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死体蹴りが必要になった社会  作者: ごんの者
3章
25/29

第24話「ニンファエアとサーシス(上)」

【――侵食率24.8% ボーダーラインを大幅に超過しており、生き還りの…………】


 書類をデスクに置き、壁にかけられたデジタル時計へ視線を移す。

 何度見たところでどちらの数字も変わらない。


「……まだ一時間もあるのね」


 普段は殆ど気にしたこともないが、今日ばかりは手鏡が離せない。鏡の向こうの久遠 凛花(ひさとお りんか)は、少しばかり疲れた顔をしていた。

 もう少し睡眠時間を取れば良かったと後悔するも、すぐに思い直す。あの子は、支えてあげたくなるような女の子に惹かれる節があるからだ。


 一週間前、隼人がこの研究室を訪れた。

 隼人がここに来る理由など一つしかない。

 『ニンファエア』と『サーシス』を使ったのだ。

 もう一度書類に目を通す。

 どす黒い感情が胸の中で渦巻くのを感じる。抑えきれないこの感情の矛先は「あの女」に向けられている。


 私と隼人は血の繋がりがない義姉弟だ。初めて隼人と顔を合わせた時のことは、今でも鮮明に覚えている。


 ***


「……あなたが僕のお姉ちゃんになるの?」


 ファミリーレストランの四人掛けのテーブル。その向かい側にいる男の子が、こちらを見ながら少し遠慮がちにそう言った。

 私はそれには答えず、ストローを咥える。見かねた母親が助け舟を出した。


「……そうよ! 私が隼人くんのお義母さんで、凛花がお義姉ちゃんになるのよ」


 母は優しげな笑みを男の子に向け、こちらに目配せをする。

 もう少し愛想よくしなさい、という意味の込められたものだったが、私はそれを跳ね除けた。

 目の前の男の子は、小学五年生ながら礼儀正しくちょこんと座っている。

 時折お店の入り口を気にする素ぶりを見せながらも、文句ひとつ言わずに母の話を聞いていた。

 私は咥えたストローを離して隣の母に声をかける。


「お母さん、"新しい"お父さんまだ来ないね。こんな小さい子を一人お店に寄こして、当の本人は遅れて来るって大層なご身分だね」


 あからさまに悪意の込められた発言に、母が剣呑な視線をこちらに向ける。

 だが隼人くんがいる手前、雰囲気を悪くしたくなかったのだろう。すぐに笑顔の仮面を貼り付けていた。


「ごめんなさい……お父さん、お仕事が忙しくて遅れちゃうみたいで……」


 隼人くんが申し訳なさそうに謝っている。

 ……本当によくできた子だ。私はこの日初めて隼人くんに話しかける。


「あなたが悪いわけじゃないよ。悪いのは私のお母さんとあなたのお父さん」

 

 それを聞いた母が、バン! とテーブルを叩いて声を荒げた。


「ちょっと、凛花!! あなたいい加減にしなさい!」


 手元のカップが倒れ、黒い液体がテーブルに広がっていく。

 母は慌てて近くのお手拭きでそれを拭こうとするが、まだほとんど口にしていなかったので拭き取れる量ではなかった。

 お手拭きが真っ黒に染まり、やがて黒の液体が滲み出ていく。


 その原因を作った私は他人事のようにそれを見つめて、まるで今の私たちのようだなと思っていた。

 隼人くんの方に目を向けると、彼もまたこちらを見ていた。


「あなたは嫌じゃないの?」


 母が店員を呼ぼうと席から立ち上がっていくのをよそに、私は彼に少し踏み込む。

 もちろん彼の事情も知っていて、母からはそれを連想させるような話すらしてはいけないと釘を刺されていた。

 隼人くんは少し困ったような表情を浮かべた。小学五年生を困らせる女子高生。みっともないにも程がある。


「不安なことも多いけど。……嫌じゃないよ。お父さんは仕事で忙しくていつも家には僕一人なんだ――だからお姉ちゃんが出来るのは嬉しいよ!」


 けれど、彼は花が咲いたような笑顔で言った。

 そして不安そうな表情を浮かべる。


「お姉ちゃんは嫌なの……?」


 テーブルに広がる黒の液体。だけど、彼の周りにはそれが届いていなかった。


「嫌だけど、嫌じゃないことも一つできるかも」


 目の前の男の子は、なんだかよく分かってないみたいだったけどそれでも笑っていた。

 でも、私は致命的に間違えていたのだ。

 止まった液体はそのテーブルが傾けば再び動きを始めるということを。

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