せた。
「いや、この話はやめよう! 君にするべきじゃない」
「私なら大丈夫ですよ。ただ、続きを聞きたいなと思っていただけです。どうして巴様が苦手に思っておられるのか」
ひょうはそう言い、僕の茶碗にハーブティーを追加した。僕はとうとう話さないといけないと思った。本当にこいつは、僕の話を聞いてくれる気だ。
「……嫌だと思ったらいつでも止めてね。あと、ここで話したことは誰にも話さないで」
「わかりました」
「じゃあ、隣に座って。ひょうの分のお茶も用意してよ」
ひょうは頷いて、僕の隣に腰かける。そして空いた茶碗にハーブティーを注いだ。その動作が完了してしまう前に何をどこから話そうか考えようとしたけれど、無駄のないひょうの動きに易々(やすやす)と追い抜かれてしまう。僕は観念して、何度も頭の中で繰り返したことのある、とりとめのない話を始めることにした。
――僕にはおそらく、俗に言う「性欲」というものは人並みにあると思う。「性的なこと」についてまったく知らないわけじゃないし、言ってしまえばまったく興味がないわけじゃない。また、何か、「性的なもの」に関連して嫌な思いをしたことがあるわけでもない。今回は、嫌な思いをしたけれど……。その前に、そもそも、僕は「性的なもの」に対峙した時の、自分の心の動きが苦手なんだと思う。
「どんな動きなのでしょう」
再び一息に言えば、ひょうは慎重に訊いてくる。
「……『わけがわからなくなる』んだ」
その様子を説明しようとすると、また頭の中がぼんやりしてくる。
「頭の中にあったはずの思考が、一気にどこにあるのかわからなくなる感じ……。視界が急に暗くなって、頭の中が真っ白になって、『自分』がどこに行ったのかわからなくなる。夢の中みたいにすべてがぼんやりとして、何を掴むこともできなくて、『自分』がなくなったような感じになるのが、怖いんだ」
言語化できないものを、何とか言葉にしようとしているうちに、僕はその強大な「わけのわからなさ」に対して「怖い」と感じていることに気づいた。
念のためひょうの様子を窺うが、表情を変えることなく黙って僕の話を聞いている。おかげで少し冷静になることができる。
「たぶん、『性的なもの』を見ると、判断が曇るというか……強制的に、判断を曇らせられるんだと思う」
「その『判断』とは、どんなものでしょう」
ひょうが穏やかに訊く。僕は自分の実感の中に答えを探した。
「『何が正しくて何が正しくないのか、自分の頭で考えること』かな。僕にとっては……」
言いながら、きっとそうなんだろうと、遅れてわかってくる。言うなればそれは、「理性的判断」というものだ。自分の感じていることは完全に隅に置いて、それが正しいのか正しくないのか、吟味すること。できるだけ冷静に対象を見つめて、正しい判定を下せるようにすること。……それは、僕が「世界の交差」を解明する際に行ったことだ。
だけど、僕は「性的なもの」を目の前にすると、それらの判断の一切をすることができなくなってしまうし、そうならないようにするための制御を自分ですることができなくなってしまう。それが、恐ろしいのだ。あんなにも緻密に組み上げてきた自分の論理が、理性が、それらの前では簡単に崩壊して、舵を取ることができなくなる。よりにもよって、「性的なもの」なんかの前で。
「つまり、『馬鹿になる』んだ。僕は、強制的に『馬鹿にさせられる』ことが――自分の力でそれを回避できないことが、怖いんだと思う」
僕は、自分が自分でなくなるのが怖い。自分のペースを何者かに奪われると緊張する。とてもじゃないけど、それによって――一般的な「気持ちよさ」を感じることはできない。
「もしクラスメートのやつらとかに言ったら、笑われると思う。男子ってそういう話が好きなんだ。ていうか、それは大人になってもそうなんだろうけどさ……。『気持ちいいこと』って『馬鹿になること』同義だと思うんだけど、なんか正当化されてる。一応女子たちには遠慮してるみたいだけどさ、隙あらばそういう話をしようとするし、そういうのがみんな好きだと思ってるし、それって大人になっても変わらないみたいでコンビニには誰にでも見えるところに堂々とエロ本が置いてあるし、そこで堂々と立ち読みをしているやつだっているんだよ。おかしいよね? なんであいつらは『馬鹿になる』ことが恥ずかしくないんだろう。『馬鹿になること』を楽しめるんだろう。人前に晒せるんだろう、他人と共有することができるんだろう。僕には絶対に無理だ。僕は馬鹿になれないし、馬鹿なところを他人に晒したくもない」
