第28話「ニンファエアとサーシス(蘇)」
隼人の義姉――凛花視点での回想、最終話になります。
取り調べは滞りなく進んだ。
IEAの本命は母であり、私はたまたまその現場に居合わせた彼女の娘に過ぎない。
母に関する幾つかの質問と、研究室に居た訳を尋ねられ、当たり障りのない答えを返し続けた。
ちなみに、ここで言う「当たり障りのない答え」とは、母を庇うことではなく、私と隼人に白羽の矢が立たぬよう取り繕うことだ。
あの研究室が差し押さえられた以上、母の罪が暴かれるのも時間の問題だろう。
「――しかし、よくもまあ、こんな恐ろしいことをね……。自分の息子を実験に使うだなんて」
私の取り調べを担当していた女性職員が、調書をまとめながらポツリと呟く。
印象からして30代前後。ふくよかな身体つきと、赤の丸眼鏡が印象的な女性だ。
心の内が漏れていたことに気がついたのか、彼女は少し申し訳なさげにこちらに目をやる。
「ごめんなさい。貴方の実の母親なのにね」
「いえ。そう思われても仕方がないことを、母はしました」
私は、彼女の言葉の節々にこちらへの同情が含まれていることを感じ取る。
これは使えそうだ、と私は思った。
「先日父親が亡くなって、今回の件で母親まで捕まってしまったら、私と弟の行く当てがなくなります。それに弟は……」
いま隼人の置かれている状況は、すごく微妙だ。
ただ可哀想な被害者として処理されるか、人類で初めての試みが成功したサンプルとして扱われるか。
恐らく可能性が高いのは後者だろう。
だから、私はIEAの思惑を知っておく必要があった。
「そうね。弟くんの状態が分からないことには何とも言えないけれど、数週間はIEAに保護されることになると思うわ」
彼女の言葉に、私は内心舌打ちをする。
私が知る限りで、レヴェナント現象において久遠春香の右に出る研究者などいないだろう。
だからIEAに保護されたとして、隼人の容態が回復に向かうとは思えなかった。
そんな私の懸念を読み取ったのか、彼女はフォローするように言葉を継ぎ足す。
「もちろん弟くんの回復が最優先。だから、貴方の母親の手も借りることになる。もちろん、厳重な監視の下でね」
「母も?――でも、罰則で研究職は剥奪されるのでは?」
「それは免れないけど、IEAもそう易々と隼人くんの存在は見過ごせない。上層部の判断も揺れると思う。だからその取り扱いを心得ている久遠春香を、どんな形であれ手元に置いておきたいはずなの」
彼女の説明を聞き、ほっと胸を撫で下ろす。
一番の懸念材料であった隼人の安否は、暫くは保証されそうだ。
その根拠が隼人の身体に利用価値を見出されたことなのは、いささか気に食わない部分ではあったが、今はそんな贅沢も言っていられないだろう。
ぎゅっと結ばれた自分の両手に視線を落とす。
今はこれが最適解。
自分の至らなさはこの一日で痛いほど分からされた。
しかし、逆に言えば今日の出来事が私の意志を確固たるものに変えてくれた。
研究者として、また女性として、久遠春香という幻影を超える。
それは彼女と同じ血を分けた私にしかできないことで、隼人をこのしがらみから救う唯一の手段でもある。
「貴方と弟くんは血が繋がってないのよね?」
ふと彼女は思い出したように尋ねてくる。
「はい――」
一拍置いて私は応える。
その事実があったからこそ、私は一歩引いた傍観者でいることを選んだ。
母が久遠透に想いを寄せたことをきっかけに、私と隼人の関係は赤の他人から姉弟に変わった。
それは裏を返せば、私たちの関係は母の上に成り立っているということで、彼女が夫である久遠透から離れれば、私と隼人の繋がりもそこで途絶える。
たぶん、私はそれが怖かったのだ。
隼人の幸せは家族の中でしか有り得ないと勝手に決めつけ、その結果が今の事態を招いたのだ。
私の甘さと弱さが隼人を傷つけた。
一つ息を吸い、視線を目の前の彼女に据える。
過去の自分を断ち切って本当の気持ちを自覚するため、あえて言葉にしよう。
「でも、血の繋がりに囚われることがいかにくだらなかったのか分かりました。私も隼人も、血液型は『同じ』A型なんです。隼人が命の危機に瀕したとき、自分の血を分け与えられる、それだけで私にとっては十分な繋がりです」
それを聞いた女性職員はポカンと口を開け、呆然としていた。
少し逡巡したあと、励ましとも投げやりともとれる、曖昧な言葉を私に返した。
「――そうね、血縁なんて愛さえあれば関係ないわ」
***
梅雨の湿気で毛先が肌にまとわりつく。
七月末になるというのに、頭上を覆う灰色の雲は梅雨明けの気配すら感じさせない。
私は大学のキャンパスを抜け、かつて母が籍を置いていた附属病院へと足を進める。
母が研究職を剥奪されて、もう十数日が経っていた。
私の取り調べを担当した女性職員が言っていた通り、母に下された処罰は思ったより軽めのものだった。
隼人は阿僧祇附属病院に入院することになり、何人かの監視をつけることを条件に、傷つけた張本人でありながら唯一の専門家でもある母によって治療が行われている。
