あぁ幻の新幹線機動作戦~
東海道新幹線に貨物列車が導入されようとした頃のお話
昭和39年東海道新幹線が開通した時、貨物列車が計画されていたのは、今となっては驚きだが、現実にはターミナル用地なども取得されたりしていたのである。
これに反応したのが、陸上自衛隊の機甲科であった。
当時構想された「新幹線貨物列車」の幅は3350ミリ、つまり当時の主力戦車61式戦車の約3メートルを上回るサイズであったためである。
この列車数本に先遣対応部隊としての1個戦車中隊を初めとする機甲科、普通科、特科など小規模な「戦闘団」を分散して乗せ、東京、名古屋、大阪と主要な大都市を護ることを考えたのである。
また補給物資もあらかじめコンテナに搭載して備蓄、部隊編成や所要量に応じ積み替えられるのも補給する側からも歓迎された。
なおこの貨物列車はコンテナ列車であり、単純に61式を載せることが可能、と言う訳ではないが従来の国鉄の狭軌からくる制約より緩くなるのが歓迎されたのである。
ただ、技術的な問題の他に、当時の国鉄のややこしい労使関係もあり、単に「戦車他の陸上自衛隊の車両を新幹線で運ぶ」だけなら、激しい組合からの反発を覚悟する必要もあった。
ただしいかなる政治的奇跡か、組合からの反発は今回限り大人の対応であった。
それは昭和40年代の日本列島が様々な怪物、異星人、その他からの侵入、侵略を受けていたからである。
東京はでっかいとかげ?の親玉に蹂躙され、あるときは東京タワーに巨大芋虫来襲、富士山山麓には異星人とまあ、いろいろ来たわけで、それを撃退するにはなけなしの防衛予算を有効活用するしかないとの政府のさまざまな方向からの「説得」が効を奏したのである。
こうして防衛庁と陸上自衛隊は新幹線貨物列車を期待、いや熱望したのであるが、なんと新幹線で貨物列車を走らす計画そのものが、中止。
はしごを外された格好の防衛庁が運輸省に説明を求めたところ、「ご免なさい、あれはハッタリでした」とのこと。世界銀行からの融資を受ける際の説明に使う「旅客だけじゃなく、貨物列車も走らすから経営は安定するよ」と言う程度のものだったそうだ。
一方で、新幹線が走り出したら旅客はうなぎ登り。
夜間に貨物列車を走らせたりすると、保線のスケジュールが難しくなったりと、現実からの制約が明確になったのも足を引っ張ったらしい。
こんなことなら、鉄道連隊おいときゃよかったと悔やむ陸上自衛隊でありました。
あのときできなくてよかったんだろうか?それとも?