第26話「ニンファエアとサーシス(下)」
翌日学校で私を待っていたのは、昨日の顛末を知りたがる友人達からの質問攻めであった。
どうやら流言飛語、様々な悪評が広がっているようで、聞くところによれば、久遠は高飛車で性格が悪く、その上援助交際をしていて、極め付けはショタコンのブラコン女だとか。
言われている張本人は別段気にもならなかったが、友人の一人――風張 嵐子はそうではなかったようだ。
「ごめん、凛花……あたしが焚き付けるようなこと言っちゃったから」
「ううん、元々断るつもりだったんだし、別に気にしてないよ」
「でも酷い噂まで広められて……」
「根も葉もない噂なら、すぐに収まるから大丈夫」
所詮噂は噂。地面に根付く根拠がなければ、忽ちに枯れてしまうだろう。
あの先輩の性根の悪さにはほとほと呆れてしまうが、裏を返せば、自分の判断に間違いはなかったということ。
私はそう割り切り、手を叩いて質問タイムを終わらせにかかる。
だがまだ納得がいかないのか、嵐子がこんなことを口にする。
「でも凛花がショタコンでブラコンっていうのは、意外と間違っていない気が――」
無意識、私の手が嵐子の胸ぐらに。
「……別に私、ショタコンでもブラコンでもないよ」
「あのね、ショタコンはないにしてもブラコンの気はあると思うの――ごめん凛花、痛い……」
私は嵐子の胸ぐらから手を放し、はてと首を傾げる。
心当たりはない。
周りを見渡せば、察したような表情がちらほら。
「……どこらへんが?」
私の拘束から解放された嵐子は、少しばかり意地悪い笑みを湛えて、ピシッと指をこちらに向ける。
「昨日凛花、私にLINEで写真とメッセージ送ってきたじゃない?」
「うん」
「あれとか典型的なブラザーコンプレックスだと思うんだよね」
昨日彼女に送ったLINE。
たしか落ち込む隼人の写真を送った覚えがある。
鍵を失くしたことで私が怒っているように見えたのだろう。こちらをちらちら伺いながら項垂れている隼人の姿が非常に可愛らしく、ふと誰かと共有したくなったのだ。
突然のシャッター音に驚く隼人の姿もまたツボに嵌り、気付けば軽く撮影会が始まっていた。
しかし、何を言われるかと思えばそんなことか。
「あれはただのお裾分けだよ」
「その発想がおかしいのよ。普通の姉は、弟の写真をお裾分けしようとは思わないでしょ? それに、一緒に送られてきたメッセージもかなりやばめだよ。
『悲しそうな隼人の表情、可哀想だけど可愛い』
いや可哀想だよ、隼人くん! 明らかに変な愛情のぶつけ方されて、絶対凛花のこと怖がってるって!」
嵐子の的外れな言い分に、私はやれやれと首を振る。
彼氏持ちの癖して、このいじらしさが解らないとは。
嵐子の彼氏の為にも、ここは一つ説法をしてあげよう。
「嵐子は、よく彼氏にお弁当作ってあげてるよね?」
「うん、流石に毎日ではないけど……」
「好物はハンバーグだっけ? 毎回入れてるもんね」
「入れないとうるさいからねー。まあ、美味しそうに食べてくれるから悪い気はしないけどね」
「……浅い」
「はい??」
嵐子は何を言われているのか理解できないという表情でこちらを見つめる。
「私も、毎日隼人のお弁当作ってあげてるんだけど、作る上で私なりの決め事があるの。それは、隼人の好きな食べ物は絶対に入れないこと。苦手なブロッコリーとかは結構入れるんだけどね」
「もっと栄養バランスを考えて、ってこと?」
「――違うよ。だって好きな食べ物なら、誰が作ろうと関係なく食べてくれるでしょ? 逆に嫌いな食べ物でも残さず食べてくれるのは、その人がお弁当の中身よりも作った人を見てくれてるってこと。ちなみに隼人はいつも空っぽにしてくれるよ」
最後、少し自慢話のようになってしまったが、嵐子にも私の言わんとしてることは伝わったはず。
そう思ったのだが、嵐子の表情、いやそれどころか周囲の空気までもがさあっと引いていく。
そこで、私は自分の失態に気付く。
――毎日弟にお弁当を作ってあげるというのは、流石にやり過ぎだったかな。
「愛が重いよ……胃もたれしそう」
「油物は極力控えてるから大丈夫だよ」
「はいはい。隼人くんまで食べちゃ駄目だよ、流石に犯罪だからね」
「な……! そ、そんなことするわけないじゃん!」
まるで私を盛りのついた色情狂のように扱う嵐子の物言いに、つい声のボリュームを間違えてしまう。
教室中から注目が集まってしまい、自分でも顔が火照っていくのが分かった。
だって余りにも脈絡がなさ過ぎて。
……隼人とそんなこと……
「――凛花、まじで犯罪だからね?」
***
隼人が我が家にやって来て、既に一年が過ぎていた。
出会った頃はまだ小学生だった隼人も、つい先日晴れて中学へ進学。
グレーのスラックスを履き、上は白のワイシャツと紺のブレザー、胸元にはチェックのネクタイが結ばれている。
少し大きめのサイズで注文したせいで、その姿は着ているというより、着られているという表現の方がしっくりきている。
朝御飯の準備を進めている私をよそに、隼人はさっさと出かけ支度を済ませていく。
「隼人、朝ごはんは?」