無理な薬物の投与と度重なる拷問の傷で、隼人の身体はすぐに日常生活を送るのが厳しいほどに弱っていたらしく、長期の入院を余儀なくされた。
「316号室の久遠隼人のお見舞いに来ました」
一階の受付で手続きを済ませ、足早に階段を登る。
予備の着替えやその他諸々が詰められている大きめのショルダーバッグが、一段登るたびに激しく揺れた。
目的の部屋に辿り着き扉を開くと、右奥の方に、半身を起こしてテレビを眺めている隼人の姿があった。
「隼人、具合はどう?」
そう声をかけながら近づくと、隼人もこちらに気づいて目線を動かす。
「お姉ちゃん。まだちょっと頭がボーッとしてるけど、それ以外は問題ないよ」
私は背負っていたショルダーバッグをドスン、と床に降ろす。
それを目にした隼人は、少しギョッとしたような表情を浮かべた。
「な、なにその荷物は……?」
「一週間分の着替えと生活用品」
私は明日から一週間、研修に行かなければすならない。
もちろんそんな研修より隼人の側に居てあげたい。だけど、側にいるだけでは何もできない。隼人の治療に当たっているのが隼人を傷つけた母だという事実が、それを裏付けていた。
隼人の力になれるのは、義姉の私ではなく研究者としての私なのだ。
「大事な研修なんでしょ? 一週間ぐらい大丈夫だよ」
事情を話すと、隼人は心配しすぎとでも言いたげな表情を浮かべた。
「何かあったら、すぐ私にメールして。――何かなくても、メールしてくれると……その、嬉しいけど」
すると、隼人は携帯を取り出し、何かを打ち込む。
ピロン! という着信音が私の手元で鳴った。
『分かりました、お姉ちゃん』
画面には、隼人から届いたメールが写っていた。
隼人はにこっと人懐っこい笑みを浮かべている。
「今は普通に話せばいいの!」
そう言って、私はそのメールをこっそり保護した。
◆◆◆
空は相変わらずの曇天で、ここしばらく日差しもお目にかかれていない。
にも関わらず私の心が晴れ渡っているのは、手元に輝く液晶のせいだろう。
『昨日は、リハビリで30分ぐらい外を散歩しました。入院したての頃は、自分の身体じゃない感じで思うように動かせなかったけど、今は問題なく歩けています。先生からも、この調子なら一時退院もすぐだと言われました。お姉ちゃんもたまには息抜きで散歩でもしてみると、気分が晴れると思います』
メールだと敬語口調になる隼人を可笑しく思いながら、液晶を指でスクロールしていく。
日光での反射がないため画面はみやすく、そういった意味で曇り空も悪くはないのかもしれない。
だけど、続く言葉が私の心にも暗雲を呼び込む。
『――お母さんは、日に日に痩せ細っています。目の下には大きな隈ができていて、言葉をかけてもあまり反応してくれません。僕が元気になっていくのと反比例するように、お母さんが弱っていくのは見ていて辛いです』
隼人が律儀に母の状態を報告してくるのは今回に限ったことではない。
胸中にはもう一度家族三人で暮らしたいという思いがあるのだろう。
だけど、私がそれを許さない。無意識に握りしめていた拳を解き、一つふぅっと息を吐く。
研修は今日が最終日だ。
私は自動返信にも負けない速度で隼人に返事を送り、液晶から光を消した。
次に画面を開いたのは、お昼休憩の時だった。
隼人とのやりとりが終わらないよう、いつも私はメールに問いかけを含ませている。律儀な隼人なら必ず答えてくれるからだ。
だが、画面にメールの通知は届いていなかった。最後に隼人に送ったメールにも、何かの面接かと思えるほど質問を多用したはず。
携帯を扱えない状況にいるのかもしれない。
けれど今の隼人の容態はかなり回復していて、数時間も拘束されるような検査はないはずだ。
隼人が私のメールを無視した、という可能性は限りなく0に近い……いや、0だろう。
あの時の皮が剥がれ指をあらぬ方向に曲げられた隼人の姿が、不意に私の脳裏をよぎった。
隼人の身に何かが起きたことは明らかだった。
私は研修先に弟の容態が悪化したと伝え、研修を早めに切り上げる。
あれ以降メールどころか電話も繋がらない。
病院の受付に電話をかけると、慌ただしい物音とともに折り返し掛け直すと告げられ、一方的に切られてしまった。
「折り返す必要なんてない! 繋ぎっぱなしにしといてよ!」
行き場のない焦りを感じながら、私は東京行きの新幹線に乗り込んだ。
すぐに電話に出れるよう、デッキに立ちながら連絡を待ち続ける。
床の振動がやけにお腹に響き、視界がクラクラしてくる。
だが、直後に病院から聞かされた話はそれ以上に重く響いた。
『隼人くんから一時退院をしたい、と申し出があったそうです。体調面は問題ないものの、付き添う保護者がいないため、許可は出さないつもりだったらしいのですが。
その、隼人くんのお母さんが、彼に付き添うと言われまして。IEAの監視もつけるそうですし、何より隼人くん本人からの申し出だったので許可したそうです』
思わず携帯を叩きつけそうになり、すんでのところで抑える。
隼人を虐げた張本人である母を付き添いとして認めた?
