偽りに溺れる
「今日ね。銀座にある占いに行ってきたのよ」
―――夕飯時。妻のこの科白に、味つけがしてあるはずなのに味のしない味噌汁を啜りながら、またかと僕は憂鬱な気分になった。
この話をする彼女の目は、嬉しそうにしながら笑ってはいるが薄暗い。
「よく当たるって、評判なのよ。そこでね、沢山褒められたの。今までよく頑張りましたね。偉いわねって」
弾む声は親に評価された子供のような調子ではあるが、その瞳の光は歪み曇っている。その理由をよく知っているだけあって、僕はただ黙って聞いていることしかできない。
「仕事も家事も一人で頑張って、家計簿だって毎日きちんと付けて、料理だって手抜きしなかったものね。私ってね、すごく頑張り屋でしたねって。言い当てられちゃったのよ」
もう一ヶ月もこの調子だ。うんざりする―――だなんてこと、喉から出かかっても言ってはいけない。
「私のこと、他人に対してとても誠実で、愛の人ですって。嘘をついたりできない、とても素敵な女性だって。……ねえ。聞いてる? さっきから黙っているけど」
相槌もせずいつも通り無言を貫いていると、笑顔のままで小首を傾げる妻。昨日は相槌を打ってやっていたら、適当に聞いてるフリしてんじゃねえと目を吊り上げキレたのに。
そうぼやきたかったが、それを口に出せばまた修羅場が待っていることは間違いない。だから「聞いているよ」とだけ、僕は答えた。
「本当に聞いているの?」
「……聞いてるよ」
「聞いてないでしょう」
「聞いてるって」
「嘘。貴方いつもちゃんと聞かないじゃない」
「聞いてる」
「嘘よ」
嗚呼、またこのやり取りが始まってしまった。こうなるともう、妻は止まらない。でも彼女がこうなってしまった原因が自分にあることを考えれば、どうしようもない。
「貴方、聞いてくれたことなんてなかったじゃない」
「……それは、悪かったよ」
「どうして話し合いになる度逃げたの」
「悪かったって」
「悪かった? 過去形?」
「……悪いと思ってる。今でも」
俯いた僕の瞳に映る、テーブルの汚れ。醤油の跡らしきそれは今朝のものなのだろうか、昨日なのか。そんなものは覚えていない。
そんな些細な汚れさえも嫌っていた家内だったのに。シンクには今朝使った皿が積み重なったまま。そういや脱衣所の洗濯物も山だったか。
つい、溜息を吐いてしまう。そしてその直後、しまったと慌てて口を閉ざし顔を上げた。予想通りの、妻の表情は
「……なあに? その溜め息は」
最初の言葉はワントーン高く、区切った後に一気に低く。
「いや、なんでもない……」
「いいのよ? 言ってごらん?」
「怒らないから」と子供に嘘をつく母親のように、どこまでも声だけは優しい。しかしここから妻の怒りをどう回避できるのか。付き合い結婚にまで至った僕にもさっぱりわからない。それでも振りかかる被害だけは極力少なく。
そう努めて僕は瞳を泳がせ焦って言葉を探す。
「僕が悪かったのは、わかってる。本当にごめん。
浮気したことは本当に、何をしても許されないことだとわかってる」
「……」
「でも、貯金を切り崩して占いに行くのはもう、やめてもらえないだろうか。
僕達そろそろ三十すぎるし、子どもだって、出産費用―――」
「あ゛?」
水が飛んできた。しかもグラスごと。新婚旅行のときに僕のものと揃いで買ったグラスが、音を立てて割れて床に散らばる。
「……また浮気する気?」
「……え?」
「浮気するんでしょう」
「なんでそんな」
「今度は何? 私が妊娠したから? そういう口実で? え?」
「……い、いや。そんなことしないよ」
「嘘つきが!!」
恋人時代一度も聞いたことない怒号を上げて、妻は立ちあがりテーブルをひっくり返した。
見たことない。知らない。こんな女は。しかしこの女を生み出したのは、残念ながら僕であるという事実から僕は逃げられない。
「くそがぁ!!」
僕の髪を小さな両手で掴みあげ、力一杯壁に僕の頭を打ち受ける。
そんな小さな華奢な身体のどこからそんな力が出てくるのだろうと、心のどこかで他人事に思う自分がいた。
かけていた眼鏡が落ちる。嗚呼割れている買い換えないと。
「私が! 一体! 誰のためにいい! 毎日い! うああああああああ!!」