「今日は日直で早めに行かなきゃいけないから、いらないよ」
「日直って何するの? そんなに早く出なきゃいけない?」
「日誌取り行ったり色々あるんだよ。だからごめん、もう行くね」
そう言うと、隼人はそそくさと家から出て行ってしまう。
むやみやたらに嘘をつく子ではないので、日直当番というのは本当なんだと思う。
ただ隼人が朝御飯も食べずに急いで出掛けたのは、恐らく別の理由だ。
多分会いたくない――いや、会うのが怖いのだろう。
そんなことを考えながらお皿を並べていく。隼人が行ってしまったので、二枚ずつ。
ガチャ、と二階の寝室のドアが開く音。
降りてきたのは、母――久遠春香だ。
最近はずっと研究室に引きこもりっきりのようで、眼の下には大きな隈が浮かび、まるで生気が吸い取られたような顔つきをしている。
「お母さん、まだ寝ててもいいんじゃない? 徹夜続きだったんでしょ?」
最近の母は、何かに取り憑かれたように研究にのめりこんでいる。
結婚前の研究者――久遠春香は私の憧れの存在であり、私もその後を追うように母と同じ阿僧祇大学へと進学を決めていた。
しかし、そんな母の最近の研究への熱は、明らかに度を超えていた。
体温でいえば42度――体内の細菌やウイルスを撃退するだけでなく、蛋白を変質させ、人体の細胞すらも壊してしまうデッドラインだ。
今の母は、そのデッドラインに近づいている状態なのかもしれない。
母は私の問いかけには答えず、おもむろに席に座る。
「凛花、あなた大学はいいの? 阿僧祇は厳しいからちょっと休めば、すぐに授業について行けなくなるわよ」
「今日は、一限が空きコマだから大丈夫だよ」
「そう、透さんに余計な心配かけさせちゃ駄目よ」
「………………」
いま言わなければならないと思った。
これでも血の繋がった実の母親なのだ、看病するぐらいの気概は持ち合わせている。
……だから、熱は冷まさないといけない。
「あの人が私の、いや私たちの心配なんかしてくれるわけないじゃん。お母さんだって本当は気づいてたんでしょ? あの人は自分のことなんか見ていないって。あいつが見てるのは、亡くなった前の奥さんだけだよ。
だから、お母さんに近づいた。レヴェナント現象と人体、その二つの結びつきに最も精通しているであろう研究者――久遠春香に。
お母さんは、利用されてるだけなんだよ? あの男のふざけた幻想に付き合わされて、それでお母さんは何を得られるの!?」
私がこの一年間、胸に溜め続けていたもの。
それは、今の久遠家を久遠家たらしめる大きな歪みだ。
それでも我慢できたのだ。でも、今は――
母は、ただ静かに無表情に私の叫びにも似た言葉を聞いていた。
そして、笑う。
「――凛花、よく聞いてね。私は、あの人を愛しているの。たとえ利用されていたとしてもね。きっと透さんは、亡くなった奥さんに帰ってきて欲しいと思ってる、まだ奥さんを愛し続けている。だから、私も手を貸すの、彼が納得するまで。いいえ、前の奥さんが帰ってくるまで。それでようやく対等に戦える。
――だって勝ち逃げなんてずるいじゃない?」
母の笑顔は、私にも見覚えのあるものだった。
嵐子たちと何ら変わらない、そこにいたのは、一人の恋する女性。
髪はボサボサだし、顔には大きな隈が浮かんでいて、化粧もろくにしていないはずなのに
――それでも母は輝いていた。
……気に入らない。
輝きたければ勝手に輝けばいい。
だけど光ってる奴らは、その裏側で必ず影を落としていく。
巻き込むな。
隼人を巻き込むな。
純真だったあの子も、一年過ごせば分かってしまう。
母が自分を求めていないことを。
だから、私は母を、この女の熱を冷まさせようと思ったのだ。
「………………」
でも、反論の言葉が私の口から出てくることはなかった。
だって隼人があの男の息子であることは事実で、私と隼人は血が繋がっていない。
だから結局、母が向ける一方通行の愛こそが、私と隼人を繋ぐただ一つの架け橋なのだ。
それが冷めれば、私と隼人はただの他人だ。
情けなくて泣きそうになってくる。
今の隼人を救えるのは、私じゃない。
亡くなった奥さんの亡霊を断ち切れるのも、母しかいない。
隼人にとって唯一の肉親である久遠透、彼を救わなければ、隼人は幸せになれない。
私には……その資格も力もないのだ。
「大丈夫よ、凛花。私は必ず実験を成功させて、あの人の一番大切な人を蘇らせる。そして、あの人を本当の意味で手に入れてみせる。その時、きっと凛花も隼人も幸せになれるわ。だから今は、許して。あなたの大切な隼人を悲しませることになっても」
死人を蘇らせる研究など非倫理的で、それは科学者である母にかけられている期待への裏切りに他ならない。
仮に亡くなった奥さんが蘇ったとして、それはただのレヴェナントではないのか。
その時、母はどうするのだろうか? もう一度殺した後、告白でもするのだろうか?
狂ってる。どうしようもなく狂っている。
でも…………私には、止められない。
知らないのだ。
研究への熱意だけなら、デッドラインは避けられたかもしれない。
でも、これは恋の熱病。
――治し方を、私は知らない。