余りにふざけた物言いに我を忘れそうになる。
身体の震えが車内の揺れによるものなのかも分からないまま、私は必死の思いで神に祈った。
「神様、お願いします……隼人を守ってあげてください……」
◇◇◇
あの時の光景は臭いから感触、聞こえた音まではっきりと覚えている。
病院で飲まされる薬は眠くなるものばかりで、頭にはいつも靄がかかっていた気がする。
だから、なぜそんなことを言ったのか、自分でもよく覚えていない。
多分、虚ろげで死人のような義母の顔が『可哀想だな』と、思っただけ。
そして浮かんだのはあの家――家族が帰るべき場所のこと。
だから俺は言ったんだ。
「辛いなら、あの家に帰ろう」って。
でも、義母の帰る場所はそこではなかった。
歩くのに苦労しながら、見知らぬお姉さんに手を引かれて帰った我が家は、随分久しぶりに思えた。
義姉は、メールの容量いっぱいを使った長文で今日帰ることを強調していたから、久しぶりに我が家に家族が揃う。
溶けたような思考の中でも、それは凄く幸せに映った。
一ヶ月ぶりの我が家は、泥棒に入られたかと思うほど荒れていた。
付き添いでいたお姉さんはいつの間にやら姿を消してしまい、家には俺と義母だけが残される。
それまで放心状態だった彼女は、何かを求めて散らかった部屋を漁り始めた。
銀のライター、タイピン、万年筆。
これらは、全て父の愛用品だ。
彼女はそれらを眺めて、静かに嗚咽を漏らし出す。
暫くそうして肩を震わせていると、突然バッと顔を上げ、おもむろに視線をこちらに向けた。
黒いシミのような義母の瞳。
彼女がこちらに歩みを進める度に、そのシミが大きくなっていく。
「……お母さん?」
ばちん!
平手で頬を叩かれ、肩をガッと掴まれる。
「お母さんなんて呼ばないでしょ……? いつもみたいに春香って呼んで?」
突然の出来事に、ただでさえ働かない頭がショートする。
触れ合うぐらいの距離まで顔を寄せられ、肩に食い込んだ指はその力を増していく。
俺は目の前の真っ黒な瞳が怖くて、だけどそれに囚われ身動き一つ取れなくなってしまった。
永遠にも思える静寂の後、声も出せない俺に向かって母は吐き捨てるように呟く。
「あなたには、それしかない……透さんの代わりになんてなりやしない。あなたにあるのは……透さんと瓜二つのその顔だけだから」
呪詛のような義母の呟きを聞き、俺はなぜ自分の頭に靄がかかっているのかをようやく理解した。
耐えられなかったのだ。
母が自分を代替品としか思っていないことに。
剥がれた爪、焼き跡が残った肌、曲がった指、どの仕打ちよりその事実が何より痛く、辛かったのだ。
靄が晴れ放心している俺を、母が抱きかかえようとする。
なんとか抵抗しようとするも、入院生活で衰え切った筋力ではほとんど無力に等しい。
椅子に座らされ、ロープで身体を縛られていく。
身動きがとれないようきつく固定され、母は何かを取りに姿を消す。
思考力が戻ってきた分、母にされた行為がフラッシュバックで蘇る。
「い……いやだ! 痛いのはやめて……熱いのもいやだ……!」
戻ってきた母の手には、新しいロープと死体の瞳孔を確認するため瞼を開いた状態で固定する開瞼器が握られている。
「嫌なの?」
「い、いやです」
「そう」
母は俺の瞼に器具をあて、慣れた手つきで瞼をこじ開け固定していく。それまで受けた拷問の数々が呼び起こされ、身体が震え出す。
母はそれに気づくと、笑みを浮かべ頭を優しく撫で始める。
「大丈夫。今日のはね、痛くも熱くもないの」
母は椅子をもう一つ用意して天井にロープを掛け始めた。
外気に晒され乾きゆく瞳の上に涙の膜が覆っていく。
「隼人は優しい子だね……こんな母親でも泣いてくれるんだ」
垂れたロープの先に作られた輪っか、母はその中心に首を通していく。
俺は必死に顔を背けようとするが、視界はビクとも動いてくれない。