テーブルに乗っていた皿を次々拾っては投げつけてくる。僕の身体はソースやドレッシングに汚れて、また風呂に入り直しだ。 妻の叫んでいる内容は、僕には嫌というほど理解できた。何故なら、仕事も家事も完璧すぎて、身体が休まらないと妻に離婚を二文字を口から出したのは僕のほうだったから。
気軽で奔放でちょっぴりいい加減な浮気相手が可愛く見えた。逆になんでも完璧な妻が、嫌みで生意気に見えた。面白くなかったのだ。だから一ヶ月前、別れを切り出して浮気相手の彼女と一緒になって新しいスタートを切るつもりが、まさか彼女に逃げられるとは思いもしなかった。ベッドの中で愛の言葉を囁きあっていたはずの彼女は、誠意を見せた僕に背を向け消えた。結局偽りに溺れていたのだと気付いた僕は愕然として、離婚の申し出を取り消し再構築を選ぶ他なかった。
浮気相手と別れたら、また同じ、妻と二人きりの平凡な日々の繰り返し。そう思い込んでいた僕に待っていたのは、今までとは真逆の生活。
用意されていない弁当。皺だらけのシャツ。積み重なった洗濯物。汚れたまま放置された食器。惣菜だけの夕飯。ぼんやりとして、たまにスマホをいじったりなどしている妻を咎めれば、出会ったことのない冷たい顔で鼻で笑われた。「完璧な女は堅苦しくて嫌なのでしょう」と。それを言われたときは、夢の中にいるような心地だった。まさかあんなによくできた妻が、あの日を境にここまで変わってしまうとは想像しなかったからだ。
そして最近の彼女は、占い師に貢いでいる。いつか子どもができたときのために働き節約し貯めていた金をおろしながら。完璧な家事が当たり前だと決めつけ、認めたり褒めることなど一切しなかった僕の代わりになる人間を求めて。しかも相談する相手は皆別人で、占い師と名の付く者に対し片っ端から新規の客とし訪れては、僕との関係を涙ながらに話し、「頑張ったね」、ただその一言を聞くために、理解者を金で買っている。
それに気付いて、今更ながら精一杯褒める努力を始めてみると、「何もかも遅い」、「本当はそう思っていないくせに」と薄く笑われた。「そんなこと言ったら、占い師だってそうだよ。君が良い金づるだから言ってるだけだ」と言ってやったら、包丁を片手に追いかけ回された。仕事帰りの土産にケーキや花を買っても目の前で捨てられ、いつしか妻は、占い師に何を言われたのか。どう褒められたのか、そればかりを口にするようになり今この状況に至る。
本日二度目の風呂から上がると、ひっくり返されたテーブルも、汚れた床など見えていないかのように妻は食卓の椅子に腰かけスマホをいじっていた。また口から漏れそうになる溜め息を慌てて呑みこみ、気配を殺して水分補給に向かう。そこからすぐに部屋に戻りとっとと寝てしまおうと目論んだ僕だった。が。最近、ぼんやりとした妻が珍しく何やら熱心にスマホを操作していることに気付いて、床に散らばった夕食を踏まないよう気を配りつつ、さりげなく、彼女のスマホ画面をちらりと覗いた。
『カトリーナ先生、ありがとうございます。私は最近夫に浮気され家事も仕事も―――』
こんな最初の文章だけですべてを察した僕は、ああ、見なければよかったと早足で逃げた。
反省していないわけではないけれど。浮気相手と付き合っていた頃はあんなに疎ましかった仕事の時間が、今ではこんなに恋しく感じるとは。
しかも明日は休日だ。なにかあって、突如出勤にならないだろうかという淡い期待をしてしまう。そうでなければまた、占い師にどう褒められたかを延々と聞かされることとなるのだろう。
部屋に戻っても、浮気相手と別れた今、嘘のように静かになった僕のスマホは、沈黙を守り続けている。上司から連絡が来る気配がなくて、ようやくずっと溜めていた溜め息を長く長く吐き出す。
嗚呼。今のこの自分の状況も、すべて偽りだったらよかったのに。すべて、嘘だと叫びたい。
浮気相手の偽りに溺れていた自分。偽りの理解に溺れる妻さえもすべて実は夢か何かで、今自分は偽りの海深くから抜け出せず、長い悪夢を見ているだけなんだ。
きっとこの偽りから覚めたらまた、付き合っていた頃と変わらぬ優しい笑顔で妻が自分を見送り、仕事が終われば同じ顔で自分を迎えてくれるに違いない。
そんなことを願いながら、気付いていたら部屋で眠っていた自分の横っ面に、痛みを感じて飛び起きる―――翌朝。
離婚を切り出された時のフラッシュバックを起こした妻の、ギラギラとした赤い瞳に、僕は目の前の現実に首を絞められた。