第五章 Interlude(6)
けろりと告げる。
「忘れた?」
聞き返すアンジェラに、男は緩やかに頷く。
「ああ、忘れちまったよ」
「家族のことも?」
「おう」
「パパとママのことも? 楽しかったことも嬉しかったことも?」
「ああ」
オールドは片目を細める。逆光で何かから目を背けるように、難しい顔をしていた。
「全部綺麗に、消し去ったさ。色々あったからな」
色々あった。
その中にどれほどのものが詰められたのか知る由もないアンジェラだったが、踏み込んではいけない境界線だと察したらしい。「そう」と呟き、大人しくなった。
「一つアドバイスだ」
オールドが喋る。
「ルツボでこういった仕事をしている奴らは色々と難しいやつが多い。だから、安易に踏み込んだらドカン。なんてこともあるから気をつけな」
両の握り拳を素早く広げる。“ドカン”の爆発を表現した。
アンジェラが頷くことを確認し、オールドは顎でキッチンを指した。
「今日はもう遅いから、適当にパン食ってシャワー浴びたら寝ろ」
その日の晩、オールドは眠ることができなかった。
原因は至って単純。事務所兼家の中に、自分以外の何かがいることに違和感を隠せない為だ。
通常、依頼主を泊めることは有り得ない。本人は本人の家で暮らし、寝ることが王道だ。しかしアンジェラは両親が死に、誰も頼ることができない状態だ。この扱いは特例の、さらに特例。商売で言えば、“超特別待遇”と称しても差し支えないだろう。日中あれだけの騒ぎが起き、アンジェラが狙われていたのだ。このまま外に放り出すことも忍びないこと加え、依頼主が標的に直接意趣返しすることを望んでいる。死なれたら依頼は失敗。自分の評判に傷をつける事は避けたかった。
ソファで寝転がりながら、オールドは天井をずっと見ている。天井に何かあるわけでもない。ただ、何もすることがないから消去法的に天井のシミを数えているだけだ。
「――落ち着かねえ」
呟き、上半身を起こす。
事務所は広大なワンルーム。ベッドやソファ、机やキッチンも一部屋に収まっているため、少女の寝息が遮られることなく耳に届く。
ソファから離れ、コンポに向かって歩く。毎晩のお楽しみは、幼女の就寝の妨げを危惧して実施していない。
いつもならこの時間帯は、お気に入りのジャズを流しているタイミングだ。加えて酒を呷り、至上の悦楽を浴びているはずだった。
肩を落とし、ベッドへ。そこでは人形と見間違えるほど整った顔立ちの少女が、あどけない寝顔を晒していた。本当に人形かと思ってしまうが、規則的に上下する胸元がそれを否定する。アンジェラは、紛れもなく人間だ。
ベッドの脇に腰掛け、オールドは人差し指を幼女の鼻先へ。
「クソ面白い事を、持ってきてくれやがったな。まさか幼女を泊めるなんてことは想定してなかったがな」
は。と笑う。
そのまま数秒ほど適当にアンジェラを弄っていたところ、少女の右手が唐突に男の右手を掴んだ。
「!?」
オールドは反射的に、左手で自分の腰を探る。しかしナイフは遠く、この時ばかりは武器を持っていないことに安堵を覚えた。万が一ナイフを腰に差していたら、条件反射の要領で幼女をずたずたに引き裂いていたかもしれない。
肺が一気に収縮したような感覚を覚えながら、オールドは眉根を寄せた。
寝苦しそうに頭を動かせたアンジェラの口から、鈴のような声が転がる。
「パパ……」
オールドは、左手で自分の顔を覆う。
「おチビ、俺はお前のパパじゃねえぞ。ニコラスはもう死んだ」
起こさない程度に囁く。
「ママ……」
「性別をすり替えるな。俺は男だ」
右手を引き抜こうにも、少女の握力は存外強かった。無理矢理脱出した挙句起こすことも、できれば避けたい。
「三秒以内に放せ。手首折るぞ」
勿論聞こえていないことは承知の上だ。しかし、何か言わないと気が済まなかった。
三秒経つ。
少女の力は緩くなるどころか、一層強くなった。
アンジェラは苦悶の表情を浮かべ、自身の右手を強く引く。
「いい加減に」
「行かないで……」
九歳。そう見えない胆力や思考を持っていようと甘えたい盛りの年齢だ。その歳で前触れなく親を失い、心細いことは言うまでもないだろう。
深呼吸を三回。
腹の底から絞り出すように、オールドは呻いた。
「一時間だけだからな」
観念し、左親指で幼女の目尻を拭う。
「だから、寝てるときくらいは泣くんじゃねえよ」
実際に解放されたのは午前五時。男が寝不足に陥ったことは、言うまでもない。