「その透さんの顔で……私の最期を見届けて。私も最期は、透さんを見て逝きたいの……!」
きっとこの先どんな綺麗な景色を見たところで決して上書きできないであろう、最悪の光景。
人生のアルバムの中央に居座り続ける忌まわしき思い出。
目の前でもがきながら絶命していく母の、その全てを、俺の視界は残さず記録し続けた。
死は物語のエンドロールには成り得ない。
――そう、少なくともこの世界では――
物語の続きを必死に映し出そうと、乾燥した瞳に涙が止めどなく送られていく。まるで最期まで見届けろと言うかのように。
すると、脱力しきった母の身体が突如不随意に跳ね上がる。
喉元に浮かんだ十字架が、何が起きたのかを如実に語っていた。
還ってきたのだ。
レヴェナントは殺人欲求を基盤に、脳裏に強く刻まれた思い出や未練に従って行動する。
だから、俺は思った。
もう、殺してくれないか?って
でも目の前のレヴェナントは、俺の顔を軽く一瞥して――特に興味も示さずその場を去っていく。
そいつにとって、彼女にとって、俺という存在はそこらの一般人と変わらない、いやそれ以下だったのかもしれない。
ただそれだけのことなのに、さっきとは違う涙が頬を伝った。
溜まった涙があらゆる光を曲げ、世界の実像を屈折させていく。
その日、世界は壊れてしまった。
◇◇◇
扉を開けると、まず不快な異臭が鼻腔をついた。
廊下には、足を引きずり彷徨う人影。
私はその顔を軽く一瞥して、この場所で何が起こったのかすぐ理解した。
「ゥゥ!……透さん……!」
目の前にいるかつて母だった存在。
憧れ、尊敬、嫉妬……彼女に抱いた感情は様々だったが、今はただ気持ち悪いとしか思えなかった。
いや、正しく言うならば、奥にいるはずの人物以外は等しくどうでもいい。
私はリビングへ向かうのに邪魔だったため、そいつを足で蹴り上げた。
「ッ! ゥゥ……」
呻き声を上げ転がっているそいつは、余りに惨めで哀れだった。
気に障ったので、ARの刻印が施された手持ちの銃でそいつの喉元を撃ち抜いた。
邪魔者を始末し、リビングの扉を開ける。
「……隼人っ!!」
椅子に縛り付けられていた隼人は、瞼を器具で固定されていた。
目は痛いほど真っ赤に充血していて、その焦点はどこにも定まっていない。
「ごめん…ねぇ……また、守ってあげられなくてぇ……!」
瞼に着けられた器具をすぐに外して、身体を縛るロープを解いていく。
隼人は意識も虚ろで、拘束が外れるとすぐ私の肩に身体を預けた。
私は脱力し切った隼人の身体を壊れないよう優しく抱きしめる。
「もう絶対に離さないから……私だけは、あなたの家族で……いる……から、ぁ――」
腕の中でピクリと僅かに身体が動いた。
「……お姉ちゃん……?」
「隼人……ごめんね、もっと私が近くにいるべきだった。今日ここであったことは全部忘れて……? 隼人の家族は私だけ。だから、ね?」
腕に収まる隼人の髪を優しく撫で、悪い夢を見た子供をあやすように静かに囁く。
それに応えて隼人が首を僅かに動かす。
隼人の黒い瞳がその日初めて私を捉えた。
「――なんで……?」
一瞬、何が起こったのか理解できなかった。
私の身体は隼人によって突き飛ばされた。
突き飛ばした当の本人も困惑した表情を浮かべている。
「違う、そんなつもりじゃ……」
それっきり隼人は顔を背け、黙ってしまう。
私は何かの間違いだと思い、もう一度隼人の側に寄る。
「隼人…?」
しかし、隼人は一向にこちらを見ようとしてくれない。
ただ肩を震わせ苦しそうに俯いている。
私は自分の顔に手を当てた。
「もしかして、私の"顔"?」
小さい頃から母に瓜二つだと言われた私の顔立ち。
子供の頃はそれが何よりの褒め言葉で、言われるたびに頬を緩めた。
だけど今の隼人の眼にはどう映っているのか。彼の表情がその全てを物語っていた。
「あぁ……そんなことって」