言葉にすればするほど、自分の気持ちがわかってくる気もするし逆に遠のいていく感じもある。僕はまるで他人に対して怒っているようにも見えるかもしれないが、本当のところはどうだっていい。それよりも「性的なもの」を前にしたときの、馬鹿になってしまう自分自身が苦手なのだ。それを自分の力で制御できない自分の弱さだけが嫌いなのだ。僕はそのどう解決することもできない激しい嫌悪を他人の言動に延長させて勝手にわめいているだけだ。これは僕自身の感情から生まれる、僕自身の問題でしかない。他人からすれば「意味のない」感情でしかない。……解決策のない、僕の苦しみでしかない。
しかし、不思議と気持ちは落ち着きつつあった。先ほどまで胸の中に渦巻いていた熱い淀みのような嫌悪感が外に出たからだろう。思考の老廃物とも言えるそれらを口から垂れ流して、僕は卑しくもわずかな快感とともに不安や緊張から「解放」される。ぼうっとする頭でひょうを見れば、ひょうは両手で茶碗を包んで、僕の様子を見ている。……ああ、悪いことをしたな。僕はこのくらいにしておかなければならない。自分自身の尊厳のためにも。
「もう、大丈夫だよ。聞いてくれてありがとう」
「もういいのですか?」
気を遣って続きを促してくれたが、僕は首を横に振る。
「大丈夫。だいぶ言ったと思うし……それより、君は僕の話ってどこまでわかった?」
僕の感じる浅ましい欲望や苦しみなどひょうにわかるはずないだろう。そう思い、わざと軽い調子で訊いてみる。案の定、ひょうは困ったような顔で首を捻った。
「そうですねえ。申し訳ないのですが、私は巴様の感じる『わけのわからなさ』みたいなものを感じたこともないですし、巴様の考えていることに共感することもできませんでした。……はなから、わからなかったかもしれません」
ひょうは正直に答える。そのことに、僕はとても安心した。
「それでいいんだよ。君に同意を求めて話したわけじゃないんだから」
もう一度だけ、聞いてくれてありがとうと伝えておく。自己満足に付き合ってくれた人に僕がすぐ返すことができるものなんてこれくらいしかない。
ひょうは「どういたしまして」と軽やかに言った。ひょうの態度と美しさは僕が自分の醜さを晒しても、ひょうにとって何の実りがない話に付き合わされてもまったく変わることはなかった。そのことが搾取みたいでどこか申し訳ないなと思いつつ――せっかく与えてもらえた心の落ち着き、僕のための時間を無駄にしないように、僕は気を取り直してひょうに相談をすることにする。
「それで、ここからが本題だよ。君にとっては理解のできないことだらけかもしれないけれど……僕は、ここに来る直前に……同級生が男同士でキスしているところを見た」
僕が見たのは「佐伯と播磨のキスシーン」だ。
念のためひょうの様子を確認するも、ひょうに変化はない。予想通りだ。
「そいつらのうち、片方が『世界の交差』の関係者なんだ。そいつはある条件を満たした人間――『世界の交差点』を通ったことのある人間の『運命』を変えることができる。僕もそいつに『運命』を変えられて、文化祭の途中、そいつらが隠れてキス……する現場を目撃させられた」
状況を説明しながら、じわじわと嫌悪感に苛まれていく。あいつ、なんで僕を呼んだんだろう。どうしてあんなものを見せたんだろう。
「その『世界の交差』の関係者が、貴方に現場を見せた理由はわかりますか?」
ひょうは冷静な声で訊く。
「わからない。嫌がらせじゃない?」
言ってしまってから恥ずかしくなるくらい思考停止の言葉だと思った。
「何か、それ以外の理由があるのでしょうか。巴様は、それについて考えたいですか?」
僕の発言を真に受けず、ひょうは僕の方を見る。その瞳は穏やかで、微笑みには余裕を感じる。僕はキスの現場を目撃した時の動揺と佐伯に対する苛立ちの両方が同時に湧いてくるのを押さえつけながら――ああ、それって別のものだったのかと気づく。僕の感じる「性的なもの」に対する動揺と、佐伯の件は別の問題だ。ここはちゃんと、区画を分けて考えることができるかもしれない。