私と隼人の関係は、母の死をもって"姉弟"から"嫌悪されるべき対象"へと変わってしまったのだ。
今の私は隼人にとってのトラウマであり、拒絶すべき存在。
その事実に気づいた私は、力なく膝をつき慟哭を上げた。
『愛さえあれば――』
あの日誓った確かな決意。
それがいま悲痛な響きを帯び始めていた。
◇◇◇
時計の針が急速に動くような感覚を覚えた。
時刻を見れば既に一時間近くが経過しており、そろそろ隼人が来てもおかしくない頃合いだろう。
私はデスクの上に無造作になった書類の一部を手に取った。
『ニンファエア』と『サーシス』。
かつて母が夫――久遠透を蘇らせるため隼人の身体を実験台に試行錯誤をした結果、誕生した劇薬。
身体に擬似的なレヴェナント現象を起こすことで超再生を可能にする『ニンファエア』と、その抑止剤である『サーシス』。
学名はIEAが名付けたもので、和名で睡蓮を指すニンファエアは、"信仰"という花言葉を有している。
対してサーシスは花蘇芳、花言葉は"裏切り"、"不信仰"だそうだ。
あの事件の後、私は隼人と距離を置く決断をした。
義姉と一緒に居ることが苦痛になってしまった弟と、その事実に耐えられない義姉。当然の結果だった。
久遠透の古くからの友人でお寺の住職を務める白仁田惟人。彼が隼人の里親として名乗り出てくれたため、隼人は彼の元で生活を始めた。
一方で、科学者としての久遠凛花は順調に花を開かせていく。
母の研究を正確に辿った成果が認められ、私は国内で唯一のニンファエアとサーシスを取り扱う専門家となる。
私と隼人の関係性は、いつの間にか科学者と被験者になってしまっていた。
結局、私たちの人生は纏わりつく運命の輪廻から逃れられないのかもしれない。
母と同じ職を選んだ私と同様に、隼人もとあるきっかけからエンバーマーの道を目指し始める。
あの時は、それを許した白仁田と激しい口論になった。
けれど浮き足立つ自分がいたことも事実で。
隼人がエンバーマーの仕事に就くならばきっと私を必要としてくれるはず、そんな卑しく淡い幻想が頭を過ってしまったのだ。
ピンポン!と電子ベルの音が鳴る。
インターホンから自動施錠を解除してしばらくすると、隼人が部屋に姿を現した。
高校生になった隼人は、あの頃と比べて随分背も伸びた。
引き攣った笑みを浮かべるその顔はまだ幼さも残しているけれど。
生涯消えることのない傷跡と、それを無意識に感じてしまうことで抱く私への罪悪感。二つの感情がせめぎ合い、無理に笑顔を作ろうとしている。
だから、私は瞳から感情を消して距離を詰める。
「隼人。今日何時までに来るよう、言ったっけ?」
無機質な問いかけに、隼人の肩が微かに震える。
「……18時に来てくれればいいって」
「それで今の時間は?」
私が指差すのは部屋に掛けられた時計。
それを見た隼人はおかしいといった表情で、目を細めた。
「19時!? いや、おかしいよ! さっき携帯で確認した時は、まだ18時を回っていなかったはず」
パチン!
私の平手と隼人の頬が強く交わる。
「言い訳はやめて。一時間も遅れて見苦しいよ」
頬を打たれた隼人は一瞬だけ私を睨めつけ、恨めしそうに頭を下げる。
「……ごめんなさい」
ぶっきらぼうに呟くその声には納得のいかない苛立ちが混じっている。
それもそうだろう。
この時計は隼人が来る少し前、私が一時間進めたのだから。
今日みたいな理不尽で最低な仕打ちを、私は隼人に幾度も繰り返している。
おそらく隼人は激しい嫌悪と失望を感じているはずだ。
でも、そうあるべきなのだ。背負う必要のない罪悪感なんて捨ててしまえばいい。
感情なんて持ち込まず、ただ手前勝手に私を利用してくれればいいのだ。
指から爪先まで流れる私の血液は一滴残らず隼人のもので
胸を打つこの鼓動は、その響きを止めるまでただ一人隼人の為だけに鳴っているのだから