「……考えてみる。僕が考えられるところまで」
「そうですか。ご無理はなさらないように」
ひょうは僕に、その場面に至るまでの経緯を話すよう要求した。だから僕は話した。二学期に入ってから佐伯が自分に絡むようになったこと、それには「世界の交差」が絡んでいたこと。佐伯は僕に「運命」を変えてほしいと依頼をしてきたが、僕はそれを断った。しかしよりにもよってその翌日に、佐伯はあのショッキングな場面を僕に見せた。
「巴様がその場に行ってしまったのは、佐伯様の能力なんですよね。佐伯様が、『巴様が佐伯様に注意を向ける』という『書き換え』をしていた、ということでしょうか」
説明の都合上、ひょうには佐伯と播磨の名前を共有した。ひょうがRの世界のやつらの名前を呼ぶことにやや違和感がありつつも、気にしたってしょうがないので吞み込む。
「そう。あ、でも、たぶん違う。佐伯が僕に注意を向けさせてるのは、佐伯自身じゃなくて播磨の方っぽいんだ」
これまでの経験からそれは明らかだ。僕が注目させられているのは播磨であり、佐伯のいる場所については播磨のいる場所、播磨の視線の先から割り出すことができるだけだ。
「おそらく佐伯の最終目的は『播磨の運命を変えること』なんだ。播磨の運命が変われば、きっとあいつの言っていた佐伯自身やマスターの運命も変わる。それがどういう風に繫がるかはわからないけどね。ただ佐伯としては厄介なことに播磨はまだ『サインイン』を済ませていないから、佐伯はゼロのノートで播磨の運命を変えることができないんだろう。そこでたまたま『サインイン』を済ませている身近で手ごろな存在である僕のことを使役して、『播磨に注意を向けさせている』ということだと思う」
「……『播磨様の運命を変えること』と、『巴様が播磨様に注意を向けること』の間には、大きな隔たりがあるように感じますね」
それは正直僕も思っていた。なぜ、佐伯は僕の運命を変えてまで、僕を播磨に注目させるのだろうか? 佐伯が僕に依頼をするだけなら、そのステップは必要ないはずだ。なぜなら、佐伯は僕を口先だけで説得するだけでいいんだから。結局僕は受けなかったけど。
「何か、『播磨様に注意を向けさせられて』困ったことはありましたか?」
「ずっと変な感じはあったけど、困ることはなかったと思う。しいて言えば、今回の件かな……」
僕は佐伯から無理やり「播磨に注意を向けさせられた」ために、わざわざ人混みでごった返す中を逆走させられ、体育館に侵入させられ、彼らのいる小部屋の扉を開けさせられた。佐伯の「書き換え」さえなければ僕は、彼らのキスシーンなんて見ることはなかった。
「……そう思うと、佐伯は僕に、佐伯と播磨がああいうことをするところを僕に見せたかったんじゃないかって思うんだよね。でも、ちょっと違和感はあって……」
「違和感?」
「言葉にするのが難しいんだけど……そもそも、佐伯は、播磨の行動をコントロールすることができないわけじゃんか。でも、あの様子だと……たぶん、佐伯じゃなくて、『播磨がふっかけた』と思うんだよね」
佐伯を体育館に連れ込むのも、佐伯を壁に押しやったのも――あくまでこれは推察だけど、二人の歩き方やキスをするときの様子からして、播磨が積極的に仕掛けているように見えた。いつも佐伯に絡もうとするのは播磨の方だ。
「佐伯はもしかしたら、播磨がああいうことをするって知らなかったんじゃないかなと思う。だけど同時に、播磨の行動に対して、僕が注意するように仕向けていた……」
「播磨様が佐伯様に『何か』するかもしれないことを、佐伯様は予想していた」
「その『何か』を、佐伯自身がわかっていなかった……?」
もしそうだとしたら、佐伯にとっても「播磨にされたこと』は予想外のことだったということになる。しかし、「播磨に『何か』をされること」には気づいていた。
「それを目撃させたくて、僕のことを操っていた……ということかな。でも、どうして目撃させたかったのかは不明だね。それは佐伯の意図だから」
他人の意図するところは、僕があれこれと思いを巡らせるより本人に聞いた方が早くて正確だ。これはこの夏、牧田先輩から教わったことだ。
「ええ。あとは、播磨様が『ふっかけた』意図も、不明ではありますが……」
ひょうは真剣な顔をしたまま僕の顔を見る。
「……何か、『違和感』があります」
違和感。僕もうっすらと感じ続けてはいるのだが、それがどこから来ているのかは判別できない。それはおそらく例の「わけのわからなさ」と関係があるのだろう。僕はあくまで自分の「性的なもの」に対する恐怖や嫌悪感と、佐伯や播磨の問題は分けて考えているつもりだ。その上で佐伯や播磨の問題を考えようとしても――どうしても、「性」と向き合わなければいけない。どうして播磨は佐伯にキスをしたのか。自分と同じ男である佐伯とキスができるのか。彼が言っていたように、彼は佐伯を「愛してる」から……? もしそうだとしたら、それは理屈という、この世界を理解するための網目のようなものからすり抜けてしまうのだと僕は思う。いくら冷静に、理論的に把握したいと願っても、性愛の前にその網目は通用しないということを僕は実感しつつあった。
しかしそれは置いておいたとしても、ひょうの言うとおり、播磨の行動には何か違和感がある。
「――もしかして、お帰りになるんですか?」
ひょうが訊いてくる。どうしてバレたんだろうと思ったが、僕が茶碗のハーブティーを飲み干したのを見てそう予測を立てたのだろう。
「よく見てるんだね」
「はい。貴方の従者ですもの」
ひょうはそう言って、自分の胸に左手を添えた。久しぶりに見るような気がして懐かしい。
「従者として、よろしいですか?」
めずらしい切り出し方に驚きつつも、僕は「どうぞ」と促した。
「今からRの世界に戻り、佐伯様と播磨様に会って、お二人の意図を聞こうと考えられているのでしょう。……それはどうしてですか?」
「どうしてって……」
僕が質問の意図をはかりかねていると、ひょうが語り始める。
「貴方は、人から『道具』として扱われたくないはずです。また、『世界の交差』にとって必要不可欠な人と関わることで、逆に自分は『特別』ではなく『普通』であるということを突きつけられた経験もあるでしょう。彼らは、悪気なく『そうする』かもしれません。彼らは彼らの都合で、貴方のことを利用し、消費するかもしれません。それでもよろしいのですか」
淡々としたひょうの言葉――自分の頭の中にあったけれど、まさか他人の口から出てくると思っていなかった言葉に、返す言葉を失ってしまう。
もちろん、ひょうが僕の思考を「読んだ」とは思っていない。だからこそ、驚いているのだ。そうしてそんな思考がひょうの中にあるのかと。
「……僕のこと、心配してくれてる?」
ひょうの顔から表情が消えた。そして、いつものひょうに戻っていた。不思議なことに、つい先ほどまで残っていた表情がどんなものだったのか思い出せない。
「もちろんです。私は巴様の従者であり、味方ですから」
ひょうは隣から手を伸ばして、両手で優しく僕の手を包んだ。その手は相変わらずひんやりとしている。少し冷えすぎているほどだ。
「私はいつも貴方の傍にいます。貴方の考えを尊重します。必要な時はいつでも、私のことを思い出してください」
強めに手を握り込まれて、僕は胸の奥がつんとした。ひょうの手の冷たさが胸の隙間に届いたかのようだった。それだけで少しは慰められたような気持ちになる。僕はそれをまやかしだと言って拒否することもできるが、今は受け取ることにした。せっかくひょうが、与えてくれたものだから。
「……君がそう言ってくれると、安心する」
素直な気持ちを言葉にすれば、おもむろに、穏やかで抗いがたい眠気が僕を包む。目的を果たしたから「世界の交差」が起きるのだろう。僕の様子に気づいたひょうがその手を離そうとする、が、僕は逃がさなかった。
「いつもありがとう、ひょう」
ひょうの手の冷たさが心地よかった。それは人が眠りにつく時に体温が下がっていくときの心地よさだった。体にこもった熱が手のひらを伝って逃げていき、僕は眠くなってくる。僕に手を掴まれたひょうは、僕の手を握り直した。
「どういたしまして、巴様」
ひょうの声は春の空のように穏やかで、小川のせせらぎのように澄み渡っている。僕はその声をいつまでも聞いていたいと思った。そしていつでも、その美しい微笑みとともに思い出すことができるだろう。




